分離された虚構的世界と視覚的修辞

『フィクションは重なり合う』のAmazonページに、実はレビューが書かれているのを最近知って、ちょっとそれに対する応答をしつつ、ちょっと気になっていることをメモしておきたい。

2.2.分離された虚構世界の
> 例えば、TVアニメ『四月は君の嘘』の22話(最終回)「春風」における演奏会演奏会のシーンを取り上げてみよう。主人公の有馬公生が演奏会でピアノを演奏しているのだが、シーンの途中から公生とピアノがステージ ではなく、水面上に置かれている映像へと変わる。ホールの様子は消えて、水平線の広がる水面上で公生が演奏している映像である。

この映像について、著者はこれをフィクションの世界の中で起きていることだと主張しています。
『フィクションは重なり合う』カスタマーレビュー「大事なところを「明らかだ」で済まされてしまった」


この点について、2つの応答の仕方がある。

  • 四月は君の嘘』の映像において、「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明である。
  • このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

相反するような応答なのだが、どちらも自分にとってはこうだろうと思われることです。

(応答1)「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明

これは正直、用語法の問題みたいなところがあって、こういう定義でこの用語を使うと自明にならざるを得ないのではないか、と思っているのだが、まあしかし、その定義を採用するのが適切だったのか、みたいな問題はあるので、説明は必要であった。
まず、本論では、「Pがこの画像・映像の内容である」ということと、「Pがこの画像・映像を用いた作品において虚構的真理になっている」ということをほぼ区別していない。
というのも、本論はウォルトンのメイクビリーブ論に大きく依拠しており、ウォルトンの従うのならば、画像・映像の内容=虚構的真理である。
ウォルトンによるこれは、問題があって、本当はちょっとこのままでは採用できない。
ただし、一般にウォルトンのこれが問題なのは、ノンフィクションの画像・映像もあるから、という理由による。
四月は君の嘘』がフィクション作品であることは予め分かってるし、フィクションの画像については、メイクビリーブ説あり、という意見もある(このまとめ方、ちょっと雑だが)。
で、「Pが、あるフィクション作品Wに使われている画像・映像の内容である」ならば「Pは、あるフィクション作品Wにとって虚構的真理である」というのは、僕自身は、あまり問題ないのではないかと思っている。
ここで、「Pは虚構的真理である」という時に僕が想定しているのは、「Pは事実ではない」ということと「Wについて記述する際にPが用いられる」というようなことである。
後者についていうと、「『四月は君の嘘』の22話には「水面上で公生が演奏している」シーンがあった」という記述が、正しい記述になっている、ということである。
一方で、例えば「『四月は君の嘘』の22話には「山の上でで公生が演奏している」シーンがあった」とか『四月は君の嘘』の22話には「水の中で公生がダイビングしている」シーンがあった」とかいった記述は、間違った記述であり、当然ながら「山の上でで公生が演奏している」や「水の中で公生がダイビングしている」は虚構的真理にはならない。


ただし、このラインの説明については、実はすでに松永さんからもツッコミが入っている。

「分離された虚構世界」概念を使って説明したい事柄はよくわかるが、それを「虚構世界」(あるいは「虚構的真理」)と呼ぶ必要性がよくわからない。つまり、ふつうに「内容」じゃだめなのかということだ※4。

単純な例を出せば、当の虚構世界上で明らかに偽の事柄q(たとえばある人の妄想の中身)を偽として描く場合にも、受け手はqを想像する必要がある。で、ふつうそのqを「虚構的真理」とは呼ばないだろう。

シノハラユウキ「フィクションは重なり合う」について - 9bit


で、この指摘に対しては、「うーん、確かにそれでも別に、論旨にさほど影響は与えないな」と思う気持ちと「もうちょっと頑張りたいな」という気持ちがある。
前者についていうと、そもそも、そうかqは虚構的真理とは呼ばないのか、というのをこの指摘をされて気付いた、というところがある。
ウォルトンは、虚構的真理をMMBでは想像するよう指定されている内容、というふうにしか定めていないので、qも虚構的真理のように見える。
もうちょっというと、「q」という虚構的真理と、「qが妄想である」という虚構的真理があって、入れ子構造になっているイメージ。
これ、真理っていう言い方がわかりにくさを増している気がして、フィクションの中にさらにフィクションがある、というイメージ。
逆に(?)、ある作品の大部分(例えば、主人公が大冒険をする)が主人公の夢で、最後に「実は全部夢でした、主人公は冒険していません」というオチだけが付けられているとき、主人公が冒険していない世界の中に、主人公が冒険した世界(主人公の夢の中の世界)がある、という入れ子構造になっているという想定をしており、そのどちらの世界の出来事も、その作品の虚構的真理と言ってもよいのではないか、というふうにも思う。


一つの虚構作品の中に、世界が一つしかない、とは考えていなくて、世界が複数あると考えている。
で、『フィクションは重なり合う』で一番言いたかったことは、そういう複数の世界の関係は、必ずしも順序だった入れ子構造はしていないのではないか、ということだったりする。
妄想とか夢とか作中作とかは、基本的には、順序だった入れ子構造をとる(そうなってない場合もあるけど)。
で、そういう入れ子になっているわけではなくないか、というのを「分離された虚構世界」と呼ぶことにした、という話である。
SHIROBAKO』で、ミモジーとロロが喋っているシーンは、宮森の幻覚という形で、あの作品が主に描いている物語世界の下位に位置づけられる、わけではなくて、ミモジーとロロが喋っている世界が、別個に・並列に成り立っている、というイメージ。
でもって、二つの並列している世界が干渉しあうことがある=フィクションは重なり合う! という話がしたかったのである。


ただ、このような話をするにあたって、別に「世界」という概念を持ってこないとできないか、といえばそういうわけではない。
あるフィクション作品が描いている「内容」の中に、物語世界の中で成り立っている事柄と、成り立っていない事柄がある。
物語世界の中で成り立っているわけではないが、その作品の描いている「内容」であるには違いないだろう、と。


『フィクションは重なり合う』のポイントは、フィクション作品の中にある、物語世界の中で成り立っている出来事の部分と、物語世界の中では成り立っていないだろうという部分とを腑分けして、その上で、後者が前者とどういう関わり合いをしているのか、というところにある。
なので、2節はその準備段階として、『SHIROBAKO』には、どう見てもぬいぐるみのミモジーとロロが喋っているシーンがありますよね、『四月は君の嘘』には、どう見ても水の上でピアノを弾いているようにしか見えないシーンがありますよね、ということを確認している、くらいに捉えてもらって、「虚構世界において成り立っている」という言い回しを、それをなんか言い直しているだけと思ってもらっても、よいのかもしれない。

もうちょっと頑張ってみる

先ほどのレビューに戻ると、最後にこのように書かれている。

「公生が水面上で演奏している」も物語とは直接関係のない、たんなるきれいな絵だと考えられないでしょうか。非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。
一般論として、作家には「この部分は視聴者に物語を忘れて音楽に集中してほしい」という意図がありうることは(こちらこそ)明らかです。「水面上でピアノを演奏している」ことのおもしろさと、視聴者が能動的に演奏を聴く体験では、正直比べるまでもないかと思いますが。著者の分析が誤りだというのではなく、ためにする分析には意義は少なく、しかも鑑賞を遠ざけるということです。

まず、ここでは、虚構的真理であるかどうかは、それが物語世界内で真であるかどうかとは無関係であるというだけでなく、作品の面白さとも無関係。
繰り返すけれど、「水面上でピアノを演奏している」という内容の映像があり、しかし、その内容は物語世界内では成り立っていない、ということをまずは言いたいのであって、「水面上でピアノを演奏している」ことに、特に面白さはないと思っている。
一方で、その映像を一体どのようにして使うのか、というのはまた別問題で、それは3.1節で論じているところで、そこに面白さがあると思っている。


で、ああいう映像が、物語から離れて演奏に集中させる的な使われ方をされることが一般的、という、このレビュアーの指摘自体はもっともだと思う。
ホールにいる客を描くのではなく、なんか抽象的な空間を描いた「きれいな絵」にしてしまう手法は当然ある。ただ、『四月は君の嘘』のあのシーンは、そういう手法で使われていないように思える。
先に言ったように、画像・映像の内容=虚構的真理という定義にのっとれば、理屈の上では、仮に「たんなるきれいな絵」であっても、その絵の内容はやはり虚構的真理であり、分離された虚構世界を作っていることになる。
ただ、そのこと自体は何一つ面白くはないので、そういう作品だったら、自分はここで取り上げていないし、分離された虚構世界論なんてものも作っていない。
「たんなるきれいな絵」を使って音楽に集中させる、というのではない、映像の使い方をしていると思われたからこそ、「分離された虚構世界」論の一例として、このシーンを紹介した。


この最終回のシーンが「たんにきれいな絵」ではないのは、公生が、いままさに死の床についているかをりと出会って合奏するシーンがそこで描かれているから。
あのシーンは、フィクションを忘れて音楽に集中してほしい、というシーンではないと思う
公生とかをりの間の音楽で結ばれた絆、とでもいうべきものを描こうとしているシーンで、だからこそ感動的なのではないか、と。
公生はホールで演奏している、かをりは病院で今まさに死んでしまうところである。だから、実際には2人は合奏できない。
しかし、一方で公生は確かにあの場にかをりがいて、一緒に演奏してくれたかのような実感を抱いただろう。
ところで、それを公生の全くの空想の産物であったとか、公生が単にそう感じていただけに過ぎないとかではなく、実際に2人が一緒に演奏している世界を見せることで、2人の合奏が、ある意味では、より確かな事実であると思わせるところが、あのシーンの感動的なところなのではないかと、と言うのが自分の解釈。
もちろん、「ある意味では」というのがポイントで、物語世界内でかをりが突然病気が回復して会場にやってきたとかそういう話ではなく、物語世界内では2人の合奏は全く事実ではない。
しかし、視聴者の見た内容としてはそれは事実であった、ということにできてしまうのが、フィクションの面白いところなのではないか、と。
つまり、『四月は君の嘘』という作品は、物語としては「公生とかをりがもう一度合奏すること叶わず死別してしまう世界」を描くと同時に、他方で、「どこでもない水面上で、公生とかをりが合奏することのできた世界」を描いているのだろう。そういう世界を、物語上は一切成り立っていないにも関わらず(そしておそらく公生の妄想だったというわけでもなく)、しかし鑑賞者は直接見ることができてしまった、という点に感動のポイントがあるはず。
で、後者の世界は物語世界では当然ないのだが、虚構世界ではある。
「非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。」と言われているけれど、むしろ逆で、「きれいな絵」だと思っていたら継ぎ目に気付かないままに別のフィクションの世界に連れ込まれていた、というのが僕のあのシーンに対する解釈だ。
そして、こう解釈するためには、やはり単に「内容」というより「(物語世界ではないが)何らかの虚構的な世界で成り立っている」という言い方をしたくなる。
なので、概念を先に持ってきて、それを当てはめるために分析しているわけではなくて、鑑賞した際の感動を説明しようとした時に、こういう概念が必要になってきた、というつもりではある。
ただ、概念の作りが甘いだろう、といえば、それは認めざるを得ないところなのだが。
また、一応このあたりは、松永さんにも多少フォローしてもらっているかな、と思っている。

シノハラさんが「分離された虚構世界」の事例として挙げるもののいくつかに関しては、そう言いたくなる理由はなんとなくわかるが、明確に述べられているわけではない。

(応答2)このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

ここまで「水面上で公生が演奏している」ことが、あの映像の内容であることは自明であることにして、話を進めてきた。
そして実際、あの映像の内容自体は、「水面上で公生が演奏している」以外に記述しようがなくて、どうしてそういう内容だと言えるのか説明しろ、と言われることかなり困る。
しかし、とはいえ、実際に何が映像の内容と言えるのか、というのは本来フォローすべき論点だったと思う。


このレビュアーは3つの例を挙げてくれている。
(1)

古い映画では上映時間が長くなり、途中で「休憩」がはさまることがありました。(中略)休憩中は画面に大きく「休憩」と出ます。さてこれはフィクションの世界の中で起きていることでしょうか。カメラの前あたりと思われるところに「休憩」という字が空中に出現したのは虚構的真理でしょうか。

(2)

アニメにはアイキャッチがあります。これも同様に、真っ白なフィクションの世界が突如出現し、番組ロゴが立ち人物がにこやかにほほえむことが虚構的真理でしょうか。

(3)

ウルトラマン」ではハヤタ隊員が変身ポーズを取ったあと、赤い画面の奥手からウルトラマンがパンチのポーズで現れる映像になりますが、これも真っ赤なフィクション世界が突如出現し、ウルトラマンがポーズをキメるのでしょうか。

(2)について

アニメのアイキャッチ画像において、「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことが虚構的に真なのは、トリビアルに正しいと思う。
「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことは、このアイキャッチ画像の内容に他ならないし、その内容は、事実ではないという意味で虚構なので。
こういうミニマムな虚構、というのは、あちこちにあるだろうと思う。
ただただ「真っ白な空間に人物がほほえんでいる」という内容だけしかもたない虚構であり、そういう虚構があること自体は、それほど驚くべきことではないように思う。
こういう虚構は、あまり他の虚構ともかかわりが薄いように思える。
ただ、「真っ白なフィクションの世界が突如出現し」という言い方はちょっと気になるので、訂正しておくと、「「真っ白な空間に人物がほほ笑んでいる」ということが、ある虚構世界において成り立っている」ことは、「どこかの世界において、突如真っ白な世界が(新たに)出現する」ということは別に意味していない。
例えば、『はてしない物語』の作中には、ファンタージェンという世界が成り立っているが、僕が『はてしない物語』を読むとき、突如ファンタージェンの世界が出現してくるわけではない。

(1)について

文字の話はちょっと面白いところではあると思う。
ここで例に出ている「休憩」の場合、しかし、普通に文字が投影されているわけであって、文字が宙に浮いているという内容の映像になっているわけではないと思う。なので、文字が空中に出現したことが虚構的真理になっているわけでもないだろう。
例えば、普通の本を読むときに、文字の書かれているページは、白い空間上に字が浮いているという画像だとは普通認識されない。
これが紙ではなく、スクリーンやモニタになっても同じことだろう。
ところで、これが例えば「皆の衆、休憩すべし」というような文だったとしたら、登場人物のセリフだと解釈して、「その登場人物が「皆の衆、休憩すべし」と言っている」ことが虚構的真理になる可能性はある(とはいえ、これももちろん文字が空中に浮かんでいることが虚構的真理になっているわけではない)。
一方、個人的に、ややこしいなと思う例はむしろ、スターウォーズの冒頭のあらすじ字幕である。
宇宙空間の上で、文字が奥の方へと飛んでいくように流れていくアレである。
あれもまた、文字送りな特殊なだけで、ページ上に印刷された文字列と同じもの、として見ることもできるし、実際そのように見ている人も多いと思うが、「宇宙空間を文字型のオブジェクトが隊列をなして次々に飛んでいく」という内容の映像として見ることも不可能ではない。
この場合、スターウォーズはその冒頭において、「文字が宇宙を飛んでいる」という虚構が成り立っている、という奇妙な主張が可能になる。
これは奇妙な主張なのだが、僕は現時点で、この主張をうまくブロックできない。

(3)について

これについて、(2)と同様に、そういうミニマルな虚構が成り立っているという考えることもできなくもないと思う。
が、そもそも「赤い空間をウルトラマンが飛んでくる」という内容の映像なのかどうか、という点が気になる。
例えば、白黒写真は、「白黒の人間がいる」という内容を持つわけではない。白黒写真であっても「肌色の人間がいる」ということがその写真の内容となる。
あるいは、ピントをわざと甘くしてぼやけた映像にしたり、ノイズを入れたりするような画像・映像も同様だろう。これらは映像の上にかけられた効果であって、「輪郭がギザギザしている顔の人間がいる」ことを内容としているのではない。
ウルトラマン変身シーンの、画面の赤さもこれに類するケースのように思われる。


ここで、自分が画像の内容になっているかどうかの指標として考えているのは、奥行きの知覚経験があるかどうかである。
これは、定義であるとか必要条件であるとか考えると、ちょっと問題があるので、あくまでも指標・手がかりとして考えるにとどめるけれど
画像には、フラットなものである表面と奥行きのある描かれた対象の、二面性がある、と。
で、画像の内容というのは後者を指す。
文字表象は、奥行きのある知覚経験がなく、二面性をもたないので、画像ではない。だから、画像の内容も持たない(文字としての内容はもちろん持つ)。
ところが、文字が宇宙空間を飛んでいく様子自体は、奥行きのある知覚経験をもたらしていて、画像になっているように思える。
逆に、わざとぼかしたピントやノイズ、あるいは画面を赤くすることは、画像の表面に属する性質であると思う。だから、ピンぼけは、その画像が持つ性質ではあるけれど、その画像の内容ではない。

視覚的修辞

さて、ここにきてようやくタイトル回収なのだが、画像の内容を特定するにあたって、視覚的修辞が問題になってくるように思える。
aizilo.hatenablog.com
上記の記事で紹介されている、アボガド6の『心配事』について、村山は「『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。」と述べている。
〈万力に頭を挟まれること〉は、表面に属する性質ではなく、明らかに奥行きのある知覚経験の中で捉えられていることであるが、しかし、これを画像による修辞として捉え、画像内容に含めない、というのが視覚的修辞の考えである。
この考えは、確かにある種の画像を説明するのに、適切な概念であるように思う。


アボガド6の絵のように一枚絵の場合、特に問題はない。
しかし、例えばマンガ作品の中で、ショックを受けたことを示すために、銃で心臓を撃ち抜かれているところが描かれたシーンがあるとする。
これは、視覚的修辞であり、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めないのは妥当であるように思える。
一方で、分離された虚構世界論の枠組みを使うと、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めると考えてもよくて、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことが成り立っている虚構もあって、その虚構が、物語の中で登場人物がショックを受けていることを比喩的に表すために使われている(これもある意味では、重なり合っている)と言えなくもなさそうなのだ。
もちろん、こういう一枚の絵でおさまる場合、視覚的修辞で説明する方が絶対合理的だと思う。


しかし、分離された虚構世界なのでは、と思う例もあると思う
例えば『イノサン』で、マリー・アントワネットが日本の高校に通っているシーン
むろん、『イノサン』はアントワネットが日本の高校に通っているという物語ではないし、また、アントワネットの妄想や夢のシーンというわけでもない(アントワネットが現代の日本の高校を知っているわけではないし、そもそも出来事自体は、親しかった者が立ち去っていくというアントワネットの身に実際に起きたこと)。
あれは、シーン全体として、物語内のアントワネットに起きた出来事についての修辞的表現になっているだと思う。アントワネットが仲良くしていたお友達に逃げられることやアントワネットの幼さやを、高校生の友情の薄さ(?)や高校生の幼さに喩えている、のではないかと。
ただ、視覚的修辞の例と違うのは、この数ページだけを取り出すと、アントワネットが日本の高校に通っているマンガとしても読めてしまうこと。『イノサン』という作品全体がどういう物語か知らないと、あれが修辞なのか、「もしアントワネットが日本の女子高生だったら?」的なマンガなのかが判断できない。
つまり、「アントワネットが日本の高校に通っている」という内容の虚構があって、それをさらに、『イノサン』の物語の中で起きたアントワネットの出来事の比喩として用いている、のではないか。
分離された虚構世界の用いられた方の一つの例では、と。
視覚的修辞は、一枚絵として見て、それと一応判断できるはず(そもそも分離だし)。
(これ、松永さんが、分離という現象と類比が成り立っていないよね、と言っていたことそのものかもしれない)

追記(20200401)

四月は君の嘘』の最終回のシーンも、ある種の修辞として理解できるかもしれない。実際、『フィクションは重なり合う』では、隠喩のようなものになっているのかもしれないということを書いた記憶がある。
比喩と虚構の関係というのも、考えてみないといけないのかもしれない。
ウォルトンは、比喩をメイクビリーブで説明しようとしていたりするが。


アイキャッチの件
アイキャッチの画像が表象しているのが、ミニマルな虚構世界である、ということ自体は、まあそりゃそうだよねくらいの話だと思うのだが、まあ、それをわざわざ指摘したところで、特段面白いアイキャッチ論は書けなさそうだな、という点で取り立てて主張しようとは思わない話ではある。
ただ、例えばアニメのOPやED映像もやはり何らかの虚構世界を描いているとはいえ、ただし、それは必ずしも物語世界を描いているわけではない。
ある作品は、物語世界についての虚構と、物語世界についてではない虚構を描く。その上で、そうした虚構同士がどのような関係にあるのか、その関係はどのような効果をもたらすのか、というのはある程度論じて面白くなるかもしれないところではある。
ただ、アニメのOP映像やED映像は、全て見た通りのものが虚構になっているかは怪しい。
サンライズ作品によく使われる、登場人物たちが横並びに並んでいく映像。しかし、あれは、あれらの人々が並んで立っているという内容の映像ではないと思う(それゆえに、そういう虚構も成り立っていない)。各人の画像を「切り貼り」して並べたもの、といった方が適切であるように思える。その場合、これは画像の表面の性質だろう。


画像の表面の性質は、普通画像の内容に含まれない。ただ、場合によってはうまく区別するのが難しいケースがあるかもしれない。
さらに、画像の表面ではなく、奥行きをもった三次元的な内容であっても、画像の内容にはならないという特殊ケース(視覚的修辞)もある。
そのあたり、どのように整理できるのか、というのは気になっている。