イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳)

サブタイトルは、虚実のあいだのビデオゲーム
ビデオゲーム研究の博論を元にした本で、ルールとフィクションという両面からビデオゲームについて論ずる。ルールは現実に属するので、「半分現実(ハーフリアル)」というタイトル。

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム


まえがき
Chapter1 序論
Chapter2 ビデオゲームと古典的ゲームモデル
Chapter3 ルール
Chapter4 フィクション
Chapter5 ルールとフィクション
Chapter6 結び
参考文献
索引
訳者あとがき


Chapter1 序論

おおよそ本書の要約にあたる


ビデオゲーム研究において重要とみられる対立点

  • ゲームかプレイヤーか
  • ルールかフィクションか

→本書は、ビデオゲームはルールかつフィクションという立場
→ところで、本書はmake-believeとfictionを同義語として扱っているようだけど、索引や参考文献一覧にはウォルトンのウォの字も出てこない。完全に定着しているという感じなのだろうか。
(追記20170619)
松永さんからの情報提供あり


→ルドロジーという言葉の歴史は謎らしいが、今のところ、初出は1982年らしい。

  • ゲームか、もっと広い文化か
  • ゲーム存在論かゲーム美学か


Chapter2 ビデオゲームと古典的ゲームモデル

これまでの定義論(ホイジンガからサレン&ジマーマンのものまで7つを取り上げている)を、「形式的システムとしてのゲーム」「プレイヤーとゲームの関係」「ゲームとゲーム外世界の関係」という3つの観点から整理しなおしている。
その上で、ユールは以下の6つの特徴をもつものがゲームであると定義し、これを古典的ゲームモデルと呼ぶ。

1.ルール
2.可変かつ数量化可能な結果
3.結果に対する価値設定
4.プレイヤーの努力
5.結果に対するプレイヤーのこだわり
6.取り決め可能な帰結

6はちょっと面白い観点だと思う。
ゲームはよく、日常から切り離されている・非生産的であるなどとされる。6はこのような特徴づけを包含するものだが、一方で、ゲームが時にプロの競技となったり、賭けの対象になったりすることも含めて説明する。つまり、6は、現実世界での帰結を、取り決めすることもできる、というものである。
この定義から、ゲームとゲームではないもの、境界的な事例を導くことができる。
この定義は、様々なゲームがどの点で異なるかということを説明することができる。
この定義は、ゲームが媒体に制限されるということを示さない。別の媒体へ移動可能ということであり、その一つがビデオゲームである。
ユールは、ビデオゲームが、古典的ゲームモデルから逸脱していくものだということも、あわせて示している。

Chapter3 ルール

ルールの形式的な側面についての説明のほか、ルールが生み出すゲームプレイや挑戦課題について、そして2種類のゲームについて論じている。
ルールがプレイヤーに挑戦課題を与える方法によって、2つの類型にゲームをわけている
(1)創発型ゲーム:ルールが単純で、その代わり挑戦課題のバリエーションが豊富
(2)進行型ゲーム:挑戦課題が順次提示されていくもの
古典的なゲームは基本的に創発型で、ビデオゲームによって進行型ゲームが生まれてきたとしている。また、このふたつはビデオゲームにおいては、アーケードゲームアドベンチャーゲームという2つの起源にさかのぼる(知らなかったのだけど、アドベンチャーゲームというジャンル名は『Adventure』というゲームに由来しているらしい)。
ちなみに、完全にどちらかに分けられるわけではなく、両方の要素が混ざっているものも多い。

Chapter4 フィクション

すべてのゲームはルールを持つ
加えて、多くのビデオゲームは、虚構世界を描く。
表象の観点からゲームを5つに分類する

  • 抽象的なゲーム

なにも表象していないと思われるもの。チェッカーやテトリスなど

  • アイコン的ゲーム

個々の部分がアイコンになっているゲーム。トランプなど

  • 非整合的な世界を持つゲーム

矛盾した虚構世界か、ルールに言及しないと説明できないような出来事を含む虚構世界を持つゲーム
ドンキーコング』でマリオは3つの命(ライフ)を持っているが、なぜマリオが死んでも甦ることができるのか、その虚構世界の内部からは説明できない。

  • 整合的な世界をもつゲーム

ほとんどのアドベンチャーゲームはこれ

  • 舞台上のゲーム

抽象的なゲームが、ある虚構世界の中に包含しているようなゲーム。『メイドインワリオ』など(この本の中に言及はないが『ぷよぷよ』とかもこれか)
ゲームの中の虚構世界について、特に時間という観点から、様々なゲームについて説明している。プレイ時間と虚構(世界内の)時間とがどのように対応しているか。
リアルタイムに投影されていたり(アクションゲーム)、時間幅が変換されていたり(『シムシティ』など)、カットを挟んでいたり、あるいは明らかに時間の速度のあり方が違って変だったり(サッカーゲームは45分の試合を、プレイ時間としては4分に縮めているが、フィールド上の走ったりする動きが、その縮尺にあわせて速くなってたりはしていない)等。


ゲームは物語narrativeか否か
と論じられることがあるが、ユールは「物語」という言葉が多義的に使われており、どの意味を採用するかで変わってしまうことを指摘する
(1)複数の出来事の提示(ストーリーを語ること)
(2)固定され、あらかじめ定められた一連の出来事
(3)特殊な種類の一連の出来事
(4)特殊な種類のテーマ
(5)あらゆる種類の舞台設定または虚構世界
(6)われわれが世界を理解する仕方


ビデオゲームは、伝統的ゲームと違って、ルール運用が自動化、ルールがプレイヤーから見えなくなっていることから、伝統的ゲームと比べて、虚構世界を表現しやすい、強調されやすいものであることが最後に指摘されている。
この虚構世界の強調が、ゲームの歴史の中でも、ビデオゲームの革新性である、とも

Chapter5 ルールとフィクション

ビデオゲームは、ルールとフィクションが相互作用することによって「半分現実」のゲームとなっている。
ビデオゲームは、様式化されたシミュレーションとして、ルールの中に虚構世界を実装している。例えば、『鉄拳』においてエディというキャラクターはカポエイラを使っているが、このカポエイラは、現実のカポエイラと比べれば抽象化されていたり、一部の要素だけしかないものであるが、これが様式化されたシミュレーションということである。
ルールというのは形式的なものなので、理論上は、同じルールに対して、どのようなフィクションを実装するかは交換可能である。
しかし、ビデオゲームにおいては、フィクションがルールの理解を促し、ルールがフィクションについて想像を促すという相互作用がみられる。
ルールとフィクションが不一致するという例も多々見られる。
グラフィック上は、同じように操作可能なモノが描かれているのに、ルール上は何もできないというのは、あまりよくない不一致である。
キャラクターが、「Bボタンを押してね」などとプレイヤーに語りかけてくるのも、本来変な話ではあるが、これはポジティブな体験をもたらす場合もある。
また、不一致が風刺として芸術的な表現につながる場合もある。
逆に、「空間」の表現はルールとフィクションが一致するものである。

  • 没入の誤謬について

ゲーム中に、ルールを示す青い矢印がキャラクターの上空に表示されているようなものもある。
しかし、このゲームのレビューにおいて、このような矢印の存在には特に触れられていなかったりする。
没入immersionという概念は、1997年のジャネット・マレーの著作によって広まったというが、マレーは、完璧なバーチャルリアリティーのようなものを理想的な「没入」と呼んでいた。
しかし、実際のビデオゲームは、先に挙げた青い矢印の例が示すように、そのようなものにはなっていないが、それでもプレイヤーは、現実としてのゲームプレイに熱中したり、虚構世界についての想像に熱中したりする。
サレンとジマーマンが、没入を過剰に持ち上げることを「没入の誤謬」と呼んでいる。

  • ゲームが意味するもの

ゲームの内容をどのように解釈するのか、ということについていくつかの事例が挙げられているが、一番わかりやすいのが『モノポリー』の例だろう。
モノポリー』は、資本主義を奨励するゲームだと言われている。この解釈に対して『アンチ・モノポリー』というゲームが作られているのだが、ルール上は『モノポリー』と同じで駒の名前が違うだけ。また、『モノポリー』の元となったとされるゲームは、土地の独占を批判するために作られた、と。