仲俣暁生『極西文学論』

仲俣暁生の常で、というべきかもしれないが、この本は論理展開が真っ直ぐ進んでいかない。歴史的事実と小説や歌の中の言葉を重ね合わせていくことで、何かを炙り出そうとする。
さて、『ポストムラカミの日本文学』『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』が、ある種の闘いの記録だったとするならば、この『極西文学論』もまた闘いの記録である。そしてまた、先の二作が、共に闘う仲間や、闘いを挑む敵を示したのだとすれば、これは闘いそのものを示している。あるいはこれは、評論ではなく、物語といった方がよいのかもしれない。


この本で語られる物語は、「恐怖」を解除することをその目的とする。
それは自分を見失う「恐怖」である。むろん、「自分」なるものはもはや自明ではない。だが、自分を見失うことによって、より巨大な暴力へと組み込まれることに抗することが目的だろう。
仲俣は、村上春樹を、「恐怖」と向き合いながらも、ことごとくその解除に失敗した作家だと位置づける。
そして、舞城王太郎吉田修一星野智幸保坂和志阿部和重の作品の中に、村上春樹の失敗した試みの続きを読み込んでいくのである。
ここでキーワードとなってくるのが「視線」と「言葉」である。
ここで対比されるのが、吉本隆明の「ハイ・イメージ」ないし「世界視線」だ。これは、吉本がランドサット衛星の映像を見て驚いたところから端を発するのだが、要するに高々度から世界の全てを眺める垂直的な視線のことである。
しかし仲俣は、このようなある種の暴力的な視線を望まない。
むしろ、水平方向の視線の交錯によって、世界が構築されていくところを望む(これは保坂的だし阿部的だろう)。
あるいは、少し高いところからの斜め上の視線だ(これは吉田の「パーク・ライフ」的だ)。あるいは、自由に高さをコントロールすることが求められている(これは舞城や星野の描く「森」と対応する)。
「視線」を自分のものにすることは不可能だ。そしてだからこそそれは「恐怖」となる。
しかし、思うがままにならない「視線」について意識化することによって、「恐怖」は解除することが可能になるだろう。その意識化の作業において重要なのが「言葉」なのである。それは「イメージ」であってはならないのだ。高々度から世界の全てを眺めるだけの「イメージ」では駄目で、様々な「視線」の絡まり合いのなかから「言葉」を構成しなければならないのだ。
さて、この本のタイトルともなっている「極西」とは何だろうか。
これもまた「恐怖」を解除するためのキーワードだ。
「恐怖」とは、自分を見失い、巨大な暴力へと巻き込まれていくことだ。
冒頭、仲俣は、サイモンとガーファンクルの「アメリカを探しに行く」というフレーズを紹介する。サイモンとガーファンクルアメリカに暮らすアメリカ人だ。何故彼らが「アメリカを探しに行く」のか。それは「アメリカ」人たる彼らにとって「アメリカ」とは何か分からないからだ。
あるいは、村上春樹は、自分‐共同体‐国という同心円から逃れたくて、自分の中に別の中心を設定する。それこそが「アメリカ」だという。
アメリカ」は「恐怖」を解除するために見つけなければならない鍵なのだ。
アメリカ」はフロンティアを見つけ出す運動、いわゆるフロンティア・スピリットに「アメリカ的なもの」を見出すだろう。それは西へ西へと進む運動である。だが、アメリカ大陸からフロンティアはとうに失われている。そしてさらにその西、「極西」に日本はある。
とはいえ、再び高々度から世界を眺める視線を思い返してみるならば、今やフロンティアなどはどこにもないだろう。地理的に西を目指したとしても、「恐怖」を解除してくれるような「極西」はもはやない。
ならばどうするか。
順序が逆になってしまったかもしれないが、もはや地理的には発見できない「極西」を見つけ出す方法は既に述べた。つまり、「視線」と「言葉」だ。


極西文学論―West way to the world

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