失効した弔い・償い・赦し

上のエントリ「罪を償う/赦す」の続きである。

sakstyle: そうか、 @SuzuTamaki は罪と罰の物語を好むのか。 俺は、罪と罰が失効してしまうような物語の方が好き。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/825245279

欠落を抱え込んでなお生活するための手続として、上のエントリでは、償いと赦しを挙げたが、さらに弔いもそこに加えることができるだろう。
喪失をいかに弔うか、というのは、仲俣暁生の文学論のテーマでもあると思う*1
しかし一方で、そのような弔い、償い、赦しがうまく機能しないことを描いた作品というのもまた多く、そしてそのような作品にこそ僕は深く感じ入ってしまう。
あるいはそのことは、「戦後としてのゼロ年代(拙エントリ)」や「震災文学(斎藤環*2」と絡めて論じることが可能かもしれない。
90年代の「戦死者」に対して、いかなる弔い・償いが可能なのか、という問題である。
大塚英志に従うのであれば、そうした弔いの可能性ないし不可能性を描いた作家というのは、清涼院流水高見広春谺健二の3人である。


弔い、償い、赦しの失効を描いた作品として、僕が思いつく作品をいかに羅列することにする。

役所広司宮崎将を赦したか。否、役所に宮崎を赦すことはできなかったはずだ。彼らはともに、欠落を抱えて、生活を続けることが不可能になってしまった者たちであり、どうにかして生活を回復させようとした物語が本作である。

本作を、弔い、償い、赦しという観点から見るのは、些か違和感もあるが、とにかく本作での役所広司は、償いや赦しといった手続とは全く異なる回路を通して、生活へと戻ってみせる。だからこそ、怖ろしい。

この作品における、カメラと少年達の距離感というのは、そのまま彼らを赦すことの不可能性を示しているように思う。一方で僕は、その距離感を決して崩さなかったことに、ガス・ヴァン・サントという監督の優しさのようなものを感じる。

この作品が描くのは、弔いの失敗だ。

『誰も知らない』というフィクションがなした優しさと残酷さとは、この子供だけのコミュニティに、我々の社会とは異なる形で、死を受容させたことである。
 彼らの行為は、我々の社会では死体遺棄と呼ばれる犯罪行為であるし、また身内の遺体を「気持ち悪い」と表現するのは忌避されることである。しかし、死を直接的に表現し、また死体を直接埋葬することによって、このコミュニティは維持されるのである。構成員の死という打撃に耐え抜くのである。彼らは妹の死までも自らのコミュニティ内で処理することにより、妹の存在そのものを我々の社会にまったく承認させなかった。

http://www10.ocn.ne.jp/~fstyle/text/nobodyknows.htm

鏡公彦は、兄を弔いそこねているし、少女達への罪を償いそこねるし、妹から赦されそこなう。
とにかく不可能なのである。
僕は、『灰色のダイエットコカコーラ』に関しては「ミナミ君とハサミちゃんの呪縛」という表現をしたことがあるが、何故呪縛なのかといえば、償いも赦しもなく、永遠に苦しまなければいけないからだ。
また僕が決定的に佐藤友哉にいかれたのは、この作品の以下のくだりによる。

90年代に対してどんなオトシマエをつけてやるのか。
90年代なんてもうダサイ? 分かってるさ、そんなことは。でも、そこに何度だって拘泥してやる。
(そういうわけで、やっぱり「赤色のモスコミュール」が最高だと思ってしまう。「あと六時間で今日が終わり、代わり映えのしない明日が絶対にやってくる。」この一文が、僕と佐藤友哉との最初の出会いで、脳裏に刻みつけられている。「本格的に殺意が湧いた」の下りに匹敵する。)

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070608/1181318667

「代わり映えのしない明日が絶対にやってくる」というのに、ミナミ君への罪を償うことができない「ぼく」。
さてこのように徹底して弔い・償い・赦しの不可能を描いた作家として佐藤友哉を見るとき、『子供たち怒る怒る怒る』*3と「333のテッペン」*4は興味深い。

  • 『明日、君がいない』

自殺することになった少女が自殺した理由と、自殺しなかった他の人たちが少女に向ける視線のぎこちなさだ。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070802/1186064143

この、最後の「ぎこちなさ」が、償いや赦しの不可能性に繋がるような気がする。

説明不要。http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070708/1183903477


では一方で、弔い、償い、赦しの可能性を描いた作品はないのか。
もちろんある。

僕が、罪と罰、償いや赦しといったテーマに興味を持ち始めた原因の一つは、間違いなくこの作者にある。
「カラスと少女とヤクザ」「きっとかわいい女の子だから」から『EDEN』「プラットフォーム」へ
罪を描くことから、償いと赦しを描くことへ

煙か土か食い物』も『暗闇の中で子供』*5も赦しの物語だ。

なぎさは、藻屑を弔うのだろうし、友彦は、なぎさを赦した、といえるかもしれない。

3巻収録の震災編は、文字通り震災の死者に対する弔いを描いたものである。
7巻には、日和さんの死に対する桂の苦しみが描かれている。
それは桂による日和への弔いでもあるが、一方で、桂が抱いた日和への罪*7が赦されるまでの過程でもある。

うーん、ちょっとこの文脈で出すのはよくないかもしれない。
葉月里緒菜の「あなただけゆるします」という台詞が出てくることと、『CURE』と対照されているかのような作品であることから、挙げてみた。
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080106/1199634477

『エレファント』が、少年が日常から非日常へと離れていってしまうところを描いた作品であるとするならば、本作はどうやって日常へと帰還するかということを描いた作品である。
アレックスはメイシーに手紙を書く(そしてその手紙は燃やされる)。それが、償いと赦しになるかどうかは分からない。しかし、一つの可能性である。
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080428/1209390750

*1:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070321/1174496159http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070201/1170342411。また僕は、佐藤友哉「333のテッペン」を評するのに「青春を葬送すること。それは青春を忘れることではない。青春を抱えたまま、青春から抜け出して生きること」と書いたが、我ながら仲俣的な言い回しだなあと思っている。http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080423/1208955477

*2:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080410/1207847243

*3:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20050831/1125477673

*4:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080423/1208955477

*5:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070201/1170342410

*6:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060804/1154696083

*7:形而上の罪という奴か