1925年の上海で起きた五・三〇事件を、上海在住の日本人の視点から描いた長編小説。横光の第一長編でもある。
五・三〇事件は、中国人による大規模ストライキだが、一方で、本作の物語は三角関係、四角関係の恋愛模様を中心にしてすすむ。とはいえ、この作品の主眼は、そういう人間模様ではなく、やはり1920年代の上海の様子を描いている点だと思う。
ここ最近、大正から昭和初期の日本文学をいくつか読んできたが、とりあえず横光利一でいったん終了とする予定。短編集ばっかり読んできて、横光も短編かなとは思ったのだが、作品リストを眺めていて『上海』というタイトルに興味をひかれたので、これを読んでみることにした。
横光は、1928年に上海に訪れており、その時の体験をもとにしている。雑誌で連載されたものをのちに改稿して決定版とした。全44章からなる。
上海で銀行員をしている参木、その友人でフィリピンの材木会社勤務の甲谷、参木のことを好いている風呂屋の湯女であるお杉の3人を視点人物として展開していく。
参木視点で書かれる章が最も多く、次いで甲谷視点、お杉視点の章もたまにある、という感じ。
人間関係がやや複雑で
もともと参木は、甲谷の妹である競子が好きなのだが、競子は他の人と結婚している。しかし、その夫が死にそうになっていて、その死の連絡を待っている。なお、競子は上海にはおらず、作中でも名前が出てくるだけで、登場してこない。
で、上述のとおり、参木はお杉から好意を寄せられていて、それに気付いているのだが、最後の方になるまで、参木はお杉を避け続ける(というか、もてあそんでいる感がある)
ただ、芳秋蘭という共産党員でもある女性と出会い、彼女の窮地を助ける展開があって、互いに惹かれ合っていく。
この参木と芳秋蘭の淡い恋愛、みたいなのが、一応物語の中心にあるのかな、とは思う。
甲谷は、上述の通り、フィリピンの材木会社の社員だが、結婚相手を探しにきたといって上海を訪れている。兄の高重が上海で働いており、芳秋蘭は高重のいる工場で働いている労働者でもある。
甲谷は、宮子という踊り子に惹かれていくことになるが、この宮子は、上海に集まる欧米各国の男性(米GEや独AEGの社員)から言い寄られている。
参木と甲谷の友人にアジア主義者の山口という男がいて、彼の元にはオルガというロシア人女性が身を寄せている。参木は山口からオルガと一緒にいるよう言われる。
お杉の勤めている風呂屋の女主人がお柳で、彼女の夫は銭石山という中国人商人である。
また、山口の同志として、アムリというインド人も出てくる。
基本的には日本人たちの物語ではあるが、それでも多国籍な登場人物構成で、国際都市上海の雰囲気を生み出している。
お柳が参木とお杉に嫉妬してお杉を首にする
正直、この展開はよく分からなかったが、首を切られたお杉は参木の下宿を訪れ、そこにいた甲谷が夜にお杉と関係をもつ
暗かったのでお杉は相手が参木だったのか甲谷だったのか分からず、しばらく悩み続ける
そしてその直後から、参木も甲谷も参木の家に帰ってこなくなり、結局、お杉は路頭に迷い売春婦となる。
物語開始時点で、参木は銀行員であるが、専務の不正の片棒を担がされており、わりと仕事が嫌になっている。競子の件も含めて、わりと厭世的な感じで、時によっては、死にたいというようなこともいうキャラクターである。
ある時、銀行の現金輸送車が襲撃されるかもしれないという噂がたち、誰も車に乗りたがらない。その際、参木は、責任者である専務が乗るべきだと主張した結果、くびにされる。
参木は、甲谷の兄である高重が働いている工場で雇ってもらうことになるが、その工場で暴動が起きる。
その際、参木は芳秋蘭を助ける。
お互い何となく惹かれ合いつつも、マルキシズムと東洋主義をめぐる会話が展開される。プロレタリア連帯を主張する秋蘭と、愛国を主張する参木で政治的意見が対立するが、対立したくない秋蘭の側から会話を打ち切る。
この暴動自体は突発的なものであったが、秋蘭自身、共産党の活動家であり、共産党や国民党により上海の中国人は大規模なストライキへと突入していく。
参木は、その後、秋蘭と再会するため、上海を歩き回り、デモの場で再会を果たし、そこでも秋蘭を救うことになるが、2人の道は別れていく。
一方、甲谷の方は、フィリピンの材木が上海で苦戦していることを知り、俄然張り切って材木を売る策を練る。参木と違い、甲谷は上昇志向があるというか、いずれ為替取引とかで儲けて金持ちになるぞ、みたいな意欲がある。がしかし、ストライキ突入で、材木取引は上手くいかなくなる。商売で成功するか、結婚相手を見つけるかしないと帰れないと考えていて、前者は失敗したので、あとは、宮子へとしつこく結婚を迫るのだが、袖にされる。
基本的に謎のメロドラマで展開されていくが、参木と秋蘭の間で政治的な会話があったのと同様、甲谷と銭石山との間で、中国人がアジアにもたらした進歩とか、白色人種と黄色人種との戦いになるのだとか、そういう会話がなされていたりする。
また、アジア主義者の山口とアムリの間で、インドでの情勢についての会話がなされたりしている。山口とアムリはともに共産主義の伸長には警戒している様子が窺える。
それから、甲谷は物語の終盤、オルガと知り合い、ロシア革命についての話を聞き出そうとする。ただ、ロシア革命そのものの話というより、オルガの家族がいかにモスクワから逃げ出してきたのかという話になっている。極東まで辿り着いたところで、父親は死んでいて、その後、オルガは売られて、最終的に山口が買い取ったという顛末が明かされる。
甲谷も参木も、一文無しになり、食べるものもなくなって飢えに苦しむ。
甲谷は山口のところになんとか転がり込んで、上述の通り、オルガと知り合うことになる。
参木は、中国人に襲われそうになって、汚水まみれの河口に飛び込んで難を逃れ、最終的にお杉のもとに転がり込んで終わる。
参木とお杉、参木と秋蘭、参木とお柳、甲谷とお柳、甲谷とお杉、甲谷と宮子といった感じでメロドラマが展開されているわけで、正直、そのあたりはあまり面白くはなかった。
無駄に人間関係が複雑だし、参木がモテてるっぽい理由が不明だし、お柳はマジ動機が分からないし
これは、巻末の小田切による解説でも欠点として指摘されていたが、最終的に参木がお杉のもとに落ち着く展開もよく分からない。
物語としては、参木が秋蘭にふられれて終わり、でいいような気がする
(その意味で、宮子が、自分は色んな男と関係もってたいから、1人と結婚できないのって甲谷をふってしまうのは悪くなかった。バリバリのサラリーマンだぜって感じだった甲谷が情けない感じになっていくのも)
とはいえ、これまた、巻末の小田切による解説でも指摘されているところだが、各登場人物はわりとキャラがたっていて、多様なキャラが登場している点はこの作品の長所だろう。
お杉はわりと理不尽に可愛そうな目にあっている人物だが、日本にはもう帰れないし、そもそもあんまり帰る気もない感じがあって、お杉に限らないが(例えば中国人と結婚したお柳もそうだが)、生活の拠点を完全に上海に移している日本人が当時結構いたのだな、という雰囲気があった。
何よりこの作品のコアというのは、登場人物たちがおりなすメロドラマそのものよりも、メロドラマによって登場人物たちが動いていくことによって、上海が描写されていくところなのだと思う。
例えば、黄包車という人力車が頻繁にでてきて、すごく手軽な移動手段だったんだなとわかる
満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇って行った。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力たちが湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が傾いてぎしぎし動き出した。白皙明敏な中古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチにはロシヤ人の疲れた春婦たちが並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の前で、潮に逆らった舢舨の青いランプがはてしなく廻っている。
p.7
崩れかけた煉瓦の街。その狭い通りには、黒い着物を袖長に来た支那人の群れが、海底の昆布のようにぞろり満ちて淀んでいた。乞食らは小石を敷きつめた道の上に蹲っていた。彼らの頭の上の店頭には、魚の気胞や、血の滴った鯉の胴切りが下っている。そのまた横の果物屋には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、舗道の上まで溢れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剥かれた無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴を造ってうす暗く窪んでいる。そのぎっしり詰った豚の壁の奥底からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っていた。
pp.11-12
それぞれ、第1章と第2章の冒頭1段落目で、映像的に描写されている。
テーブルの上に盛り上った女の群れが、しなしな揺れる天蓋のように、彼の顔を覗き込んだ。彼は銀貨を掌の上に乗せてみた。と、女の群れが、逆さまになって、彼の掌の上へ落ち込んで来た。(...)彼は膝で女の銅を蹴りながら、宙に浮んできらきらしている沓の間から首を出した。彼がようやく起き上がると、女たちは一つの穴へ首を突っ込むように、ばたばたしながら、椅子の足をひっ搔いていた。
p.69
これは、参木が「通りすがりの、女が女に見えぬ茶館」を訪れた際の描写で、何が起きているのかわかるようなわからないような描写がなされている。
ホールの桜が最後のジャズで慄え出した。振り廻されるトロンボーンとコルネット。楽器の中のマニラ人の黒い皮膚からむき出る歯。ホールを包んだグラスの中の酒の波。盆栽の森に降る塵埃。投げられるテープの暴風を身に巻いて踊る踊り子。腰と腰とが突き衝るたびごとに、甲谷は酔いが廻って言い始めた。
「いや、これは失礼、いや、これは失礼。」
階段の暗い口から、一団のアメリカの水平が現れると、踊りながら踊りの中へ流れ込んだ。海の匂いを波立たせた踊場は、一層激しく揺れ出した。叫び出したピッコロに合わせて踏みなる足音。歓喜の歌。きりきり廻るスカートの鋭い端に斬られた疲れ腰。足と足と、肩と腰との旋律の上で、三色のスポットが明滅した。輝やく首環、仰向く唇、足の中へ辷る足。
宮子はテープの波を首と胴とで押し分けながら、ひとり部屋の隅で動かぬ参木の顔へ眼を流した。ドイツ人を抱くアメリカ人、ロシア人を抱くスペイン人、混血児を突き衝るポルトギーズ。椅子の足を蹴飛ばしているノルエー人、接吻の雨を降らして騒ぐイギリス人。シャムとフランスとイタリアとブルガリアとの酔っぱらい。そうして、ただ参木だけは、椅子の頭に肱をついたまま、このテープの網に伏せられた各国人の肉感を、蟇のように見詰めていた。
pp.113-114
ダンスホールの様子の描写だが、体言止めがリズムを生んで、活気が伝わってくる。1920年代の上海にぐっと引き込まれた。
彼は橋の上に立ち停るとぼんやり泥溝(どろどぶ)の水面を見降ろした。その下のどろどろした水面では、海から押し上げて来る緩慢な潮のために、並んだ小舟の舟端が擦れ合ってはぎしぎし鳴りつつ揺れていた。その並んだ小舟の中には、もう誰も手を付けようともしない都会の排泄物が、いっぱいに詰まりながら、星のうす青い光りの底で、波々と拡っては河と一緒に曲がっていた。参木は此処を通るたびごとに、いつものこの河下の水面に突き刺さって、泥を銜えたまま錆びついていた起重機の群れを思い浮かべた。その起重機の下では、夜になると、平和な日には劉髪の少女が茉莉の花を頭にさして、ランプのホヤを売っていた。
p.290
これはかなり終盤、空腹に襲われている参木がふらふら歩いているシーン
1920年代、起重機が並んでいるんだなあ、と
巻末に、昭和31年に書かれた小田切秀雄による解説と、おそらく改版された2008年に書かれたのではないかと思われる唐亜明による解説が掲載されている。
小田切解説によると、『上海』は発表当時反応が芳しくなかったらしい。その次の『機械』が小林秀雄に賞賛されたことで横光はその方向へ進むが、小田切は『上海』にあった可能性がそこで挫かれたとしている。
唐解説は、岸田今日子、谷川俊太郎と上海へ訪れたエピソードから始める。唐自身は北京の出身とのこと。
黄包車は、日本から導入されたらしい。
上海の歴史や、中国人視点の五・三〇事件について、上海英語のことなどが解説されている。