エティエンヌ・スーリオ「映画的世界とその特徴」

美学者スーリオによる、映画が作り出す「映画的世界」について
『映画理論集成』に収録されているものを読んだ。スーリオの著作『映画的世界』(1953)の第一章にあたるもの、ということらしい。
エクリヲvol.11 - logical cypher scape2を読んだ際に、「映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか」の中で、スーリオの「フィルミック・リアリティ」というのにちらりと触れられており*1気になったので手に取った。
また、スーリオは、ディエジェティックという概念を使い始めた人でもあり(Diegetic Soundについて - 9bit参照)、この論文の中でも、まさしくディエジェティック・サウンドにあたることが書かれている。

というか、もっと早く読んでおくべきだったな、これと思った

映画理論集成  古典理論から記号学の成立へ

映画理論集成 古典理論から記号学の成立へ

  • 発売日: 1982/05/01
  • メディア: 単行本


映画的世界の諸特徴についていろいろと挙げている
下記の項目分けはシノハラによるもので、スーリオがこのように分類しているわけではない。


(1)「われわれが一番よく眺められるよう親切に手筈されている」
世界がよく見える席が用意されているし、その中で起きる出来事とかも感動させるように組み立ててられている、と。


そもそも、この論では映画的世界も現実であると述べている(それゆえ、「映画的世界」と「非映画的世界」という分け方をしている)わけだが、一番最初にその作り物性とでもいうべき点を挙げているのは面白い。
スーリオ自身は「作り物」という言葉は使っていないが、「席が用意されている」というような表現は、西村清和っぽい


(2)「この世界のリズムは日常的世界のリズムではない」
速いとか遅いとかという話ではなく、意味のある出来事が濃密に詰まっている、ということ


(3)映画的世界を通した時間的・空間的な精神運動
要するにカメラの移動とか回想シーンとかのこと
カメラが移動すると見ている自分が移動しているように感じられるけれど、それは物語上(ディエジェティック)の出来事ではなくて、映画的世界と自分との共同行為なのだ、と。


(4)映画的世界は、視覚と聴覚のみでわれわれに働きかける
(4.1)視覚的なものは全て物語上の(ディエジェティック)内容を形成する
ただし、例外としてワイプをあげている。スクリーンと同じレベルに位置しているものとしている。句読点のような効果をもつといっているのがちょっと面白い
(4.2)聴覚的なものは2つに大別される
物音とセリフ→物語上の内容に割り当てられる(この説明の中で、画面内の音と画面外の音の区別にも触れているが、どちらも物語上の内容と結びつけられるとしている)
楽音→気分や感情などを表現する仕方でのみ映画的世界と結びつく
例外的な芸術的効果として、機関車の音が次第に音楽になるとか、フルートのメロディが次第に物語世界内の羊飼いの笛の音になるというような場合もあることが挙げられている。これについて「このような効果は(中略)音が分離して存在することに支えられているのだが、一瞬故意にこの分離にそむくのである」と説明されている。
(4.3)映画的世界は、いつも音楽を含んでいるという点が、非映画的世界と大きく異なる


(5)映画的世界の住人は内面や意識があまりない
小説と比較して、内面の心理などを直接知ることができない
また、芝居の世界と比較して、ことばよりも行動が強調される


(6)映画的世界の気象は、目的づけられている


(7)映画的世界では自然の一般法則が歪曲されている


(8)「観客は、夢を見ている最中にその夢を信じているのと同じ仕方で、映画的世界を信じている」


注釈の書き方でちょっと面白い、というか、この書き方いいなと思ったのは、例えば「非映画的」とか「物語上の」につけられた注に、その言葉の用例が3つほど付されていること。

感想

「このような効果は(中略)音が分離して存在することに支えられているのだが、一瞬故意にこの分離にそむくのである」とあったが
『フィクションは重なり合う』で自分が書いた「分離された虚構世界」と「物語世界」とが重なり合うという話と、かなりパラレルなのでは?! と思えた
まあ、自分が「分離」という言葉を使ったのと、このスーリオがいってる「分離」はまた別物ではあるのだけど(というか、スーリオはここで「分離」という言葉自体に特に重きを置いていないと思うが)
スーリオは、聴覚的な要素は、ディエジェティックなものとノンディエジェティックなものがあって、しかし、そうした区別があるゆえに、その区別にそむくようなことがあると芸術的効果があるよ、と言っており、一方で、視覚的な要素は全部ディエジェティックなものとしている。
自分の論を、この観点から整理すると、視覚的な要素でもノンディエジェティックなものがある件、ということになる。もちろんそれは、スーリオが言うようなワイプではなくて。ワイプはスクリーンと同じレベルと言っており、スクリーンは映画的世界「入口」だけれど、映画的世界そのものではない。
一方、自分が「分離された虚構世界」という時、それは映画的世界に属するけど物語上の内容にも属さないようなもののことを言っている
5年前にこれ読んでたらなあ……
ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの話は、近しい話のような気がするなあと思って、何となく気にしてはいたのだ、全然手が回っていないのである。

*1:正確にいうと、その論文で取り上げられていたのは、スーリオに影響を受けたウィンターズの議論であるが