『フィルカルvol.1no.2』


分析哲学と文化をつなぐ」雑誌第2号
『フィルカルVol.1No.1』 - logical cypher scape2
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哲学への入門

  • 「自由論入門 第2回」(高崎 将平)

文化としての分析哲学
●特集シリーズ:分析哲学モダニズム

文化の分析哲学

  • 論文「キャラクタは重なり合う」(松永 伸司)
  • 論文「堀江由衣をめぐる試論」(稲岡 大志)
  • 論文「槇原敬之倫理学」(大谷 弘)
  • 書簡「「声優と表現の存在論」をめぐる往復書簡」(滝沢 正之、佐藤 暁)

翻訳

  • 翻訳論文「美学における理論の役割」(モリス・ワイツ)(松永 伸司 訳)

コラムとレビュー

要真理子「モダニズムの地平−ブルームズベリーのエクリチュール−」

冒頭で、ジュネットとバンフィールドの論争が紹介される
小説において、必ず語り手が存在すると主張するジュネット
話者不在の発話が存在すると主張するバンフィールドの対立だ。
この対立は、まずはフランス語と英語の性質の違いとして説明されるが、バンフィールドは、ヴァージニア・ウルフバートランド・ラッセルの共通点から、主体とは無関係な、対象それ自体の実在へと議論を映していく。
ブルームズベリーグループの作家、ヴァージニア・ウルフの小説と、同じくブルームズベリーグループに属していたといわれるバートランド・ラッセルの哲学とが、どちらも形式主義的なモダニズムとして展開されたこと、さらにそれがロジャー・フライの美術批評の影響を受けて形成されたのではないかということを論じている。
ウルフの自由関節話法
ラッセルの命題形式、センシビリア、パースペクティブ空間
フライのsignificant form

松永伸司「キャラクタは重なり合う」

高田敦「図像的フィクショナルキャラクターの問題」に対する応答
キャラクターを、D(ダイジェスティック)キャラクターとP(パフォーミング)キャラクターに分けて考える。
物語の中にいるのがDキャラクター
それを演じているのがPキャラクター
例えば、高田論文だと、マンガやアニメでは、目が顔の3分の1もの大きさがあるようにキャラクターが描かれているけれど、そのキャラクターは物語の中では普通の人間という設定なので目がそんなに大きいわけではないだろうという話が出てくる。Dキャラクターは、目が顔の3分の1も占めるような顔はしていない普通の人間で、Pキャラクターは、まさにそこに描かれた通りの目の大きさをしている存在ということになる。
これは、絵だけではなくて、普通のドラマとかにも当てはまる。俳優とキャラクターの属性はそれぞれ別に個別化できる。俳優の属性をすべてキャラクターが持つわけではない。


DキャラクタとPキャラクタの区別という、比較的簡単な概念を持ち込むだけで、高田の論じていたパズルだけでなく、キャラクタにまつわる様々な実践を説明できるというのが論旨。
面白いのは、最初に出てくる具体例が、しょうこおねえさんのスプーだったりするw
Pキャラクターは、物語世界の中にいるわけではないが、虚構的な存在である。Pキャラクターがいる空間を「キャラクター空間」と松永は呼ぶ。
キャラクター空間を持ち出すことで、以下のようなことが説明可能になるという。
(1)物語を一切背景にもたないキャラクターのあり方を説明
いわゆるゆるキャラについて
(2)キャラクターが個別の作品を越えて受容されうることを説明
(3)キャラクターの無時間的なあり方を説明
キャラクターの年齢が永遠に変わらないことの説明
(4)キャラクターが、人格よりも外見で個別化されることの説明
(5)東浩紀のデータベース論における「二層構造」の定式化


高田の美的判断のパズルについて、
高田は、分離された対象における美的判断が、物語世界の美的判断にごっこ遊び的に対応されるという解決策を出すが
松永は、我々が美的判断をしているのはPキャラクタに対してであって、Dキャラクタに対してではないということで応答する、


伊藤剛が論じた手塚治虫地底国の怪人』について
「受容の焦点」という概念を導入する。
作品経験において、一貫性、もっともらしさ、整合性などを見出すのは、焦点になっている側面であり、焦点になっていない部分は影響をあまりもたらさない
Pキャラクターへと受容の焦点が向いていたものが、唐突に物語世界へと焦点が移り替わることで、衝撃をもたらしているのだ、と論ずる。


タイトルはおそらく、拙論「フィクションは重なり合う」が元ネタになったのだと思う。
実を言えば、直接的に僕の論文が参照されたりしているわけではなくて、冒頭や注釈で触れられているにとどまるのだけれど、しかし、ありがたいです。
実際、自分が「フィクションは重なり合う」で論じたかったのは、キャラクターの問題を入口にしつつも、キャラクターの問題ではなかった。
自分が「分離された虚構世界」としたのは、松永さんが注釈において、「舞台」と呼んでいた概念に近い(ここでいう「舞台」は、文字通り演劇における舞台と理解してよい。ただし、演劇に限らず他の形式のフィクションにも似たようなものがあるということ)。松永さんのいう「物語世界」と自分のいう「物語世界」も一致しているはず。


高田「分離された対象」と松永「Pキャラクタ」の違いについて

(分離された対象は)個々の画像ごとにその分離された内容に依存するかたちでのみ存在する(中略)
Pキャラクタは明確に個別化され、ふつう固有の名前を与えられ、個々の画像の内容を越えるかたちで存在する
P.98

ゆえに、Pキャラクタの画像には正誤がいえ、見える内容と描写内容の区別がいえる。
自分の「分離された虚構世界」は、その名前からもわかるように、「分離された対象」から引き継いだような概念なので、ここでは明らかに、分離された対象と同じようなものだと考えているんだけど、Pキャラクター的な考え方ができれば、そういう形での拡張もできるかもしれない。


最後に出てくる焦点の話なんかは、もろ、分離された虚構世界と物語世界の重なり合いとかかわってくるところだと思う。
このあたり、なんで重なり合うのかというのをどう説明するか頭を悩まして、まあ「重なり合う」としか言えなかったあたりなので、使えるかもしれない。


この記事については、高田さんの応答も出ています。
「キャラクタは重なり合う」は重なり合う - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


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COMIC ZIN 通信販売/商品詳細 フィクションは重なり合う 分析美学からアニメ評論へ
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稲岡大志「堀江由衣をめぐる試論−音声・キャラクター・同一性−」

まず冒頭で声優の音声が、描写の媒体であり、キャラクターから発せられる音声でもあるという二重性があることを指摘している。言われてみればその通りなのだけど、あまり意識してなかったことので「あ!」と思った。
例えば、洋画の吹き替え、日本語によるセリフが聞こえてくるが、キャラクターは日本語を発しているわけではない。こういうとき、声優の音声が描写の媒体であることが分かりやすく現れている。
声優であることを隠すことによって声優は声優になる。
自分なりに理解したところでは、こんな感じ。
まず、演じる役によって声音が変わって同じ人が演じているとは気付かないようなタイプの声優がある。ここでは例として戸松遥が挙げられている。これは、声優であることを隠すことによって声優になっている声優
これに対して、「声優の声であることを隠すことなく声優の声であることを隠す」タイプの声優として、堀江由衣が取り上げられている。
フィクションの鑑賞において、純粋にフィクション内の情報だけで鑑賞するということはなくて、フィクション外の情報というのも入ってくる。その中には、キャストの情報もある。このキャラクターは、誰それという声優が演じている、ということもアニメの鑑賞においてはウェイトを占めている、と。
で、この中では『さくら荘のペットな彼女』が取り上げられて論じられている。
同作で堀江が演じている赤坂は、ひきこもりで、普段はAIの「メイドちゃん」が対応している。両者は性別から何から異なっているが、そのどちらもが堀江が演じてることによって、別個の人格でありつつも同一人物でもあるということが理解されるようになっている、と。
声優の声が、キャラクターから発せられる音声であると同時に、描写の媒体でもあるからこそ、こういう表現ができるよね、という話

滝沢正之・佐藤暁佐藤暁「声優と表現の存在論」をめぐる往復書簡」

前号に掲載されていた「声優と表現の存在論」に対する、滝沢のコメント。
洋画の吹き替え声優を取り上げなかったのは何故か、とか。
あと、「また花澤か」問題をどのように捉えるかみたいな話。釘宮と花澤の違いは何か、とか。
ところでこの、「また花澤か」問題って稲岡論文の枠組だとどのように捉えられるのかとかも気になる。声優であることを隠すことができてない、のかとか
あとやはり稲岡論文の話になってしまうけど、釘宮とか石田とかって、釘宮の声であること、石田の声であることによって、キャラクターについての情報を作品外から伝える役割を生じさせてると思うけど、それもやはり「声優の声であることを隠すことなく声優の声であることを隠す」ことによって、描写の媒体としても機能しているということなのだろうか

長門祐介「連載「生活が先、人生が後」第2回 スノビズムの舷窓」

「私たちにとってスノッブの存在以上にスノッブという概念があること自体がかなり危険な帰結をもたらしている」(p.207)
スノッブであることを気にするあまり、評論活動そのものを忌避してしまう
・スポイルスポート(ゲームのルールを破壊してしまう存在)をむしろ勇気ある者・最強の者としてしまう

レビュー

みうらじゅんと安斎馨が、各地のゆるキャラの設定のズレにツッコミを入れて笑いを生む番組、らしい。で、それってキャラクターについての哲学的問いでもあるんじゃないというレビューで、さらに丁寧なことに、松永論文もあわせて読んでねということが書かれている。