ポリフォニーとか

このタイミングで、東浩紀とか読書とかのタグつけた日記書いたら、当然「キャラクターズ」についてだと思われそうだけど、残念ながら違う。まだ読んでいない。
カラマーゾフの兄弟』を読んだので、『小説家が読むドストエフスキー』という本のカラマーゾフについての章を読んで、それから東の「ソルジェニーツィン試論」と「写生文的認識と恋愛」を読み直してた。
前者では、バフチンドストエフスキー論を要約してから、ドストエフスキーキリスト教的テーマについて論じられている。
バフチンドストエフスキー論というのは、もちろんポリフォニーのことなのだけど、バフチンドストエフスキーの小説の特徴としてあげていることとして、ポリフォニー、自然描写がない、同時性(カーニヴァル的)、歴史を書かない、ドラマにならない、ということがある。
この中で、特に注目しておきたいのは、ポリフォニー性、同時性、ドラマにならない、ということ。これらは要するに何かというと*1、色々な考えを持っている人が一斉にわーっと集まってきてわーっと喋っている、という感じ。
ミーチャやホフラコワ夫人の喋り方がまさにそうで、全然人の話を聞かないで、自分の話をひたすらしまくる、という(^^;
『カラマーゾフの兄弟』を読んだ感想を書いたときキリスト教についてはよく分からないと書いた。
まあ、実際、信仰については分からないんだけど、それ以上に分かりにくいのは、色々な考え方が同時に並列されているからなんだと思う。
敬虔な信者アリューシャと無神論者っぽい感じ*2のイワンが出てくるとき、何となくアリューシャが善でイワンが悪っぽい役割なのかな、とも思うけど、そう簡単には割り切れない。
無神論者である僕にとっては、アリューシャよりイワンの言っていることの方が納得できるような気がする、というのが一つの理由だ。
近代化が進むロシアで、近代化への賛否両論が語られていて、この作品の多くの人が賛同しているのはむしろ前近代的な価値観で、近代人(?)の僕としてはなかなかそこにはコミットできない。ただ、これも一概には言えなくて、アリューシャ(キリスト教)やミーチャ(ロシア的なるもの)が、(近代的な啓蒙をされていないという点で)野蛮かというとそんなことはない。
イワンは、作中の中では、もっとも西欧近代的な人間としておそらく設定されているのだけど、必ずしもそうでもないんじゃないかとも思ったりしなくもない。
それは、ドストエフスキー自身の経歴にも現れている(ようだ)。
つまり、彼はもともと運動家で無神論者的なグループに属していた。考え方は次第に変わっていったわけだけれども、アリューシャ的な考え方もイワン的な考え方も、ドストエフスキーの内部にあったと言える。


id:SuzuTamakiくんが、最近「相対主義的な倫理観」といったことを考えている。
善悪が相対化した状況でどのように物語を語れるか、ということに興味があるらしいん*3だけど、『カラマーゾフの兄弟』はまさに、複数の価値観が同時に出てくる作品だと思う。
「深く考えずに読んだ」と感想に書いたわけだけれど、色々な思想が同時に語られているものだから、ある思想に対してこの作品を期に考えてみる、ということができなかったんだと思う。


ここらへんで、東浩紀に。
ソルジェニーツィン試論」「写生文的認識と恋愛」はやはりどっちも面白い*4
前者はソルジェニーツィンについて、後者は夏目漱石について論じているが、どちらも『カラマーゾフの兄弟』が比較対象として出てくる。
で、ここでは特に後者なのだが
ポリフォニーというのは、何も複数の登場人物が出てくることによってのみではなく、一人の人間の中にも含まれているということが論じられている。
ある一つの文が、一体どのような意味を持つのか、それは状況に依存する。それゆえ、ある発言から二つの意味が読み取れるような場合がある。
その際、どのようにして意味を一つに決定することができるのだろうか。
それは不可能である。発話者の「意図」すらも、それを決定することはできない。何故なら、「意図(内語)」もやはり文で表現されている以上、二つの意味を孕んでいるからだ。
イワンがスメルジャコフに対して言った「殺すな」は、文字通り殺すなという意味だったのか、それとも暗に殺せと命じていたのか。
その発言をしたとき、イワン自身は決して殺せと暗に示していたわけではなかった。しかし、後にスメルジャコフからそのような解釈を聞かされると、そのように示していたと思うようになる。これは、その発言をしたとき、イワンが「無意識」では殺せと思っていた、というわけではないのである。これは、どちらも正しいのである。発言したまさにその時、イワンは殺せと思っていたわけではない。これは正しい。スメルジャコフから聞いた後に思い返してみると、イワンは殺せと思っていた。そしてこれも正しいのだ。
さて、夏目漱石の「写生文的認識」というのは、全てを「写生」するかのように描いてみせることである。
しかしここには困難がある。
以上のような、ポリフォニックな状況を描こうとすると、どうしてもメタ的な描写になるだろう。だが、だからといって殺せと思ったり殺すなとも思った、と書いてしまっては駄目なのである。これでは、「殺せと思った」状況あるいは「殺すなと思った」状況を「写生」したことにならないからだ*5。それ故に、ポリフォニックでありながらモノフォニー化しなければならないのである。
ということが、夏目漱石の描く恋愛を通して論じられているのだが、これは動ポモで解離的と称されたギャルゲーの消費のあり方と全く同じだ。複数の少女を同時に対象とする点でポリフォニックだが、一度フラグが立てば一人の少女と恋に落ちるという点でモノフォニックだ。


ソルジェニーツィン試論」の方は何か、というと、確率についての話で、ポリフォニーとかとはちょっと違ってくる。
題材がソルジェニーツィンだし、何だか難しそうな文章だし、こんなものが20歳に書けたのか、やっぱり頭いい人は違うなーと思わせるわけだが、一方で「だから僕は哲学したいんだよ」という内心の吐露だと思って読むととても親近感の湧く内容であったりなかったりする。


なんか、だらだらとした文章になってきてしまったので、なんかうまくまとめられないかな、と思ったのだけど、
ポリフォニーからモノフォニーへの転換というのは、とてもアクロバティックでよくわかんないなーというのが東の考えていることだと思う。要するに、ポリフォニーな世界が前提なのだと思う*6
『小説家が読むドストエフスキー』によると、ドストエフスキーのポリフォニックな小説は発表当時、何が何だか分からないものだったらしいけど。
ポリフォニーからモノフォニーへの転換、というのは、無時間から時間の生起、と言い換えることができるかもしれない*7。メタ物語から任意の物語が選ばれる、でもいい。そしてそれは、「ソルジェニーツィン試論」で「確率的」と称された「根源的」な問題とも言えるのではないか。
ここで最後に、「固有名への愛/ポリリズムの恋(araig:net)」というエントリを紹介したい。
東は、「写生文的認識と恋」の中で、夏目漱石の描く恋愛をポリフォニーからモノフォニーへのアクロバティックな転換として捉えた。
このエントリでは、恋愛というものに、無時間と時間がどのように関わっているか考察されている。


小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)

小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

*1:バフチンの大著を要約して紹介することに、作者の加賀乙彦は「罪の意識」を感じているらしいけど、それをさらに要約している自分はなんだ

*2:あるいはニーチェ

*3:以下の文とは関係なくなるけど、相対主義に抗しつつ複数の価値観を示す試みとして、多元主義について考えてみるといいかもしれない

*4:学部生時代に書いているんだよなって事を考えるとくらくらする

*5:今ふと思ったけど、連言と選言の違いか?

*6:逆に、id:SuzuTamakiくんは、モノフォニーな世界を前提にしているような気もする。分からないけど

*7:バフチンの指摘に、「同時的(カーニヴァル的)」というのがあったことを思いだそう。あるいはそれを受けて加賀は、人物の過去が書かれないのがドストエフスキー的小説であり、人物の過去を延々書き連ねるのがプルースト的小説だともいっている。ポリフォニーの世界は無時間的な世界である、ということの傍証になるのではないか