平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』)

以前、松下哲也「ビアズリーの挿絵はマンガの形式に影響をおよぼしたのか?」(『ユリイカ2019年3月臨時増刊号』) - logical cypher scape2で読んだ平松論文で、平松の4空間論というのが気になったので、こちらも読んでみた。
タイトルにある通り、キャラクター論であり、4空間論を踏まえつつ、マンガに限らないキャラクター論の枠組みを考えるというもの

はじめに
マンガと他ジャンルの違い
異世界構築とキャラクター
小説と他ジャンルとの違い、そして図像無きキャラクターについて

4空間について

まず、平松のいう4空間とは何か
「解釈空間」「メディウム空間」「場面空間」「物語空間」の4つ
まず、「解釈空間」というのは、簡単に言ってしまえば現実世界のことで、読者・鑑賞者が存在する世界のこと
メディウム空間」というのは、マンガであれば紙面、映画であればスクリーンなどのこと(マンガであればコマ空間、映画であれば映写空間と平松はメディアごとに呼び分けている。なお、小説についてもこの空間があるとされ、これを散文空間と呼んでいる)。
「場面空間」と「物語空間」は、二つ合わせて「フィクションの空間」ともされている。作品によってあらわされている虚構世界のことを指している。「場面空間」と「物語空間」の違いは、この論文だけだとあまりよく分からないのだが、おおよそ、場面空間が空間に、物語空間が時間に対応しているように思われる。


ここでのポイントは、解釈空間からは、メディウム空間を見ることはできるが、フィクションの空間を見ることはできず、
また、フィクションの空間からは、解釈空間はおろか、メディウム空間も見ることができない、ということだろう。


この論文タイトルにある「キャラクターはどこにいるのか」に対する答えは、本論文の半分当たりで出てくる。
後半は、やや応用的な例をいくつか挙げている。

キャラクターはどこにいるのか

答えから先に書くと、メディウム空間にいるということになる
答えというか、平松論ではそのように定義されている、という方がよいか。
まず、平松論では、登場人物≠キャラクターとなっていて、区別されている。
登場人物はフィクションの空間に存在していて、鑑賞者からは直接見ることができない。
鑑賞者から直接見ることができるのはメディウム空間で、メディウム空間にあって、フィクションの空間にいる登場人物を指示しているもの=キャラクター、ということになっている。


マンガのおいて、キャラクター図像はコマ空間にある、と
さらに、別のメディアではどうかということで、映画・舞台・アニメーションが検討されるが、例えば、映画の場合は、登場人物を演じる俳優の映像が、キャラクターの図像と同等なものにあたる。
ここでは、金田一耕助石坂浩二が演じていたり古谷一行が演じたりしている例をあげている。鑑賞者からは、金田一耕助石坂浩二の顔として知覚されるが、フィクション世界の登場人物たちからは、おそらく金田一耕助石坂浩二の顔はしていないだろう、と。すなわち、金田一耕助を演じている石坂浩二というのはメディウム空間に位置するのだ、と。

擬人化キャラクターと擬獣化キャラクター

ディズニーに出てくるようなキャラクターと、アート・スピーゲルマンのコミック『マウス』に出てくるようなキャラクターが対比されている。
前者は、動物が人間の表情豊かなキャラクターとして描かれているもの
基本的に、キャラクターと登場人物は同じ見た目である保証はないが、ディズニーなど動物を擬人化したキャラクターの場合、限りなく等しいと考えられる。
サンリオのキャラクターやくまモンひこにゃんのようなゆるキャラなど、物語がなく着ぐるみなどでのみ存在しているようなキャラクターを、ここでは、ノンフィクショナルキャラクターと呼んでいて、物語がなくとも成立するキャラクターだとしていて、そういうキャラクターのあり方をしているから、フィクションの世界とも見た目が一致するだろう、ということらしい。
また、こうしたキャラクターのいる世界は、現実世界とはかなり様子の異なる異世界になっているだろう、とも。
一方、『マウス』に出てくるキャラクターは、動物の擬人化というよりは、むしろ人間の擬獣化で、人間の姿で頭だけネズミになっているのだけど、むしろこれは人間を比喩的に表現しているのであって、フィクションの空間では人間の姿をしているのだろう、と述べている。

感想

  • 「キャラクター」について

既に述べた通り、平松論では「登場人物」と「キャラクター」が区別されている。
ただ、あまり一般的な区別ではないように思える。確かに、ゆるキャラなど、物語の登場人物ではないキャラクターもいるので、区別したい気持ちも分かるし、日本語の語感だと確かに何となく違うものを指しているようにも感じられる。
とはいえ、登場人物を英訳するとcharacterなので(このことについても言及はされているが)、ややこしさがある。
個人的には、松永さんのDキャラクターとPキャラクターの区別を用いてもいいのではないか、と思った。
「登場人物」がDキャラクター、ここでいうキャラクターが「Pキャラクター」
『フィルカルvol.1no.2』 - logical cypher scape2

この論文では「キャラクター」と「キャラクター図像」という言い方が両方出てくるが、どのように区別されているのが読み取れなかった。
この二つはもちろん違うもので、Pキャラクターは、キャラクターの図像ではない。
ここで気になってくるのは、メディウム空間というものとしてどういうものが想定されているか、ということである。
マンガの「コマ空間(紙面)」や「映写空間(スクリーン)」という表記があり、いわば、画像の表面が想定されているようにも思えるのだが、そうだとすると空間という言い方とは齟齬をきたす。
(マンガであれ映画であれ)画像というのは、その表面(二次元的なそれ・平面・線や染み)と、画像によって描き出されている三次元的な対象との二面性がある、とされる。
コマの枠線であったり吹き出しであったりは、表面に属するように思われる(もっというと、そもそもそれらは二面性を有しているわけではないので、画像ではないが)
キャラクターの図像という時、何を指しているかは微妙で、文字通りキャラクターの画像という意味であって、その画像の表面だけを殊更指しているわけでもないように思えるだのが、あえて図像という場合、二次元的なそれであるということを意味しているようにも見える。
そして、キャラクターは実際には立体的なものである。Pキャラクターというのも、画像によって描き出されている立体的なものの方のことだろう。

  • フィクションの空間について

平松は「場面空間」と「物語空間」とに分けている。
上述したように、この区別が厳密に何を指しているのか分からなかったのだが、空間と時間を指しているように思える。
しかし、だとすれば、どちらも等しくフィクションの世界の要素なのであって、空間が二つあると考える理由がよく分からない。
これ、由来するものの違いを反映しているのかな、とは思った。
「場面空間」を指示しているのはマンガにおける絵の部分
「物語空間」を指示しているのはマンガにおける言葉の部分、というようように。
ただ、それは、コマ空間によってそれぞれ異なる領域なのであって、フィクションの空間において異なる領域に分かれているのかどうかはよく分からない。分かれていないような気がするのだが……。

これ面白くて、同じ動物を人型に模したキャラクターだけど、片や人間を比喩的に表現したもの、片や本当にそういう二本脚で歩く動物となっているというのと、一体どうしてそういう違いが生じるのかという問題
個人的に今「視覚的修辞」と「分離された虚構世界」の関係に悩んでいて、それとパラレルな問題のように思えている。