時間と無時間

仮想化しきれない残余』、「小説の環境」(ファウスト vol.6 SIDE―B (講談社 Mook))『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』『大学受験のための小説講義 (ちくま新書)』を読んでいて、最近考え始めたキーワード(各著作に関してはまた別に感想を書くつもりです)が「時間」と「無時間」
自分の思想・思考の中で大きなフレームとして存在しているのが「飛躍」
では、何から何へと「飛躍」するのかといえば、それの一つが「無時間」から「時間」へ
『仮想化しきれない残余』はまさにそういう話で、このタイトルともなっている「残余」というのは、その「飛躍」の痕跡のことをさしている。
誰の言葉だったのか忘れたが、「全ての芸術は音楽に憧れる」というのがあるが、ここで音楽とは「無時間」であることをさす。
「無時間」であるとはどういうことかといえば、それは「永遠」ということであり、「物語」をもたないということである。
『大学受験のための小説講義』で「物語」は時間軸に沿って進行するものであり、「小説」はむしろ時間を止めるものである、と「物語」と「小説」の違いが説明される。「小説」が「物語」から離れて芸術とみなされるのは、おそらくそのためだろう(蛇足だが映画もまたそういうジャンルだろう)。
しかし、『偶然性・アイロニー・連帯』において、少なくとも理論的な作業の上では、「無時間」への憧れは形而上学として批判される。また、「無時間」と「時間」をつなげようとする考え方もここでは形而上学として批判されている。あらゆる物の考え方は、「時間」の影響を受けており「無時間」的なありかたではいられない。
ある考え方が「時間」の影響を受けるとは、その考え方が偶然的ということであり、そのことを自覚することをアイロニーと呼ぶ。
あるいは「小説の環境」では、佐藤友哉の『水没ピアノ』を「無時間」から「時間」への運動として論じる。永遠の世界ではなく、有限な世界に生きること。そこで「時間」がもたらすものは「空虚さ」である。いかにその「空虚さ」の中で生き抜くのか。
「時間」は、人間と世界に容赦なく、残酷に、「偶然性」と「空虚さ」を刻み付けていく。それを如何に引き受けていくのか。
ところで、今まで自分の思想・思考のフレームの中では、「無時間」が偶然を「時間」が必然を引き受けていた(それは『仮想化しきれない残余』で使われていたフレームでもあるはずだし、「物語」と「小説」の違いも同様だろう)。
しかし、『偶然性・アイロニー・連帯』や「小説の環境」ではむしろ、「時間」が偶然を担っているようだ。少なくとも前者では、無時間=永遠への憧れは普遍性への憧れと同一で、普遍と偶然が対にされているのだと思う。そしてだからこそ、普遍を呼び起こそうとする「無時間」が形而上学として批判される。
自分の中ではむしろ、「時間」は因果なので偶然と対となると考えている(た)。
どちらにしろ自分は、「偶然性」や「空虚さ」を如何に引き受けていくか、という側に立ちたい。