野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

今、『論理哲学論考』そのものも途中まで読んでいる。
いずれ、最後まで読む。


ウィトゲンシュタインは面白い。
『論考』でも『探求』でもそうだが、とにかく現実に成立していること(あるいは日常言語)から始めるという態度は、いいなあと思う。
言語観にしても、言語それ自体が一つの現実であることとか、構成主義とか、そういう態度から出発して到っている。


野矢は、論考を「基底」と「操作」という二つの概念によって整理し、それによって後半の独我論や倫理の問題なども前半と同じ視座で見ていくことを可能にする。
「操作」は、「強いアプリオリ」として見いだされるわけだが、探求において、「規則のパラドックス」によってそれがアプリオリではないことになってしまう。とはいえ、アプリオリではないにしろ、この「操作」とか「規則」とかいうのは、ウィトゲンシュタイン哲学にとって重要で興味深いものであることは変わりがないし、何か非常に根源的なものであるように思える。
論考の、論理空間的独我論は、ちょっとよく分からなかった。野矢の解釈通りだとして、その論理空間そのものが生じるときに他者が出てくるんじゃないかと思ったが、野矢が論考は時間的な流れを確信的に無視している、というので、まあそういうことにしておく。
一方で、主体否定テーゼというのは、とても面白かった。
主体の同一性の問題とかね。


論理語は名ではない、数は名ではない。
では何か、というとどちらも「操作」である。
この「操作」が論理であって、そしてまたそれは説明することができない。言い換えれば、それを知らないものに教えることは出来ない。ただそれは、解明することが出来るだけである。
結局、『論考』ないし『論考を読む』の肝みたいなのは、こういうことであって、そしてこれが何よりも面白いのである。
「言語論的転回」という言葉の意味が、ようやく分かってきたような気がした。

わたしは言語論的転回を考え方の変化だとは思わない。それは発見であり、端的な驚きだと思う。
何についての驚きかと言えば「言語のなかに数学みたいなものがある件」について。

http://www.at-akada.org/blog/2007/12/20071226.html#id_p1

赤田さんのブログに以前書いてあったことで、この記事をブクマした時は、いまいちピンときていなかったのだけど、この本を読んでいる最中にこれを思い出した。


論理形式とかは、チョムスキーの考えとも似ているのかもしれないなあ、とか思った。
写像というのは、まだよく分からない。