ソール・クリプキ『名指しと必然性』

名前の「指示」と同一性について、クリプキの講義を書籍化したもの。
もとが講義であるために、厳密な論証が続くというわけではなく、口語体での説明が書かれている。それ故の読みやすさと読みにくさがある。


フレーゲラッセルから続く「記述説」に対する反論がなされていくわけだが、それに先だって、まず「アプリオリ」「アポステリオリ」と「必然的」「偶然的」といった概念の整理がなされる。
クリプキは、ともすると同義語と使われがちな「アプリオリ」と「必然的」という言葉は区別されなければならないという。「アプリオリ」とは認識に関わり、「必然的」とは一種の形而上学に関わる語である。アプリオリに知られる偶然的な知識もあれば、アポステリオリに知られる必然的な知識もある。後者の代表的なものは数学についての知識である。数学の定理の証明などは、アプリオリに知られることはない。計算などを通じて、アポステリオリに知られる。例えば、未だ肯定も否定もされていないような証明は、どちらにもなりうる可能性を持つ。だからといって、その証明が成されたときに、その結果が偶然的な知識であるということはないだろう。
このことは、後に同一性について論じるときに重要となる。


クリプキの主張することは、「名前」とは「記述の束」と同義ではないということである(「個体」もまた「性質の束」ではない)。「名前」は「固定指示子」なのである。ここでいう「名前」は、基本的には「固有名」のことを指すが、クリプキは第三講義において「一般名」にまで広げて展開している。
「固定指示子」とは、あらゆる可能世界において同一のものを指示するもののことである。
最初の「指示」は、確かに「記述」によって行われるかもしれないが、「名前」が固定指示子である限り、それは記述と同義ではないのである。例えば「1メートル」は、「1メートル原器の長さ」という記述によって指示されるだろうが、その後もし何らかのアクシデントによって1メートル原器が短くなったとしてしまっても、1メートルは変わらずに1メートルを意味するだろうし、短くなってしまった1メートル原器の長さは、「1メートルより短い」と言われることになるだろう。
では、何故「名前」は意味あるものとして成立しつづけるのだろうか。それは、共同体内部における名前の受け渡しによるのである*1


続いて同一性の話へと移る。
ここで先に導入された、アプリオリと必然性の区別、すなわち認識論と形而上学の区別が重要となる。クリプキの論じる同一性は形而上学の領域にある。だから、認識的状況においては同一であっても、それは同一ではない、ということになる。
ここで固定指示子が、あらゆる可能世界において同一のものを指示する、ということが重要となるだろう。固定指示子は、形而上学的に同一なものを指示するのである。
形而上学的な同一性を支えているものは、そのものの必然的な*2性質である。あるものにとって、何が必然的な性質であるかはアプリオリには分からない。それは経験的な探求の対象である。しかし、それは必然的なのである。
例えば、虎にとって動物であることは必然的な性質であるように思われる。もし、ここに見た目も振る舞いも全く本物の虎と見分けがつかないが、実際には動物ではなく機械の虎がいたとしよう。しかしこれは、虎ではなく虎まがいなのである。この機械の虎のことを、固定指示子「虎」で指示することはできない。虎が動物であるか否かは、アポステリオリに判明することであるが、虎が動物であることは必然的である、とクリプキは主張するのだ。


この講義では、最後に心脳問題にも触れられているのだが、クリプキなりの心脳問題に対する解決策というよりは、心脳問題に関して同一説を主張する人たちの使うアナロジーの不備を指摘したといった感じで、いまいちピンと来なかったので内容については割愛する。


読んでいるさいちゅうは、とにかく頭がこんがらがってしょうがないのだが、ある時ふっと分かる瞬間があって、それ以降は全てが腑に落ちる、納得できる。講義で説明していることを文章に直しているので、その点で分かりにくさがあるのだと思う。言っていることは、実際にはそれほど難しくないように思う。
とはいえ、議論の明晰性や考察の深さは、さすが天才というか、全くその通りだと思わせる。つまり、実態というのを実にうまく説明できていると思うし、またこのように見事に説明することができるということがすごい。
アプリオリと必然的の区別にしろ*3、固定指示子にしろ、同一性にしろ、全くその通りだなあと思う。
思うのだけれど、クリプキの必然的性質を伴う形而上学実在論)にコミットメントすることに躊躇いがないわけではない。
クリプキは、個体は性質の束ではない、と主張する。多分、「このもの性(haecceity)」の話だと思うのだけれど、この点について自分は未だにどっちつかず、というか、よく分からないでいる。ラッセルについて読むと、「いやいや、性質の束には還元できない「このもの性」があるんだよ」と思うし、クリプキみたいなのを読むと、「でも案外、性質に還元できちゃったりしないか」とも思う。
これは、訳者解説の中で、固有名が「事実上(de fact)固定的」か「権利上(de jure)固定的」か*4といっている問題だと思う。クリプキは、固有名とは権利上固定的であるという。権利上固定的とは、「質的性質による同定の媒介を必要としない」ものだ。記述は、事実上固定的である
個体の同定というのは、質的性質による媒介を必要とするのかしないのか。
あれ、そうすると、クリプキのいうところの、必然的性質っていうのは結局何なんだろうなー?


関係ないけど、この本は大学の図書館で借りたのだが、よくある話で線とかが引かれていた。
大抵の場合、こういう書き込みをする人は途中で飽きていて、最後まで続かないし、「お前、何でそこに線引くんだよ」と言いたくなるような変な場所に書き込みがあったりするのだが、今回の書き込みは、むしろ分かりやすい書き込みで、場合によって読むのを助けてくれるくらいのものであった。
とはいえ、いずれ返さなければならない、手元に残らない本に何で書き込みをするんだろうか。モラル云々の前にそれが不思議。


名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

*1:この受け渡しに関する説明を、クリプキは「理論」ではなく「見取り図」と呼んでいる。つまり、この説明で「名前」について完全に解き明かされたとはいえないということだろうが、一方で記述説が提示する見取り図よりは事態をうまく説明できている、としている

*2:本質的な?

*3:そんなこと思ってもみなかったので、最初何の話されているのかよく分からなかったが、認識論と形而上学の区別と言われて腑に落ちた

*4:おそらく、de reとde dictに対応していると思われる