岩下朋世『少女マンガの表現機構――ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」 』

これまであまり論じられてこなかった手塚治虫*1の少女マンガを題材に、何故論じられなかったという点でマンガ言説史を論じると共に、どのように論じるかという点で「キャラ」から「キャラクター」がどのように描かれるかということを論じる。
後者については、大塚のまんが記号説、伊藤の「キャラ」「キャラクター」概念を、より分析することで概念図式を精緻にする方向で進められる。


マンガ言説史については、手塚治虫について語られる時は、どうしても手塚治虫を規範として語られがちになること(手塚との距離によって語られる)と、少女マンガについては、24年組が同様のポジションになりがちなことを指摘し、24年組以前に位置することで語られにくくなっている手塚治虫の少女マンガを取り上げる。
表現論については、伊藤剛の「キャラ」概念を「キャラ図像」と「キャラ人格」に分けた上で、それに加えて「登場人物」との三項関係から、マンガの表現がどのように登場人物の「内面」を構成していくかを論じる。図像が複数あること、変身・分身のモチーフからこそ、立ち上がってくる「内面」というものに着目する。
個人的には、「記号的造形」と「記号的使用」という区分がよいなと思った。

序章 手塚少女マンガ作品をめぐる空白――本書の目的と構成
0 問題の所在
1 マンガ論における手塚の位置づけ
2 手塚治虫の少女マンガ作品について
3 手塚治虫を論じるということ
4 「少女」という概念および少女向け媒体
5 「表現論」というアプローチと本書の方法論
6 本書における「マンガ」
7 本書の構成


第一章 手塚の少女マンガ作品はなぜ語られないのか――先行研究の検討
0 「マンガ観」をめぐる問題としての「定義」と「起源」
1 手塚治虫研究に関する批判的検討
2 少女マンガ論に関する批判的検討
3 「リボンの騎士」に関する先行研究の検討
4 「手塚治虫の少女マンガ作品」を論じるための視角


第二章 登場人物の構成と表現の機構――「リボンの騎士」再考
0 「少女マンガらしさ」という前提
1 「リボンの騎士」における性別の描き分け
2 マンガにおける登場人物の構成
3 サファイヤの描き分けに見る登場人物の構成
4 登場人物の「内面」の構築
5 「リボンの騎士」における「内面」の描写


第三章 手塚治虫における少女マンガ作品――「ナスビ女王」「エンゼルの丘」分析を中心に
0 作品分析の視角と目的
1 「ナスビ女王」における登場人物の描写と「内面」の構築
2 「エンゼルの丘」における登場人物の描写と「内面」の構築
3 「双子の騎士」とリメイク版「リボンの騎士」における内面の構築


第四章 「マンガ」を論じるために――課題と展望
0 「マンガ」を論じる上での課題と展望
1 「手塚治虫のマンガ」を論じるために
2 「少女マンガ」を論じるために
3 「マンガ」を論じるために
4 〈マンガ〉をめぐる対話にむけて

第一章 手塚の少女マンガ作品はなぜ語られないのか――先行研究の検討

マンガの「定義」や「起源」を論じようとすると、そこにはどうしても論者のマンガ観が入ってくるということを指摘した上で、先行研究の検討としては、どのようなマンガ観が背景にあるのかを見定める必要があるとする。
手塚は戦後マンガの「起源」とされることが多いが、それにも何らかのマンガ観が背景にあるとして、「映画的手法」を巡る論争がまとめられている。三輪についても、「手法」から「様式」へということについて言及されている*2
伊藤の議論を通して、問題は「映画的」であるかどうかではなく、手塚が特権化され、規範として働くことだという。特定のモデルが規範となることで、多様な作品がこぼれおちてしまう、と。
続いて、少女マンガがどのように論じられてきたか
少女マンガについての言説は1970年代に急速に隆盛する。そしてそれらの少女マンガ論では、「24年組」が転換点として示されることが多い。戦後マンガについて「手塚」が起源として規範化されたように、24年組がそのようなポジションとなっている。
また、1970年代においては、マンガ≒物語マンガというマンガ観が主流となり、マンガから「おとな漫画」(カートゥーン)などが排除された。そうしたマンガ(物語マンガ)一般に対する「特殊」として少女マンガが発見されたともいう
手塚治虫の少女マンガの語られにくさ
手塚作品は、一方で、マンガの「起源」として位置づけられるが、他方で、少女マンガにおいては「24年組」よりも前の少女マンガ前史」の作品となる。そのねじれゆえに語りにくいのではないか、と。
手塚の少女マンガとしては、『リボンの騎士』が少女マンガの起源として取り上げられることが多い。
何をもって少女マンガの起源とされるのという点で、「性別越境」のモチーフが取り上げられることが多い。
「性別越境」モチーフに少女マンガ性を見てとる議論をまとめつつ、これらがやはり、1970年代的な少女マンガ観から遡及的に捉えるというアナクロニズムに陥っていることを指摘する。
そもそも、「性別越境」モチーフ時代は、『リボンの騎士』連載当時、マンガ以外の作品などにも見られていた。
三輪がいうところの、手法がどのような様式のもとで使われているのか見なければならないという考えと同様、「性別越境」モチーフも、作品のなかでどのような位置付けとして使われていたかを見ていかなければならない。


第二章 登場人物の構成と表現の機構――「リボンの騎士」再考

リボンの騎士』の性別の描き分けについて
サファイヤは、内容的にも形式的にも、「男らしさ」「女らしさ」が強調されて描かれていて、また固定されている。つまり、服装や目・まつげなど図像レベルで男らしく、または女らしく描かれている時は、振る舞いや作品内での立ち位置も「男らしく」「能動的」または「女らしく」「受動的」なものとして描かれている。
では、当時の手塚が、ジェンダーイメージについて固定的なものばかり描いていたかといえば、おなじ『リボンの騎士』に出てくる他の登場人物では、男の子っぽく振る舞う女の子が出てきたりする。
ポイントは
あえて「男らしい男」「女らしい女」という極端に類型的な表現を用いることで、サファイヤという複雑な内面をもつ登場人物を作り出した、ということである。
ここで、大塚英志の議論との類似と相違がある。
どちらも、マンガには、類型的表現――「記号的」な表現と、類型的ではない表現(大塚でいえば「傷付き、成長する身体」「リアリズム」、岩下でいえば「内面」)があることを示しつつ、大塚の場合は、前者を乗り越えて後者に至るという図式なのに対して、岩下は、前者を使って後者が可能になるという図式、と整理できるかもしれない。


図像の意味作用について、「記号的造形」と「記号的使用」という2つを区別している
「記号的造形」とは、類型的なイメージ、記号の持つ象徴的な意味を使用して、図像を造形するあり方である。
例えば、サファイヤに「大きなリボン」をつけることで「女性らしさ」を意味させる、とか
手塚のまんが記号説的なあり方で、ある程度予め意味が固定化されているものを組み合わせることで、造形するというもの
また、テプフェールのいう永続的符号(人の性格をあらわすような符号)にも言及されている。
「記号的使用」とは、2つ以上の異なる図像が同一の対象を指示するあり方である。
例えば、男サファイヤの図像と女サファイヤの図像が、同じサファイヤという登場人物を指示している、というように。
マンガに出てくる複数の図像が、記号的使用を通じて、事後的に登場人物という指示対象を立ち上げるのである。


さらに、伊藤剛の「キャラ/キャラクター」についても、このことを通して拡張する。
つまり、「キャラ」を「キャラ図像」と「キャラ人格」にわけて、伊藤のいう「キャラクター」を、ここでいう「登場人物」とほぼ同義として扱う。
伊藤の「キャラ」は、図像と「人格・のようなもの」の両方を意味する曖昧さを残す概念であったが、図像については「キャラ図像」、「人格・のようなもの」については「キャラ人格」として呼び分けるのである。
また、岩下は、「キャラ図像」をシニフィアン、「キャラ人格」をシニフィエ、キャラクターをレフェランに大まかに対応するとも述べている*3
「キャラ図像」が「キャラ図像」になるためには、他の図像と差異化される=独自性を持つ必要がある。
それが、視覚的な特徴で行われる場合もあれば、
セリフとか連続したコマに何度も出てくるとかいった文脈的な要素で行われる場合もある
この2つの場合分けを、「キャラが強い」と「キャラが強い(がキャラクターは立つ)」という2つの状況に対応させている。


具体的な作品分析として、『地底国の怪人』『リボンの騎士』が挙げられる
地底国の怪人』では、耳男が有名だが、死ぬ間際に、耳男、ミミー、ルンペンの子どもが実は同一人物であったことが明らかになる。
さて、ミミーやルンペンの子どもは、その正体が明らかになる前は、記号的造形によって描かれている。
ところが、その正体が明らかになるや、実は複数のキャラ図像が1つのキャラ人格を指示していたことが分かる(記号的使用)
このような複数の異なる図像の記号的使用を通して、「内面」があらわれるという。
つまり、外部からは窺い知ることのできない「内面」があったであろうことが推測できるようになるというわけである。
事前には、ルンペンの子どもは類型的なルンペンの子どもでしかなかったが、正体が明らかになると、実は耳男としての感情などが秘められていたことが推測される、ということである。
リボンの騎士』の場合、読者に対して正体が隠されていて、正体が明らかになる、というパターンではないが、明らかに異なる複数のキャラ図像が1つのキャラ人格に結びつけられ、そしてキャラクターを指示していることによって、図像レベルでは、類型的な「男らしい男」と「女らしい女」であるが、男の心と女の心の両方をあわせもつ複雑な「内面」をもったサファイヤとなるのである。
また、サファイヤが、男と女だけではなく、様々に変身していることも指摘されている。
人間ではない姿に変身した姿の図像であっても、なおサファイヤという同一の登場人物を指示するように使用され、それによって、見た目は鳥だが心は人間(サファイヤ)という形で、やはり外部からは窺い知ることのできない「内面」が描かれている(ここでいう「外部」は、作品外部=読者を意味しているのではなく、登場人物本人にとっての外部=他の登場人物を意味している)。


大塚の議論の場合、マンガは記号である、という時、それは「記号的造形」しか念頭になく、それゆえに「記号=非リアリズム」であり、だからこそ「リアリズム」(内面とか)をどのように描くのかが、衝突した。
岩下は、大塚の議論が、「非リアリズム」だから図像が世界に指示対象を持っていなくて、図像=対象(「記号的身体」)となってしまっていることを指摘、しかし、図像は「記号的使用」によって図像とは別に指示対象があると措定することで、記号であってもリアリズムは可能だということを示している。


第三章 手塚治虫における少女マンガ作品――「ナスビ女王」「エンゼルの丘」分析を中心に

手塚治虫の「リボンの騎士」以外の少女マンガ作品を分析していく。
具体的には、章タイトルにあるように「ナスビ女王」と「エンゼルの丘」である。
この2つの作品では、「入れ替わり」のモチーフが使われている。
さらには、「双子の騎士」、リメイク版「リボンの騎士」、「ヨッコちゃんがきたよ!」「あらしの妖精」といった、それ以外の手塚治虫の少女マンガ作品も取り上げられる
分身のモチーフをとおして、各作品がどのように「内面」を立ち上げていくか。
そしてまた、それらが各作品でどのように同じでどのように違うのか、ということを見ていき、この時期の手塚治虫が、様々な模索をしていたことを示す。
また、同様に分身や正体を隠すというモチーフを用いながらも、手塚の少年マンガ作品では、少女マンガとは違う方向性に向かっていることを示し、手塚にとって、少女マンガが、内面を描くための表現を実験する場であったとしている。


第四章 「マンガ」を論じるために――課題と展望

本書がここまで論じてきたことの応用の可能性として、少女マンガではない手塚治虫作品、手塚治虫作品ではない少女マンガ、そして現代のマンガを取り上げている。
少女マンガではない手塚治虫作品としては『火の鳥
手塚治虫作品ではない少女マンガとしては萩尾望都
現代の作品としては、『鋼の錬金術師』『しゅごキャラ!*4『山田くんと七人の魔女』が挙げられている


感想

「記号的造形」と「記号的使用」という概念が面白いなあと思った。
もしかしたら、ちょっと違うかもしれないけれど、
「記号的造形」は、性格や気質の表現
「記号的使用」は、対象への指示
ではないかなと思った。
ここでいう「表現」は、美学とかで、「再現representation」と対になって使われる「表現expression」
「この絵は、海岸の木々を再現していて、悲しみを表現している」みたいな奴
でも、そもそも何故絵が、性格や気質を表現できるのか、描写できるのか、みたいな問題がある。
『線が顔になるとき』でも、顔の絵が性格を描いているみたいな話が、それこそテプフェールあたりと絡めて出てきた気がする。
ここでは、類型的なイメージの使用(記号の組み合わせ)で、そういう表現がなされている、ということで「記号的」ってついていて、実際マンガにおいてはそうだと思うけど
(いきなりグッドマン用語だすけど)稠密であっても、性格や気質の表現は可能だとは思う(そもそも人間の顔とか写真とか稠密だし)
「眉間に皺ができてる」顔だと「怒りっぽい気質」なのかな、みたいな。で、その「眉間の皺」は、類型的に描かれること(分節の目が粗い状態)もあれば、実際の人間の顔のように稠密な場合もあろう、と。
「記号的造形」の話で面白いのは、指示対象がないけど、性格や気質を表現している図像だということで
『線が顔になるとき』にあったような気がするんだけど、色々な性格をあらわした顔の絵が並んでいる奴とか、あれは別に具体的に誰かの顔を再現ないし指示しているわけじゃなくて、「怒りっぽい気質」を表現するとこんな顔、みたいなものなのではないかと思う。
とはいえ、それは再現的なので、何か対象が立ち上がってしまう。
「怒りっぽい気質」の表現は、「怒りっぽい人」の表現であるとともに、「怒りっぽい人」一般を描写・再現しており、そして「the怒りっぽい人」キャラを指示しているようになる(キャラ人格が立ち上がる)。
「怒りっぽい人」だとわかりにくいけど、例えば、アンクル・サムとか分かりやすいのではないか。
アンクル・サムは、元々は、なにがしかの人物を再現・指示しようと描かれているものではなく、「アメリカ合衆国」を象徴的に表現している図像。でも、人の形をしているためか、アンクル・サムという人物が、事後的に立ち現れている(のではないかと思われる)。
と、ここまでくると、小田切博のキャラクターの3要素と絡めたくなる。
岩下本でも言及があるが、小田切とは興味関心のありかが違うので、話を繋げることは可能だろうが後日の課題とする、というのにとどまっている。
これについては後で。


「記号的使用」というのは、複数の図像が同一の対象を指示する、ということだと思うが、ここで指示対象というのが出てくる。
これって大げさにいうと、図像レベルの話に留まろうとしてきたマンガ表現論にとっての形而上学的転回、なんじゃないかと思ったりしないでもないけど、まあそれはそれとして。
ここで気になったのは、記号的使用による指示対象って何なのか、言い換えれば、「キャラ人格」と「登場人物」の違いはどのあたりにあるのか。
「キャラ人格」と「登場人物」は、伊藤剛の「キャラ」と「キャラクター」に対応するものなのでもともと似ているところがあるのだが、本書では、別物であることを強調するために、「キャラクター」は「登場人物」と言い換えられている。
ただ、どちらも「キャラ図像」の指示対象となっているように読める。
キャラ図像を差異化させる2つのあり方というのがあって(視覚的なものと文脈的なもの)、このどちらかが、おおむね「キャラ」か「キャラクター」かに対応していくるというような記述があったんだけど、ここらへんもう少し論じられていてもいいのではないかと思った。
「キャラ人格」と「登場人物」の違いというのは、程度の差に過ぎないのか、質的な差があるのか、というのが気になる。
複数の図像を同一のものと判断するために、同一の指示対象が必要となるわけだけど、複数の図像を同一にするのにも段階があって、例えば「女の姿をしたサファイヤ」の図像は、それぞれのコマやページに複数描かれていて、場合によっては文脈から遊離して一枚絵とかとして描かれていたりして、そうした複数の図像から「女サファイヤ」という「キャラ人格」という対象が指示されていくのだと思う(本書でいう視覚的な差異化)。
そして、さらに「女サファイヤ」とか「男サファイヤ」とか「鳥サファイヤ」とかいった複数の「キャラ」が指示している対象が「サファイヤ」という登場人物となる(本書でいう文脈的な差異化)。ここで、図像とも人格ともとれるように「キャラ」と書いたけれど、多分ここ「キャラ人格」なのではないか。視覚的に同一性が判断されるキャラ図像の一群によって「キャラ人格」が指示され、複数の「キャラ人格」(とそれを指示している複数の「キャラ図像」群)が「登場人物」を指示している、という二重構造っぽくなっているのではないか、と*5
そういう意味では、「キャラ人格」と「登場人物」の違いは、ある意味では程度の差(量的な差)におさまるような気もする。


しかし、先ほど「記号的造形」のところでちらっと書いたけれど、「the怒りっぽい人」とか「アンクル・サム」とかは「キャラ人格」のように思える。
「記号的造形」と「記号的使用」というのは、意味作用としては結構異なるものじゃないかと思う。これらの作用で意味されるそれぞれのものって、それこそ質的に違うのではないのだろうか、というような感じがある。


で、ここで出てくるのが、小田切博のキャラクター3要素
すなわち、「図像」「意味」「内面」である。
で、確かに小田切は、これらの3つがキャラクターの要素であり、少なくとも2つがあればいい、ってなことは言っているけど、それらの要素間での作用がどうなっているかとかはあまり書いていなかったような気がする。岩下は、意味作用に興味がある。


ということで、完全なる思いつきなんだけれど、
「図像」と「意味」をつないでいる意味作用が、「記号的造形」
「図像」と「内面」をつないでいる意味作用が、「記号的使用」なんじゃないか、と。
田切のいう「内面」が、岩下のいう「登場人物」である。
では、「意味」が「キャラ人格」なのか、といえばそうではない。小田切の「意味」にあたるものが、岩下の三項図式にはない。
アンクル・サムという「図像」は、アメリカ合衆国を「意味」しているし、例えば眉間に皺を寄せた感じで描かれている顔の「図像」は、「怒りっぽい気質」や「怒りっぽい人一般」を意味している。
具象物を描いているように見える図像が、抽象的な対象(「アメリカ合衆国*6 )とか性質とか普遍とかを意味しているっていうのはどういうことか、ということ自体、なんか色々考えなきゃいけなさそうな問題なんだけど、とりあえずここでは置いとく*7
それで、「キャラ人格」というのは、「意味」と「内面」の中間あたりに位置する概念なのではないか、と。


「記号的造形」という意味作用から、「内面」は出てこないし、
「記号的使用」という意味作用から、「意味」も出てこない
一方で、
「キャラ人格」は、「記号的造形」からも「記号的使用」からも立ち上がりうる。
「意味」のそのさらに先として、あるいは「内面」の前段階として。
多分、「図像」が人の形、いや、伊藤剛の議論的には、人の形をしている必要すらないけれど、でもたぶん、目と口っぽいものくらいは要るような気がするが、とにかくそういうのがあると、人間は勝手に顔とか「人格・のようなもの」=「キャラ人格」を読み取ってしまうのだろう。
だから、「キャラ図像」があると、否応なく「キャラ人格」もある。
で、その「キャラ人格」によって複数の「キャラ図像」を同一に束ねることができるから、それをもとに「登場人物」が指示できるし、
また、ただの「意味」だったものを、個別具体的な対象にできる、のではないか、と。

別件

伊藤剛の「マンガのおばけ」って、結局、三輪本でも岩下本でも積極的に言及されなかった。
「マンガのおばけ」って、どういう線で描かれているのか、つまりメディウムの特性みたいなものが、表現内容にも影響を与えているみたいな話で、メディウムの特性だけの話から脱しようとする三輪本と岩下本では、言及がないのも宜なるかな、という感じなのかもしれない。
三輪本は、「映画的」か「非映画的」かというのを、「写真」か「線画」かというメディウムの違いではなく、「映画的様式」か否かという違いで問い直すものだったわけだし
岩下本は、図像即身体という大塚的な議論ではとらえられない、「登場人物」という図像の指示対象を炙り出す議論だったわけだし
マンガ表現に一般的に通じるような理論を作る、という意味では、三輪本・岩下本の方向性って正しいような気がする。
でも、一部の作品にしか出てこないんだけど、それがゆえにその作品を批評する際に使えるっていうのは、「マンガのおばけ」みたいな概念だったりするのではないか。
テヅカ・イズ・デッド』の議論は、「キャラ/キャラクター」については岩下本が、「フレームの不確定性」については三輪本が、それぞれ、より深め、乗り越えるような仕事をしているわけれだけれども、「マンガのおばけ」についてはいまだ手つかずなのでおり、その点で伊藤本もまだその歴史的役割を全然終えていないんじゃなかろうか、と。

*1:「塚」の字、本当はもう一本線が多い字なのだが、うまく表示されないので「塚」で

*2:『マンガと映画』の出版はこの本よりあと、ここで言及されているのはその元となった「「映画的手法」から「映画的様式」へ」という論文の方

*3:ところで、レフェランが何だったのか忘れたので慌ててググったのだが、指示対象のことらしい。シニフィエとレフェランというのは、フレーゲいうところの意義(意味)と意味(指示)のことらしい

*4:作者がローゼンメイデンと同じだということを恥ずかしながら知らなかった

*5:ところでそういうふうに考えると、耳男については、ミミーの「キャラ図像」、ルンペンの子どもの「キャラ図像」それぞれに「キャラ人格」があって、それらがさらに束ねられて「登場人物」になっているのではないか

*6:もちろんアメリカ合衆国の国土は特定の時空間に位置を占めているから抽象物じゃないけれど、「国家」という仕組みや「国民性」という性質を含めた諸々と考えればまあ抽象物っぽいところもあるかな、と

*7:田切本でも「意味」というのは、類型的なものとして説明されていたような気がする。まあ大体は類型的なものなんだろう。ただ、感想の最初でも書いたけど、類型的(あるい有限な要素の組み合わせのパターン)であることは、こういう意味作用の説明ではないような気がする。類型的でなくてもこういう意味作用(「表現」)は働きうる。じゃあなんなのか、うーん、慣習とか? 今はそれくらいしか思いつかない。グッドマンの、「比喩的な所有」「例示」とかは、まあ確かによく分からないかもしれないけれど、説明しようとはしている気がする