倉根啓「ゲームプレイはいかにして物語になるのか」

ビデオゲームにおいて提示される虚構的内容のうち、全てがそのゲームの物語を構成しているわけではないが、その関係はどうなっているのか、という内容の論文
マリオの命は3つあるのか問題
あるいは、RPGをやっていて、戦闘中に死んだとしても必ずしもそのゲームのストーリー内で死んだことにはならないとかそういう類いの話
これに対して倉根は、ビデオゲームにおける虚構的内容を「ゲーム環境」と「物語世界」に区別した上で、物語世界の内容として解釈される基準の例として「指定」と「意味づけ」があるということを論じている。


シノハラの議論が参照されているよと、人から教えてもらって読みました
自分の書いたものがこうやって他の人の論文へと繋がっていく経験をあまりしたことがないので、感動して思わずブログを書いているのがこの記事となります。

1.はじめに
 1.1.先行研究
 1.2.ゲームプレイ中に起きた出来事は本当に首尾一貫したストーリーを構成するのか
 1.3.本稿で明らかにすること
 1.4.本稿の構成
 1.5.本稿で対象とする作品
2.物語とは何か
 2.1.どのようなものを物語と呼ぶか
 2.2.本稿で考察する「物語」
3.ゲームプレイ中に起きた出来事はどこで起きているのか
 3.1.ビデオゲームの虚構世界は非整合なのか
 3.2.ゲーム環境と物語世界
  3.2.1.ゲーム環境
  3.2.2.物語世界
4.ゲーム環境の出来事はどのような時に物語世界の出来事になるのか
 4.1.アニメやマンガと同じ解釈の基準がビデオゲームにも適用できるのか
 4.2.慣習説
  4.2.1.指定
  4.2.2.意味づけ
5.まとめ

http://doi.org/10.34382/00018327



以下、いくつか引用する。
まず、第3節「ゲームプレイ中に起きた出来事はどこで起きているのか」から。

ビデオゲームの虚構世界は、ディスプレイが提示する空間である「ゲーム環境」と、物語上の出来事が起きる場である「物語世界」の2つに区別される

松永(2016)はフィクション作品が表象する内容と物語世界の内容が異なると指摘している。(...)アニメやマンガなど図像を用いたフィクションにおいても、提示された空間はキャラクターの心情やその場の雰囲気を象徴的に表現するなどの用途で使われることがある。
(...)ゲーム環境は想像された内容から構成される空間であるが、次の点で物語世界とは異なる特徴を持つ。ひとつは、ゲーム環境はフィクションが表象する内容の集合なので、物語世界で求められるようなある程度の整合性を必要としないことである。(...)ふたつは、ゲーム環境は物語世界の想像の際に行われる解釈行為が行われないことである。

上記引用箇所の、「アニメやマンガなど図像を用いたフィクションにおいても~象徴的に表現するなどの用途で使われることがある。」のところに注釈が振られており、その注釈の中で以下のように言及されている。

シノハラ(2021)は「分離された虚構世界」という「提示された空間」とは異なる概念を用いて、このことについて詳細に論じている。なお、シノハラは「物語世界」を”story world”の訳語として使用しているが、その定義や特徴づけの点から本稿の「物語世界(diegesis)」とほぼ同じ概念と考えて問題ないと思われる。

虚構的内容の中で、さらに物語上の内容となっているものとそうでないものがある、というのは、まさしく自分の「フィクションは重なり合う」と通じ合う考えで、「ゲーム環境(提示された空間)」と「物語世界」という区分は、非常によく分かる。
倉根は「「分離された虚構世界」という「提示された空間」とは異なる概念」と整理しており、確かに定義の仕方や特徴付けが異なるのだけど、何というか発想というか、こういう概念を作りたい動機というかは同じなので、「分離された虚構世界」と「提示された空間」とは、かなり近しい概念だと捉えてもらってよいのではないかと思う。


実を言えば「ゲーム環境」的なものについて、自分も取り扱いたいなあという気持ちはあったのだが、自分はゲームをほとんどやってきていないので、うまく論じられる気がせず、結局ゲームについては取り上げなかった。
「提示された空間」とか「ゲーム環境」というのは、分かりやすい呼び名でいいなあと思う。
実際、マンガやアニメにおいては「分離された虚構世界」という名称からも分かるとおり(?)、作品中で表象されている虚構的内容のうち多くは物語内容となっており、そこに含み難いものが物語世界から「分離」されているイメージなのだが、ゲームの場合は、物語内容にはなっていない虚構的内容はかなり多くて、というか、そっちはそっちで一つのまとまりをもっていて、それがもたらす作品についての経験って結構大きいのではないのかな、と思う。そういうのを「ゲーム環境」と呼ぶのは理に適っている感じがする。


僕と倉根さんとの違いを挙げるとすると、倉根さんのこの議論は、ゲーム環境からいかに物語世界が構成されるか、言い換えれば物語世界に含まれる部分に関心があり、僕はどちらかといえば、物語世界に含まれなかった部分の方に関心がある、ということかもしれない。
これは、ゲームとマンガ・アニメとの違いに起因しているかもしれない。


続いて、第4節「ゲーム環境の出来事はどのような時に物語世界の出来事になるのか」からも引用

ここでは何が解釈の基準になるのかについて、まずはシノハラ(2021)の議論を参考に考えていく。(...)シノハラの提示した基準はビデオゲームにおいてもある程度は有効に機能するだろう。しかし、ゲーム環境から物語世界の出来事を同定する際には、これらの基準では十分に判断することは難しいように思われる。


虚構的内容の全てが物語内容にならないとしたら、何が物語内容で何が物語内容にならないのかということをどうやって判断すればいいのかということについて、僕があげたのは、現実性原則、ジャンルについての知識、作中人物の言及可能性といった基準*1だが、これらは、ビデオゲームについても使えなくはないけど、それだけでは不十分だ、ということで議論が展開されている。
ここ! こうやって自分の議論が他の人によって発展させられていくの、すごくいいですね!
で、このあとに「指定」と「意味づけ」という、新たな基準が提案されている。
普段ゲームをやらない人間なので、これらについて深く検討できる立場にないが、しかし、確かにと納得させられるものだった。
また、これらはゲーム特有の基準であるようにも思える。
「指定」というのは、戦闘での死亡やNPCとの会話が、物語世界の出来事として組み込まれることを指す。例えば、RPGでの戦闘で、あるキャラクターが死亡してもまた復活してそのキャラクターが使えることが多いと思うけど、『ファイアーエムブレム』では戦闘でキャラクターが死亡すると物語上でも死亡した扱いになって、そのキャラクターがもう使用できなくなる。ゲーム環境での死亡が、物語世界内での死亡として「指定」されている。
ゲーム環境内で虚構的内容のいくつかが、物語世界内の虚構的内容へとピックアップされるようなイメージかなと思う。
「意味づけ」というのは、ゲーム環境内でのプレイヤーでの行動が、キャラクターの動機などによって意味づけられるということ。
ところで、この「意味づけ」について、この論文の中では特に言及されていないのだが、松永『ビデオゲームの美学』でミミクリ的想像として論じられていたことと関係するのではないか、と思った。
ゲーム内の行為の動機を虚構的に想像することで、虚構世界との相互作用・キャラクターとの同一化を説明するという松永の議論
いわゆるロールプレイとは何かということを説明するのに、使えるのではないか、と。
ただ、この場合、プレイヤーの現実の行為が、まずいったんゲーム環境内での(虚構的?)行為となって、それがさらに物語世界で意味づけられるという入れ子構造(?)になっているのが、ちょっと独特かもしれない。
(現実の行為は「ボタンを押す」であり、ゲーム環境内および物語世界内での行為は「話しかける」である。その上で、動機が複数ありうる。例えばひとつは「このゲームを次に進めるためのフラグとなる操作を見つけたい」かもしれない。この動機に基づいてプレイヤーは、あちこちでボタンを押すことになるだろう。しかしそれだけでなく「この人は一体誰だろう」とか「この人は味方だから何か教えてくれるかもしれない」とかいった動機も考えられるが、これはゲーム環境という虚構世界内でもちうる動機で、これがゲーム環境内での「話しかける」という行為につながる。これは、プレイヤー自身の動機に基づいて虚構世界内の行為を想像しているので、自己関与的想像だと言えるはず。そして、これに加えて、「こんな嬉しいことがあったのでおばさんに報告したい」というキャラクターの動機がある。この動機は、物語世界内での虚構的内容となっている。この動機によって「話しかける」という行為は、物語世界内に意味づけられるわけだが、この動機に基づいて「話しかける」という行為をしたのだと、プレイヤー自身も想像している時、ミミクリ的想像になっているのではないか、と)

*1:なお、これらの基準自体は僕のオリジナルではない。現実性はルイスやウォルトン、ジャンルについてはウォルトンやカリー、言及可能性については松永に由来する。ただし、ルイス、ウォルトン、カリーについては、虚構的内容と物語内容を区別するという観点は希薄なので、虚構的内容と物語内容の区別に使うという使い方は僕オリジナルかもしれない