マンガにおける「分離された虚構世界」と「視覚的修辞」

まえがき

分離された虚構的世界と視覚的修辞 - logical cypher scape2 の続き、というか、最後に触れたイノサンの例についてもう少し膨らませて書く。

 

マンガは、絵を使って、とあるフィクション世界を描く形式である。

なので、絵の内容は、その世界の出来事をあらわしている、と考えられるわけだが、実際には、絵の内容がそのままその世界の出来事として成り立っているわけではなさそうなケースもよく見られる。

そういうケースを説明するのに、いくつか概念を作ってみよう、みたいな話をするつもり。

 

  

以下、『イノサンRouge』を例に出していくが、あくまで例として使っているだけであり、『イノサンRouge』論にはなっていないのであしからず。

(こういう概念を作るのであれば、何某か作品の解釈に有用なものにしたい、という思いがあるのだが、今回その点についてはうまくできてないというか、作品の解釈には使えていない、と思う)

なお、『イノサンRouge』は、フランス革命期の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンを主人公とした作品。

下記に出す例は、大体マリー・アントワネット絡み

 

 画像の引用について

ページをスマホのカメラで撮っただけの写真を使っているので、紙面が曲がっていてやや見づらいのだが、ご容赦を。

 

分離された虚構世界と視覚的修辞

分離された虚構世界

「分離された虚構世界」というのは、自分が、『フィクションは重なり合う』で提唱した概念なので、詳しくは下の本の2・3章を参照のこと

あるフィクション作品の内容であるのに、その作品の物語世界の出来事ではないような出来事のことを指す。

 フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

 

なお、分離された虚構世界は、単にそういうレイヤーがある、ということを述べているだけで、「これがある作品はよい作品だ」とか「これがあると必ずこのような効果が生じる」という主張は含意していない。

作品は、これを様々な目的のために使用することもできるし、特に何の効果ももたらさないという場合もありうる。

また、分離された虚構世界がないフィクション作品も当然ある。 

 

 

視覚的修辞

「視覚的修辞」は、id:Aiziloさんこと村山さんが、下記の記事およびそのリンク先pdfで論じている現象

 

aizilo.hatenablog.com

 

描写内容と画像内容が非標準的関係にある現象を視覚的修辞と呼ぶ。 

 

非標準的関係:逸脱的性質を媒体として獲得される性質が画像内容に含まれる。 

 

• 『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。

 

 

視覚的修辞の必要十分条件:
画像に視覚的修辞が成立するのは、その画像内容に、その逸脱的性質を媒体として獲得される高次性質が含まれるとき、かつそのときにかぎる。

 

 

描写内容の理論 - 9bit の記事にある図をちょっと参照して説明すると、視覚的修辞は、描写性質と描写対象の関係についての話となる。

描写性質が逸脱的性質である場合、それは描写対象に帰属しないが、その描写性質の高次性質を「画像内容」として含む場合、これを視覚的修辞と呼ぶ(のだと思う)。

この「画像内容」というのは下記の図には出てこない。なぜなら、高次性質の話はこの図ではされていないからだが、下記の図でいうところの描写内容をアップデートしたものと考えればよいと思う。

(再認内容の横に「高次性質」を置き、描写性質から線を引く。画像内容+高次性質=画像内容、という整理になるのではないだろうか、と思うが、直接、村山さんや松永さんに確認していないので、分からない。ただし、少なくとも自分はそういう理解をしているので、以後、その理解のもとで話を進める)

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

分離された虚構世界と視覚的修辞 

自分が『フィクションは重なり合う』を書いたとき、視覚的修辞のような例はあまり念頭においておらず、あまり区別していなかったように思う。

しかし、この2つは区別されるべきものである。

 

 

視覚的修辞は、描写の働きの中で説明されるものである。

つまり、描写性質と描写対象の関係がしかじかのとき、それは視覚的修辞だ、と。

 

 

一方、分離された虚構世界は、描写内容ないし画像内容が一体何であるか確定したのちに、それがどこに帰属するのか、というプロセスの中で出てくる概念である。

画像がある内容をもつ時に、その内容が、物語世界の中の出来事であるのか、そうでないのか、という判断をする際に出てくる。

 

 

ところで、すでに述べた通り、分離された虚構世界は作品によってそれぞれ目的・効果が異なるわけだが、修辞的な表現・比喩などに使われることも多いのではないかと思う。

その点で、視覚的修辞と、その効果の点においては似てくるのではないか、と思われる。

今回取り上げる『イノサン』の例は、視覚的修辞の例と、分離された虚構世界の例がそれぞれあるが、作品の中での使われ方(目的や効果)はどちらも修辞・比喩であるという点では同じだと考えられる。

 

 

視覚的修辞だと思われる例

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 5巻より

 

 

アンリ・サンソンとルイ16世を描いているのだが、バラの蔦のようなものが2人に絡まっており、その周囲には骸骨もある。

ここのシーンは、ルイ16世が、処刑人(つまり「死神」)であるサンソンとの会合を通して、古い因習にとらわれた王しては死に、新しい王として生まれ変わる(ことをサンソンの前で宣言することになる)というシーンである。

であれば、この蔦や骸骨というのは、「死」を象徴的に描いたものだといえる。あるいは、その後、死刑をより人道的なものへと改革していくという点で通じ合った2人の「繋がり」が生まれたことを比喩的に描いたとも言えるかもしれない。

いずれによせ、この蔦は、実際に2人に絡まったわけではなく、ルイ16世の部屋に実際に骸骨があったわけでもない。

これらのコマで描かれた絵は、「ルイ16世とサンソン」を描写しているが、「蔦に絡まったルイ16世とサンソン」を描写しているわけではない。一方で、蔦や骸骨は、描写対象ではないが、これらが象徴していると思われる「死」が2人の間に伝わっていくことが、この絵の画像内容となっている、と言えるのではないだろうか。

 

 

例えば、少女マンガで、美しい人物が現れた時に、画面が花でいっぱいになるような絵になっていることがある。

この場合、実際にそこに花がたくさんあるわけではなくて、その花は、その人物の美しさを修辞的に表現するために描かれている。

そこまで象徴的な意味合いはなく、単なる画面の装飾として描かれていることもあるかもしれないが、いずれにせよ、実際にその場にあるわけではないもの(花や蔦)を描くことを、修辞的な表現として使う、というのはマンガにおいては(あるいはマンガに限らない絵画においても)時々見かけるものではないかと思う。

 

 

上記の例も、一般的なマンガのリテラシーが備わっていれば、少なくとも蔦が実際に2人に絡まっているわけではない、ということは共通見解になるはずだ。

(この蔦がおそらく何かを象徴しているであろうことも多くの人は理解できるだろう。ただし、先ほど、この蔦は死を象徴していると述べたが、これが一体何を象徴しているかという点については、本当は解釈が分かれるところかもしれない。それが『イノサン』という作品を読み解く上での魅力となっていると思うが、ここではこれ以上は触れない)

 

 

分離された虚構世界だと思われるもの

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11巻より

 

 

上図で示したページから、巻をまたいで約70ページにわたり、現代の日本の高校と思われるところを舞台に、制服を着たマリー・アントワネットを描いたマンガが展開される。

イノサンRouge』は、フランス革命期のフランスを舞台にした物語であり、現代の日本は(この箇所を除けば)登場しない。もちろん、マリー・アントワネット現代日本に転生していた、というような物語でもない。

おそらく、物語の流れからいうと、マリーの回想のようなものにあたるシーンだと考えられるが、『イノサンRouge』の物語の中において、「マリー・アントワネットは女子高生であった」という事実はない。

この一連のシーンが一体何であるのかを厳密に解釈するのは難しいのだが、おおよそ、マリー・アントワネットのベルサイユ宮殿での友人たちとの生活を、日本の高校生活に喩えて描いている、といえる*1

その意味では、これらのシーンもまた、比喩ないし象徴であり、ある種の修辞的な表現なのである、とは言えそうである。

 

 

しかし、先ほど挙げた蔦の例とはだいぶあり方が異なる。

というのも、もし『イノサンRouge』という作品を全く知らない人が、上述のページだけを見た場合、「マリー・アントワネットが女子高生である」ような世界を描いた物語であると理解するだろう、ということだ。

イノサンRouge』の物語全体を知っていれば、この物語において「マリー・アントワネットが女子高生である」ことは事実でないことはわかっているので、マリー・アントワネットが女子高生として描かれていたとしても、そのまま受け取るようなことはせず、上述したように、何らかの修辞的な表現なのだろうという形で理解することができる。

しかし、物語全体を知らなければ、そのように理解することはおそらく難しい。

この絵だけについて言えば、「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが描写内容になっているのだ。

 

 

先ほど挙げた蔦と骸骨の例は、『イノサンRouge』という作品を全く知らなかったとしても、一般的にマンガを読んでいる人であれば、実際に蔦と骸骨があるわけではない、ということは理解されるように思える*2

対して、この高校のシーンについていえば、マンガを読みなれていたとしても『イノサンRouge』という作品を知らなければ、実際には、マリー・アントワネットが女子高生ではないということを知ることはできないだろう。

 

 

自分が「分離された虚構世界」という言葉で言い表したいのは、この「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが物語内の事実ではないのにも関わらず、そのような内容を描写しているケースである。

イノサンRouge』で描かれている、「マリー・アントワネットの高校生活(のようなもの)」を、『イノサンRouge』における分離された虚構世界、と呼ぶ。

 

 

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ところで、この高校のシーンは、数ページ読み進むだけで、即座に異様な様相を呈していく。

この高校に、フランス革命の民衆たちが襲い掛かってくるのである。

この襲撃も、物語内の事実をそのまま描いているとは言い難いところがあるのだが、ここで描かれる民衆の姿は、女子高生姿のマリー・アントワネットと違って、物語世界内にもいる民衆といってもよい姿をしている。

夢のような生活(高校生活)に現実(フランス革命の民衆)が押し寄せてくる、という状況を、これまた比喩的に描いている、とは言えるわけだが、その比喩を成り立たせるための描写のされ方・あり方みたいなものが、視覚的修辞の場合とは異なっている。

視覚的修辞の場合、例えば先ほどの例でいうところの「蔦」は、描写内容には含まれない。一方、それが象徴していると思われる高次性質が画像内容に含まれる。と理解される。

上述の絵の場合、「高校に血まみれの民衆が押し寄せている」というのは、紛れもなく描写内容だろう(それを描写内容としない場合、この絵の描写内容がなくなってしまう)。

一方、その描写内容をそのまま物語世界内の事実、として受け取ることはできないので、これを物語世界とは別の何らかの虚構世界として措定しておく、というのが、分離された虚構世界という考え方だ。

 

 

で、さらに言うと、自分としてはこのシーンは、分離された虚構世界(高校の世界)と物語世界(フランス革命の世界)が重なり合ってしまっていて、境界線がわからなくなってしまっているところだ、というふうに思っている。

自分は「物語世界」とか「虚構世界」とかいう言葉をとりあえず使ってはいるが、そういう世界が予め確定的にある、とは思っていない。

メイクビリーブ論でいうところのプロップ(この場合は、マンガのそれぞれのコマの絵)が、次々と虚構を生成していき、生成された虚構を受け取った読者が、それらを整合的に組み立てていったものが「物語世界」になっていくのだと思う。

イノサンRouge』の読者は、読み進めていく中で「この作品の物語世界は、フランス革命期のフランスである」というのを組み立てていくので、それを踏まえれば「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理も当然に生じてくる。

一方で11巻の中には「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という描写内容を持つ絵がプロップとして出てくるので、「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という虚構的真理もまた生成されてしまうように思える。そしてその場合、「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理と衝突してしまう。

しかし、そうやって衝突することで、「物語世界」なるものが確定的にあるわけではなかったんじゃないか、ということに気づかされるのではないだろうか。

また、そこに、分離された虚構世界と物語世界の重なり合った、よく分からない謎の世界が生じてくる、というのが、フィクションならではの面白さなのではないだろうか、とも思っている。

(もっとも、そういう経験の生じないフィクション作品もたくさんあるわけで、別にこれはフィクションであるための必要条件ではないし、そういう経験を生じさせるかどうかが、その作品の価値を決定するわけではない。しかし、そういう経験を効果的に使える作品は、面白いものになるのではないか、とは思っている)

 

 

SNSを用いたもののうち視覚的修辞と分離された虚構世界

イノサンRouge』の中には、SNSを用いた表現もたびたび登場する。

もちろん、18世紀にSNSは存在しないわけで、これも何らかの比喩や修辞として使われているのだと思われる。 

 

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4巻では、twitterが出てくる。

このフォロワーの莫大な数、というかFF比によって、王妃という存在がどれだけ宮廷で注目を集める存在なのか、を表しているのだろう。

 

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10巻ではLINEが出てくる。

マリア・テレジアからのアントワネット宛の手紙が、LINEで送られているかのように描かれている。

 

 

ところで、同じSNS描写でも、下のような絵は少し雰囲気が異なる。

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4巻のtwitter

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10巻のLINE

 

繰り返しになるが、『イノサンRouge』はフランス革命期を舞台にしているので、実際にはこの世界の中にはtwitterもLINEも存在していない。

だから、上の絵も下の絵も、どちらも比喩的な表現であるという点では同じ、ということになるだろう。

ところで、もしそれぞれの絵が、現代を舞台にした作品で使われているとしたら、どうだろうか。

上の2つの絵は、現実に存在しているtwitterやLINEの画面をそのまま模した絵になっている。 twitterやLINEが存在している世界を舞台にした作品であるならば、これらの絵は、その世界内の出来事を表している絵*3、として見られることになるだろう。

 つまり、現代を舞台にした作品で使われた場合、比喩表現にはならない。

 

一方、下の2つの絵はどうだろうか。

実際のtwitterやLINEで、このようにフォロワーやメッセージが画面に表示されることはない。

めちゃくちゃ特殊なプラグインを使っていて、こういう表示ができるようになっている、などという設定がなされていない限り、実際に登場人物たちにこういうふうに画面が見えているわけではないだろう。

多くのフォロワーの中に埋もれてしまって目立っていない様子、あるいは、一斉に「ともだち」が離れていく様子、という、実際に起きた出来事として描こうとすると1枚の絵には収まらないだろうところを、1枚の絵に収まるように描いている。

これを同様に「視覚的修辞」といっていいのかどうかは分からないが(ここから高次性質を抽出する、というのは難しいと思う。「一斉に「ともだち」が離れていく」は高次性質ではないだろう、多分)、これもまた、画像を使った修辞的表現の一種、と言うことはできると思う。

つまり、実際にこういう表示がされているところを描いているわけではないということだ(だから、これらの絵の描写内容は「メッセージウィンドウが無数に開いている」というわけではないだろう。形態的内容としては、メッセージウィンドウが何重にも重なっている、ということになるかもしれないが、「メッセージウィンドウが無数に開いているスマホ画面」を描写対象としているわけではない)。

この絵は、SNSが存在している世界を描いたマンガで使われたとしても、「メッセージウインドウが無数に開いている」ことを描写していることにはならず、「一斉に「ともだち」が離れていく様子」を修辞的に描いている、ということになるはずだ。

イノサンRouge』の場合、修辞的に表現された「一斉に「ともだち」が離れていく様子」の絵が、さらに物語の一部としては、革命が進行して貴族たちがベルサイユの宮廷から逃げ出していく様子の比喩として使われている、という二重に修辞的な表現になっていると言える。

 

 

SNSが出てくるシーンは、『イノサンRouge』において、いずれにせよ「分離された虚構世界」として位置づけられるが、描写の働きが違う絵が混ざっているといえる。

なお、もし小説だと、この違いを出すのは難しい、もしくは不可能ではないかと思う。かなりマンガ独特の表現なのではないか、という気はする。

 

 

スマホを使うマリー・アントワネット

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これは10巻で、マリア・テレジアから来ているLINEを眺めているマリー・アントワネットの絵なのだが、これは一体どのように説明すればいいのだろうか。

11巻で女子高生になっているマリー・アントワネットとは違い、姿形は、物語世界内のマリー・アントワネットと同じで、もしこれで、スマホではなくて、手紙を持っているのであれば、素直に、「マリー・アントワネットマリア・テレジアからの手紙を読んでいる」という物語世界内の出来事を描いた絵として見ることができそうだ。

だが、この絵でマリー・アントワネットが持っているのは手紙ではなくスマホである。そして、スマホはもちろんこの時代にはないので、持っているはずがない。

しかし、この絵の描写内容が「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」であるのは間違いないだろう。

スマホを持っていること自体が、何か描写上の修辞的表現になる、というのは考えにくい(例えば、この絵が、マリー・アントワネットのコスプレをしている女性を描いた現代を舞台にした漫画に描かれていたならば、この絵は、この絵の内容の通り受け取られると思われるので、絵それ自体の描写内容は「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」としてよいはずだ)。

しかし、すでに述べた通りスマホを持っているはずがないので、その内容を物語世界に帰属させることはできず、分離された虚構世界に帰属させるしかない、ように思える。

 

 

ところで、これを「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」と抽象化するならば、それ自体は、物語世界内の出来事としてよいだろう。

 さて、そのように一旦内容を抽象化して、物語世界の出来事として捉えることができるのであれば、そもそも分離された虚構世界なる概念をいったん経由する必要はないのではないのではないだろうか。

しかし、この作品の鑑賞経験を考えるならば、読者は単に「「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」ところを(フィクショナルに)見ているわけではなくて、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」ところこそ(フィクショナルに)見ているはずだ。

というのも、このシーンを読んでマリー・アントワネットに対して何らかの感情を抱くとすれば、まさにこの暗がりの中で、スマホ画面の光によってぼうっと照らされる様子にこそ心を動かされるのであって、単に「諫言を読んでいる」ところに心を動かされるわけではないはずだからだ。

それは、メイクビリーブによる心理的参加であり、その参加の前提として、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」をメイクビリーブしている必要があるのではないだろうか。

 

 

コマ空間?

平松さんが、マンガを論じる上で「解釈空間」「コマ空間」「場面空間」「物語空間」という概念を用いている。

自分は平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』) - logical cypher scape2 で概要を読んだだけなので、この概念をまだ理解できていないのだが、面白そうなものではあるので、ちょっと言及してみる。

ところで、「場面空間」と「物語空間」はあわせて「フィクションの空間」とまとめられているので、ここでもこの両者をあわせて扱う。これはおそらく、こっちでいうところの「物語世界」と同義なのではないかと思う。

一方の「コマ空間」のことなのだが、これは紙面とも言い換えられているので、再び松永さんの概念図に登場してもらうが、絵の表面のことを指しているようにも思うのだが、一方で、空間という言い方からは、描写内容のことも含んでいる概念のようにも見える。

なので、個人的には、コマ空間という概念は、さらに細分化して理解する必要があるのではないだろうか、とは思っている。

 

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

そういうわけで、平松さんが考えているコマ空間がどのようなものなのか、正直、うまくつかめていないので、平松さんの意図とは離れてしまうかもしれないが、コマ空間としか言いようのなさそうなものの例が、やはり『イノサンRouge』の中にあるので、紹介してみたい。


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5巻より。

現代のパリの様子を描いたコマの上に、ルイ16世の血の滴が降り注いでいる、という絵である。

 もちろんこれも実際に血が降り注いでいるわけではなく、一種の象徴的な表現で、王を処刑したことによって現在の民主主義のフランスがある、ということを、現代のパリに王の血が降り注ぐように描くことで表しているのだと思われる。

ここで目に付くのはやはり、血の滴が、コマ枠の上へとはみ出していることである。

なので、パリの街中に血の滴が降っている様子、というよりも、パリの風景を写した写真の上に血の滴を降り注いている様子、のようにも見える。

パリの風景も、血の滴も、どちらも三次元的な奥行きのあるものとして見ることができるのだが、パリの風景に注目すると血の滴が、血の滴に注目するパリの風景が二次元的に見えてしまう、というようような感じすらある。

ともかく、このページは、このページ全体で「パリの風景の上に血の滴が降り注いでいる」となっている、とはいえるだろう。

それを帰属させる先として「コマ空間」という概念があってもいいのかもしれない、というのを何となく思った。

このページの絵については、伊藤剛の「フレームの不確定性」概念ともかかわっているだろうし、あるいは鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scape2鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』 - logical cypher scape2に出てくる「超越論的イメージ」とかともかかわってくるのではないだろうか、という気がする。 

 

 

 この「コマ空間」なるものがあるとして、それは「分離された虚構世界」ではないのか、といえば、少なくともこのパリの風景と血の滴についていえば、形態内容と描写内容の間で何かがギクシャクしている例なのではないか、という気がしていて、その点で「分離された虚構世界」ではない、と思っている。

絵は、松永さんの図にあるとおり、まず絵の表面があり、そこから形態的内容が見て取られ、さらにそこから描写性質や描写対象が見て取られ、それらがあわさって描写内容となる。

ただし、形態的内容がそのまま描写性質と描写対象に、あるいは描写性質がそのまま描写対象に帰属するか、といえば、それは必ずしもそうでない場合がある。それが、ここまで「描写上の修辞的表現」と呼んできたものでもある。

そして、そういうすったもんだはあるかもしれないが、とにかく、絵の描写内容がひとまず確定すると、今度はそれが物語世界の中にちゃんと位置づけられるか、そうでないかという判断があって、そこで「分離された虚構世界」という概念が登場してくる。

で、このパリの風景と血の滴は、物語世界の中に位置づけられるかどうか以前に、まず絵の描写内容としてどうなっているのかというレベルで考えないといけない問題だと思われる。

そして、マンガの場合、マンガ以外の絵と違って「フレームの不確定性」という特徴があって、それを踏まえないと理解できない絵になっており、そういうマンガというメディウムならではの内容になっている、という意味で「コマ空間」なる概念が使えるのかもしれない、と思った。

平松さんの言うところの「コマ空間」という概念から離れてしまったかもしれないが、ただ、平松さんの「コマ空間」には、効果線やセリフの吹き出し、描き文字などを要素として含むということなので、何某か通じるところもあるのではないかとも思う。

 

*1:もう少しいうと、マリー・アントワネットとマリー・サンソンとの出会いを、高校を舞台にしたラブコメ風のマンガで比喩的に描いている

*2:マンガをあまり読みなれていない人の場合、実際に蔦があると見て取ってしまう可能性はもちろんあるが

*3:本論とは直接関係しないことだが、別の意味で面白い「絵」になっている。スマートフォンのフレームとコマ枠のフレームが一致するように描かれているのである。このため、これらの絵は「奥行き」が生じない。Seeing-inがない、とすらもしかしたら言えるかもしれない。『分析美学入門』でジャスパー・ジョーンズの旗の絵に二面性はあるのか、という話が載っていたかと思うのだが、おそらくそれと同種の絵なのではないか、と思う