松永伸司『ビデオゲームの美学』

ビデオゲームは一体いかなるナラデハ特徴を持っているのかを、記号の意味作用という観点に着目して明らかにしようとする本


これは名著
様々な論点が丁寧に整理され、読者が気に掛かるであろう点にはきちんと補助線が引かれ、踏み込む必要のない議論では中立的な立場にとどまり、しかし、踏み込むべきところではきっちり踏み込んでいる。そんな感じ。
というか、内容以前に装丁がいい!
画像だとこの装丁の良さが全然伝わらないので、是非実物を手にとってもらいたい
この装丁だけで手元におく価値があるレベル


これは博士論文が元になった著作だが、筆者があとがきで自ら述べている通り、博論刊行後に筆者が手がけた2冊の訳書、イェスパー・ユール『ハーフ・リアル』とネルソン・グッドマン『芸術の言語』とをかけあわせたような本になっている。
ユールは、ゲームをフィクションとルールの二面性があるものとして特徴付けた。ルールは現実の側に属するから「ハーフ・リアル(半分現実)」
グッドマンは、芸術の諸形式を記号論の枠組みで比較を行っている。
松永は、ビデオゲームの記号に着目し、その記号が、フィクションとゲームメカニクスをそれぞれ意味していると論じている。


ビデオゲームのナラデハ特徴というのは、まさにこの、記号システムの意味論的側面がフィクションとゲームメカニクスの二つの領域に分かれている、という点にある。
が、さらにもう少し詳しく見ていくと、フィクションの側面においては、そのインタラクティブ性がビデオゲームの特徴として論じられている。ゲームメカニクスの側面においては、それが行為をデザインするものであり、どのような行為をデザインするのかといえば、ゲーム行為であり、また美的行為であるような行為である、ということを論じている。


個人的には、自分は全然ゲームをやってきた人ではないので、ビデオゲームそのものについては特にこれということはないのだけれど、例えば、そういう人間にとっても、非常に面白く勉強になる本だった
とにかく明晰で、「なるほど、こうやって整理していくのか!」というところですごく勉強になる


ところで、内容と関係ないが、この本は少し前に読み終わっていたものの、読書会とかしていて、ブログの方に記事を書き損ねて、ブログの更新が空いてしまっていた。
本の内容についても、全然まとめきれていない(というか第三部については力尽きている)状態だけれども、他の作業もあるし、これ以上この記事の更新を遅くするのもなんなので、アップすることに
うーん、この本についての記事がこういう状態なの申し訳なさあるけれども……。
この本のポイント、というか面白かったところは以下の点

  • 芸術形式とは何か、をある種の鑑賞態度、具体的には評価実践の有無を指標にして論じているところ
  • インタラクティブなフィクションをメイクビリーブから論じているところ
  • 美的行為について
  • 虚構世界のシミュレーションとしてのビデオゲームについて

美的行為は、ゲームにとどまらず、かなり広い適用範囲をもちそうな気がする概念*1なんだけど、その射程範囲や有用性なんかについてはまだ掴み切れていないところもあって、今後、美的行為論が展開されていくことに期待

序章
 第Ⅰ部 芸術としてのビデオゲーム
第一章 ビデオゲームとは何か
第二章 ビデオゲームの意味作用
第三章 芸術としてのビデオゲーム
 第Ⅱ部 一つの画面と二つの意味
第四章 ビデオゲーム統語論
第五章 ビデオゲームの意味論
第六章 虚構世界
第七章 ゲームメカニクス
 第Ⅲ部 二つの意味のあいだで遊ぶ
第八章 二種類の意味論の相互作用
第九章 ビデオゲームの空間
第十章 ビデオゲームの時間
第十一章 プレイヤーの虚構的行為
第十二章 行為のシミュレーション
終章 そして遊びの哲学へ

あとがき
図版出典
ルドグラフィ
文献一覧
索引

序章

序章は、この本が一体どういう本かということについて
ビデオゲームならではの特徴を明らかにするのがこの本の目標
ここでいう「ナラデハ特徴」というのは、ビデオゲームメディウム・スペシフィティのことなのだけど、まあいくつか理由があってメディウム・スペシフィティという言葉は使いません、という話がされてる

第一章 ビデオゲームとは何か

第一章はビデオゲームの定義
ここでいうビデオゲームの定義、というのは、この本ではこういうものを扱います、という意味

第二章 ビデオゲームの意味作用

この章も、この本で扱う内容についての事前準備みたいな章

第三章 芸術としてのビデオゲーム

同じくこの章もそういう事前準備みたいな章なのだけど、芸術形式・芸術作品とは何か、ということを論じていて面白い
芸術とは、それを芸術的な評価の対象とする慣習が成立していること、みたいなアートワールド説的なものなのだけど、芸術的評価の慣習が成り立っていることの指標として、批評の実践が成立していることを挙げている
よしあしについて議論するような実践が成立していたら、まあ芸術と言えるでしょ、くらいの話なんだけど、ビデオゲームもまあ、そういう議論はなされているわけだから、芸術でしょ、と


個人的な感想だけど、ビデオゲームは芸術かどうか、というのはこの本にとってそこまで中心的なテーマではなくて、むしろ、この本でなされている作業の中には、ビデオゲームにまつわる議論に出てくる概念を厳密にとらえ直す、というものが多く含まれている。
だから、ビデオゲームは芸術なのか? というのがテーマではなく、ビデオゲームは、個々の作品のよしあしを巡ってレビューや議論をする実践が成立しているのだが、そうした議論で出てくる概念をちゃんと鍛えよう、というのがテーマ(の1つ)なのだろうと思える。
で、「個々の作品のよしあしを巡ってレビューや議論をする実践が成立している」ことを「芸術」と呼んでおく、というような感じ

第四章 ビデオゲーム統語論

統語論、というか、ビデオゲームにおける記号、つまりディスプレイ*2に表示される様々なしるしについて
あと、この章では「インタラクティブ」とは何か、ということもあわせて論じられた上で、
記号、すなわち統語論的側面とだけインタラクティブしているわけではない、それ以外の側面ともインタラクティブしている。それは何か、ということで第五章へとつなでいる

第五章 ビデオゲームの意味論

ビデオゲームの記号が意味する領域には、フィクションとゲームメカニクスの二つがあるよ、と
『ハーフリアル』がルールとフィクションと呼んでいたものを、整理しなおそうとしている
フィクションとゲームメカニクスは、それぞれ量化のドメインらしい
このあたり、形而上学と意味論のメタ存在論がよくわからなくて、もにょもにょしている

第六章 虚構世界

前半は、既存のフィクション論の整理
後半で、ビデオゲームならではの特徴として、タヴィナーも取り上げている「インタラクティブなフィクション」について論じている
「虚構世界への入り込み」とか「虚構世界との相互作用」、「キャラクターとの同一化」「没入」などと呼ばれるようなインタラクティブ性について
自分の行為の結果と行為の動機が、虚構的であるように想像する、というような感じで説明する
また、自己関与的想像とミミクリ的想像の区別など
この区別に、わかりやすい名前がついたのがよい

第七章 ゲームメカニクス

ゲームメカニクス、というのは、ルールのことでもあるのだけど、ルールだけでなく物理法則なども含むので、ゲームメカニクスと呼び変えられている
ゲームメカニクスは、ある種の行為をデザインするもの
まず、行為のデザインとは何かについて
次に、どのような行為をデザインするのかについて
ゲームメカニクスは、ゲーム行為をデザインするもの
ゲーム行為とは自己目的的行為


ゲーム行為の楽しさ、望ましさについて、「美的行為」という概念から説明する
美的行為であるようなゲーム行為は、よいゲーム行為である
 ※訂正)ゲーム行為であれば美的行為である、と論じているのであって、美的行為であればよいゲーム行為、というのは間違いだな、たぶん
美的行為とは、美的判断の行為版
それを行うためにはある種のセンスのようなものが必要で、しかじかの感じといった質を伴う
美的行為という概念は、ゲーム以外にも広げて適用できそうな概念っぽい
ゲーム行為であれば美的行為だけど、美的行為だからゲーム行為だというわけではない、ということだと思うので
(ゲーム行為は自己目的的なので無関心性っぽい感じだけど、ここでいう「美的」は、「無関心性」とはとりあえず切り離して理解することができる概念なのだと思う*3。)


ゲームメカニクスの構成要素について
ゲームメカニクス存在論
→制度的事実として現実世界に存在する


制度的事実とされる出来事は現実世界に存在し、メイクビリーブされている出来事は現実世界には存在しない
ということ自体は全くその通りだと思うんだけど、構成的規則とメイクビリーブって似てるといえば似てるところもあるよなーとも思ってしまう
まあこれは、この本にとっての課題ではなくて、どちらかといえば自分の課題か
いや、違うんだけど、その違いを説明するために何を持ってくるとよいのか、という話
「想像」ないし「命題的態度としてのメイクビリーブ」あたりの問題だと思うんだけど、フレンドとかマトラバーズとか、「想像」あたりを批判しているからどうにも。

第八章 二種類の意味論の相互作用

1.類比的推論
2.謎解き
3.シミュレーション
ゲームメカニクスが虚構世界のモデルともなっている。
ディスプレイの記号が虚構世界を表象するのとは別に、ゲームメカニクスが虚構世界をシミュレートする

第九章 ビデオゲームの空間

第十章 ビデオゲームの時間

第十一章 プレイヤーの虚構的行為

虚構的行為について、存在論に関わるパズルがあることを指摘し、経験説、バーチャル説、フィクション説、現実説を検討する。筆者は、現実説の中に位置づけられたゲーム行為説を主張
フィクション説の検討の中で、タヴィナーは、作品世界とごっこ世界の区別を作品とその事例の区別と混同している、といるメスキンとロブソンの指摘が紹介されている


それから、実践的な含みとして「ゲーマーのジレンマ」というものが紹介されている。殺人ゲームとペドフィリアゲームに違いはあるのか。

第十二章 行為のシミュレーション

終章 そして遊びの哲学へ

*1:全然っ知らないから的外れかもしれないけど、日常性の美学とか? 家事とかにも美的行為になっているものはありそう

*2:本書ではディスプレイを、出力装置という意味で使っており、視覚ディスプレイだけでなく聴覚ディスプレイも含むが、用いられる具体例のほとんどは視覚的なものである

*3:とりあえずググってみたら出てきた西村先生の論文に、シブリーの議論はカント以来の無関心性の美学と異なっている旨書いてあった。 http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/37/37_02_nishimura.pdf