清塚邦彦『フィクションの哲学 改訂版』

新章が追加されたということで、取り急ぎそこの部分だけ読んだ。

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

第七章 フィクションの意義と意味

この章のタイトル、目次だけ見てた時、どういうことかわかってなかったんだけど、フレーゲの「意義と意味」だった。
ウォルトンの「虚構性と想像」をうけて(参照:ケンダル・ウォルトン「フィクショナリティと想像」 - logical cypher scape
ここでウォルトン自己批判している問題は、ウォルトン自身は虚構性の定義に関わる問題だと考えているが、むしろ表象内容の多層性についての問題であり、ホプキンスが指摘した「分離」をより一般化した問題であると論じている。


すなわち、指定された想像の内容=作品の表象内容には、「何が表象されているか」という主題特定の要素と「いかに表象されているか」という様態特定の要素に分析できるというものである。
想像の内容として指定されてはいるが虚構的真理ではない内容や、分離された内容(ブラウンがいう「二次的内容」)は、確かに虚構的真理でも描写内容ではないが、作品を理解することに貢献する。
そしてこれを、清塚は、「様態」「与えられ方」あるいは「想像のヴェール」と呼ぶ。場合によっては、語り口や様式として捉えてもいる。
同じ主題内容でも、異なる語り口や様式といった与えられ方がある(同じ物語に対する翻案のようなものも想定しているっぽい)
表象内容に主題と様態の両面があることを、多層性と呼んでいる。


ホプキンスの「分離」は、もともと絵画の描写に限ったものであるし、
また、ウォルトンの挙げた事例についても、この章ではまず、写真についてを挙げているが、
さらにそれ以外に、小説についても例を挙げている。
一つは、比喩表現
もう一つは、ミステリにおけるミスリーディング的な手法である。

拙論と比較して

『フィクションは重なり合う』kindle版リリース! - logical cypher scapeで論じたことと、やはり通じ合うところのある論点ではないかなと思う。
ただ自分は、ウォルトンが「虚構性と想像」で、指定された想像が虚構的真理の定義ではなく、必要条件に過ぎないと、一種後退したのに対して、「いややっぱり指定された想像は虚構的真理なんだ」と突っぱねてw
清塚さんは、作品世界を内容と様態にわけたけど、自分は、物語世界と分離された虚構世界とにわけた、と。
でも、なんでそんなことをしたのかというと、「何を」と「いかに」、内容と様式みたいな対は、批評としてはありふれた枠組みであって、その上で、「いかに」というのがどういうものであるのかを明らかにするのが批評の一つのあり方だと思うのだけど、「いかに」が「何を」と区別つかなくなってしまうようなことがあって、そういう作品って面白いよね、みたいなことを言いたいということがあって
そうすると、単に様態・与えられ方ってわけじゃなくて、これはこれで別の虚構的真理になっていて、ということにしたいな、と。


さて、じゃあ具体例としては何があるかといったときに、アニメ作品をいくつか例としてあげたのだけど、小説がなかなか難しくて、とりあえず、語り手に着目して作品を選んだのだけど、今回、清塚さんの議論を読んで、「そうか、比喩に着目するというのもありだな」と思った。
『フィクションは重なり合う』でも、アニメ『四月は君の嘘』について論じるときに、比喩にふれているのだけれど、あれは最初から用意していた枠組みじゃなくて、作品を論じながら気づいていった論点だったので、小説でも適用例を探してみるというところまでいけてなかった。でも、振り返ってみて、あそこは結構うまくいったところだと思う。
比喩についていうと
【受賞作はこの作品!!】牧眞司の「時間とSF」 ~第3回シミルボンコラム大賞~ - 逆まわりの世界 など - シミルボンで牧さんが

〔都市がレールの上を走り続けるのは、比喩ではなく未来に向かって走り続けていることでもある〕との指摘は、的を射ています。比喩ではないのがSFの大きなポイントなんですね!

と述べていて、「比喩ではな」くて、文字通りそうなっていることっていうのが、自分がフィクションの面白いところだと思っているところなんじゃないかなーと。
チャイナ・ミエヴィル『爆発の三つの欠片』 - logical cypher scapeで説明なしに氷山が浮いているのとか、別にあれは何かの比喩ではないけど、そういうところあるのではないかなーと。
また、それはそれとして、ウォルトンはいくつか比喩についても論じてる論文があるのでしてー