『ちくま日本文学012 中島敦』

何となく始まった、大正・戦前昭和文学読むシリーズ
今度は、中島敦
中島の場合、大正時代=子ども時代なので、作家として活動が始まったのは昭和に入ってから。1942(昭和17)年に33歳で病没している。
中島と言えば、教科書にも載っている「山月記」が有名であり、自分もそれくらいしかイメージがなかったが、こうやってまとめて読むと、色々やっていて面白い。
面白いというか、こういうテーマをこういう見た目(中国とかオリエントとか)で作って、この完成度で仕上げてるのがすごいな、と。
逆に言うと、ほんと若くして亡くなったのが惜しい、というのはこういうことを言うのか、とも思った。
昭和17年発表になっている作品が多いが、中島は1934年に一度『中央公論』の懸賞に作品を応募しているがその時は選外佳作で、その後も作品を書き続けているが、日の目を見るのが1942(昭和17)年で、2月に「山月記」「文字禍」が『文學界』に掲載され、ここから一気に発表の機会を得ていくのだが、同年12月に亡くなっている。


面白かったのは「悟浄出世」「悟浄歎異」「巡査の居る風景」「文字禍」「牛人」とか
あとまあなんだかんだ言って「山月記」もいい作品だなと思った

名人伝

弓矢の名人になろうとした趙の紀昌という男の話
名人になるため、目の訓練をする(2年かけて瞬きしないようにして、3年かけて虱が大きく見えるようにした)
弟子入りして奥義をえる。師匠を倒そうとする。さらにそれより上の仙人みたいな人に弟子入りする
そこから戻ってきたら、負けん気の強さが消えて無表情になり、弓も持たない。
弓も持たないし、弓について何も語らない、弓矢の名人となる。
昭和17年

弟子

孔子の弟子である子路の話
子路」という名前、言われてみれば何となく見たことがあるけれど、どんな人なのか全然知らなかったし、孔子についてもあんまり知らないので、その点で面白かった
子路が、孔子をぶちのめしてやろうと乗り込んでいったら、逆にその人間性に惚れ込んで弟子入りするところから始まり、最後、仕えていた衛の国の政変で亡くなるまでの話
もともと侠客で武勇の者であったが(というか孔子自身も実は腕に覚えがあるらしい)、のちには政治面で手腕を発揮する。
孔子に対しても疑問に思ったところはバンバン質問していくタイプ。
昭和18年(昭和17年脱稿・死後発表)

李陵

漢の武帝の時代、匈奴と戦ったが敗れ、捕虜となり、匈奴で重用されるようになった李陵の話。
司馬遷の話が時々挿入される。李陵が捕虜になった際、裏切りだと武帝が怒って、周囲の人たちもみな追従したのだけど、司馬遷だけは李陵を擁護した。その結果、司馬遷宮刑となる。司馬遷にとって相当屈辱的だったようだけど、その後、元々亡き父からの遺志で準備していたけれど、いよいよ史書の執筆に力を入れていくようになる。
なんかこのエピソードに記憶があるなと思ったのだけど、子どもの頃に読んだ、漫画中国の歴史に司馬遷の巻があった。マンガの絵の記憶も甦って、以後、司馬遷と李陵は当時のマンガの絵を思い浮かべながら読んでた。
ところで、司馬遷と李陵は、一応知り合いではあったようだが、特別親しかったというわけでもないらしく、李陵は、匈奴の地で司馬遷のことを聞くけど、むしろ自分の家族が処刑されたことへの憤りが強くて、司馬遷については何も思わなかった、と書かれてそれで終わりだし、司馬遷側も、その後、特に李陵に言及されていなくて、それぞれ別々の話として展開されている感もある。
李陵は、匈奴の捕虜にされたあと、匈奴から厚遇されるも、漢との戦いには参加しないなど漢への義理立て(?)はしているが、その後、漢で家族が処刑されると、完全に匈奴の将軍となっていく。
李陵に限らず、匈奴の捕虜になったあと、匈奴で取り立てられた漢人は結構いたっぽい。そもそも、李陵の家族が処刑された原因として、別の李将軍が匈奴に協力していて、それが誤って李陵のことだと漢に伝わったせいだったりする。
とその中で、蘇武という男は、匈奴にいっさい靡かず、バイカル湖だかのほとりで完全に一人で生活していて、李陵は匈奴への帰順を言い渡しにいくのだけど、蘇武の漢に対する一切変わらない忠義心に劣等感を抱いてしまう。
漢(というか武帝)に家族を処刑されてしまった李陵は、もう漢に忠義をたてる理由が一切ないし、匈奴で新たな家族もできてしまうのだけど、蘇武に対する複雑な感情をずっと抱き続けることになる。しかも、蘇武はその後漢に復帰する。
李陵が匈奴で最終的にどうなったのかは、歴史書に残されておらず、この物語も、李陵の後半生はよくわかっていない旨書かれて終わっている。これはまあ仕方ないこととはいえ、物語的にはややもやる。
昭和18年(死後発表)

狐憑

中島敦は中国史を題材にした作品のイメージが強いが、「狐憑」「木乃伊」「文字禍」の3作は古代オリエントあたりを舞台にした作品が続く。
狐憑」はスキュティア人はネウリ部落のシャクという男の話。
弟が戦死したことをきっかけに憑き物にあう。これだけなら、必ずしも珍しいものではなかったのだが、その後、次々と様々な動物に憑かれるようになる。
そして、シャクは、語り部・詩人のような存在になっていく。
しかし、長老たちの反感を買うようになって、最期を迎えることになる。
ホメロスよりも遙か昔に詩人が誕生していたのだけど、歴史に残らず消えていったんだよ、というオチ
(昭和17年)

木乃伊

カンビュセス麾下のパリスカスの話
エジプトを占領したカンビュセス軍の中で、パリスカスの様子がおかしい。知らないはずの埃及文字が読めるようになったりしているのである。
ある時、パリスカスは、墓の中で見つけた木乃伊が、前世の自分であることに突如として気付く。
前世の記憶が頭の中で展開されていくと、その前世の自分が木乃伊の前で、それがさらに前世の自分だということに気付かされ、前前世の記憶が……
以下、無限
(昭和17年)

文字禍

これは、『文豪ナンセンス小説選』 - logical cypher scape2でも読んだので、あらすじはそちらで。
ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字の霊について理解するきっかけが、ゲシュタルト崩壊
つまり、文字がただの線の組み合わせにしか見えなくなって、この線の組み合わせを文字たらしめているのが文字の霊なのだな、と気付く
ゲシュタルトという言葉は出てこないけど。
歴史ってのは、起きた出来事をさすのか、文字で書かれたことを指すのか、みたいな問答もやっている。
昭和17年

幸福

「幸福」「夫婦」「鷄」「マリヤン」は、パラオを舞台にした作品
「幸福」は、パラオ島の醜い身分の低い男と、長老の話
醜い男は、女がやるとされる農作業以外、全ての労役をやらされていて、長老が目の前にいると顔を地面に伏せて礼をとらないといけなくて、カヌーに乗ってるときだと、海に飛び込まないといけない。
ある時から不思議な夢を見るようになる。長老になっている夢
一方、長老は、その醜い男になっている夢を見るようになる
夢と現実が入れ替わっていく系の話
昭和17年

夫婦

浮気性かつ嫉妬深い妻をもった男の話
パラオでは、浮気・不倫の類いがあると女性同士が物理的に喧嘩して雌雄を決することになっているらしく、この妻は、腕っ節が強くて、自分の浮気は全て白にして、夫の浮気(を妻が勝手に疑った事例)は全て黒にしている。
また、パラオでは、別の集落から独身女性がやってきて男たちの世話をするという風習もあって、夫はその女性と恋仲になる。その上、この女性が妻に勝つ。
昭和17年

「幸福」「夫婦」は、パラオの伝承を書き起こした風の作品なのに対して「鷄」「マリヤン」は筆者が体験したこと風の作品
(ただし、「鷄」では2年間、南洋諸島を調査したとあるが、中島本人のパラオ滞在は1年もない)
南洋の人のことは付き合うほど分からなくなる、という話
すごくニコニコと打ち解けて話してくれた老人が、ふいに塞ぎ込んで何も反応してくれなくなることがあって、どういう理由で、どういう状態なのかさっぱり分からない、と
筆者が、昔話や伝承を聞いたり、民芸品やそれの模型などを作ってもらったりして、親しくしてもらった老人がいて、偽物を持ってきたり、手抜き品を作ったり、あるいは巧みに値上げしていったりと、なかなか食わせ物。それでも親しくしていたが、ある時、時計を盗んで姿をくらましてしまう
2年後、再び現れたが病気を患っていて、医者を変えたい(日本の病院からドイツ人の宣教師で医療もやっている人に変わりたい)から口添えしてくれ、と言われてその頼みを聞く。
その後、亡くなったことを知るのだが、その老人から雞をもらう。パラオでは雞は財産なのだが、これが、時計の罪滅ぼしなのか、病院の件のお礼なのかがさっぱり分からない。時計の罪滅ぼしだったら、そもそも時計返すだろうし、みたいな話
昭和17年

マリヤン

マリヤンとは、とあるパラオ人女性のこと(マリアのパラオ訛り)
中島はパラオで、文化人類学研究をしているH氏(土方久功)と親しくなる。
マリヤンとは、このH氏を通じて知り合う。
マリヤンは日本に留学したこともあるインテリ女性であるのだが、中島は、パラオ人であることとインテリであることとの間に生じるズレ(他の島民の家屋と同じような家に岩波文庫などが置いてあったり、洋装を着ていたり)を、マリヤンに見出して描写していく。
草稿より、別稿を収録、とのこと

盈虚

再び中国の話。「弟子」でも少し描かれていた衛の政変の話
衛から追われた太子が、ようやく王座につくも、不遇の月日の間にすっかり暗い情念にとりつかれていて、王位につくや、復讐しまくり
そんな父親を見て育った息子もアレで
「弟子」では、性格面に踏み込んで描かれていなかったので、こんな奴のために子路は死ぬ羽目になったのかー、となる。
最期、自身も復讐されて死ぬ
殺される直前、これをやるから許してくれと命乞いしたところ返ってきたセリフ「お前を殺せば、璧(たま)がどこかへ消えるというのかね」がなかなかかっこいいなと思った。
昭和17年

牛人

これも中国の話
一時、国を逐われていた魯の淑孫豹は、その際、行きずりの関係をもって、一人の息子ができる。
その後、国に戻ってから、その子は、よき部下・執事となって、淑孫豹から信頼を得ていく
のだが、死の間際に恐ろしい裏切りを果たすのだった。
何となく途中からオチは見えてくるのだが、しかし動機は必ずしも判然としないし、不気味な雰囲気が強くて、しかしそれがよさになっている。
昭和17年

巡査の居る風景

朝鮮を舞台にした作品。
これは、1929(昭和4)年、20歳の時の作品で、「校友会雑誌」に発表している。ここまでにあった中国もの、オリエントもの、南洋ものとは雰囲気が異なる。
朝鮮人の巡査が主人公だが、日本の植民地である朝鮮における民族意識が描かれている。
とはいえ、かなり複雑な心情が描かれている。
主人公は朝鮮人だが、もちろん日本の警察として働いていて、上司は日本人である。
日本人女性から無自覚の差別をうけ憤るも、差別的な語を使っていることに当の女性がく気付いていないことが分かり、諦める朝鮮人青年を見たり、逆に自分たちは日本人であること光栄に思うと演説する朝鮮人議員候補を見たり、そしてまた、日本人の紳士に丁寧に扱われたことを喜んでいる自分に気付かされたり……。
こういう作品を、20歳の日本人が1929年に書いていたことに驚いた。

かめれおん日記

主人公は、女学校の博物の教師(中島は横浜高等女学校の国語教師だった)
生徒からかめれおんを譲り受ける。学校で飼育する話になったが、結局、主人公が自分の家で育てる。しかし、飼育環境を整えるのが難しく、結局、動物園へと譲ることになる。
という話だが、それと並行して、主人公の自意識をめぐる思索、実際家たる同僚の様子、風景描写などが書かれる。
他の作品と比べると、私小説っぽい感じがする
昭和17年(昭和11年脱稿)

悟浄出世

西遊記沙悟浄が、まだ三蔵法師に出会う前の話。
自我についてや世界が存在する意味といった哲学的問題にとらわれる沙悟浄
色々な妖怪やら仙人やらのもとに訪れて、話を聞いたり修行してみたりする。
ここに出てくる諸妖怪は、諸子百家とかソフィストとかそういうイメージなのかもしれない。様々な姿形で様々な思想の者たちが次々出てくるのは、それはそれで面白い。
(幻術の大家である魚人、隠遁者のへびの精、50日に一度しか目覚めない先生、神との合一を説く若者、隣人愛を説きつつ我が子をむしゃむしゃ食べる蟹、自然の美を追求し陶酔する師弟、性の快楽に耽る女妖怪など)
が、この沙悟浄の悩み、死への不安を含めた自我とは何かという哲学的な悩みで、若きインテリ青年の苦悩という感じで、個人的に刺さるところもある(「山月記」が色々な人に刺さるように、この悟浄の話も刺さるような気がする。全体として未完なのがあれだが)
最終的に、不確定性を恐れて何もしないでずるずると事態を悪くするのではなく、何はともあれ行動を起こしてしまわなければいけないのではないか、というところに達してきて、そこでいよいよ三蔵一行に出会うことになる、ところで終わる
昭和17年

悟浄歎異

これについては伊坂幸太郎編『小説の惑星 オーシャンラズベリー篇』 - logical cypher scape2で読んだ。あらすじなどはそちらに詳しいので、ここでは省略。
『小説の惑星』では、「悟浄歎異」のみ収録で「悟浄出世」は収録されていなかった。実際、「悟浄歎異」のみで成り立つし、短編小説としては「悟浄歎異」の方が面白いかとは思うが、「悟浄出世」を踏まえて読むと、インテリ青年沙悟浄が、何故これだけ行動者悟空に惹かれているのかが、より分かる。
また、沙悟浄が、文字の世界しか知らない俺よりも悟空の方がよっぽどものを知っているということを思うあたり、「文字禍」と響き合うところがあるなあ、と思う。
昭和17年(昭和14年脱稿)

和歌でない歌

こ、これは……
「ある時はヘーゲルが如万有をわが体系に統べんともせし」から始まり、ラムボーとかノヴァーリスとか李白とか老子とかゴーガンとかパウロとかモツァルトとか延々と続いていくのだが、一番最後に、「遍歴りていづくにか行くわが魂ぞはやも三十に近しといふを」と締められる。

河馬

河馬、というタイトルだが、河馬に限らず様々な動物についての短歌が連ねられていく。
山椒魚山椒魚らしき顔をして水につかりゐるただ何となく」
穴熊の鼻の黒きに中学の文法の師を思ひいでつも」
穴熊の鼻の黒きが気になりぬ家に帰りて未だ忘れず」
などなどなど
河馬、狸、黒豹、マント狒、白熊、獅子、子獅子、駱駝、孔雀、縞馬、ペリカン、禿鷲、山椒魚、鶴、火喰鳥、ホロホロ鳥、駝鳥、大蛇、大青蜥蜴、麒麟、ハイエナ、カンガルー、熊、象、鰐、蝙蝠、穴熊、雉、梟、猪、カメレオン、鵜、鸚鵡、小エビ、黒鯛、子山羊

解説・池澤夏樹

知識人として作家になろうとした人物として、中島敦のことを絶賛している。
「巡査のいる風景」や「マリヤン」に見られる植民地への視線
主人公として設定されている人物のほとんどが日本人以外で、普遍性を目指している等
また、例えば「文字禍」は、著者名を伏せてボルヘスの短編集に入れたとしても分からないのではないか、知識人として作家になる、とはそういうことだ、と。
知識人として作家になることは難しく、日本ではある時期以降、作家は知識人ではなくなってしまった、とも(白樺派新感覚派をdisってる)
吉田健一中島敦論の中で、本を読みすぎると基準になるべきものが多すぎて大変というようなことを述べている、という。それを受けて池澤は、「かめれおん日記」や悟浄の作品で、そうした悩みがうまく書かれていると述べている。

他に、人格面も賞賛していて、作家って大抵お近づきになりたくないけれど、中島と一緒に南の島々を回りたい旨も述べている。