デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦・訳)

地上でただ1人の人間となってしまった主人公が、狂気すれすれの中でタイプした手記
今、狂気すれすれ、と書いたがそれはあまり適切な言い方ではないかもしれない。
その筆致自体は軽妙で、狂人のようでは全くない。
誰もいなくなった世界を孤独にさまよいながら、そこで見聞きしたもの、感じたことと、主人公がこれまで読んできたこと(古代ギリシアから現代までの欧米の絵画、演劇、音楽にまつわることが多い)とが入り交じりながら書かれている。
設定的には、ポスト・アポカリプスSFっぽいがSFではない。版元のページでは「アメリカ実験小説の最高到達点」と紹介されている。実験小説とは何かというと難しいけれど、実験小説と聞いて身構えるような読みにくさは、あまりないかもしれない(いやしかし、かといって読みやすいわけではないが)。


本書は、原著が1988年で、日本語訳が2020年に刊行された。
日本語訳出版時に、版元の宣伝や書評などをネットで見かけて、その時から気になっていた。
海外文学読むぞ期間としてこの前、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2を読んだので、木原善彦つながりで読むことにした。
日本語訳出版時は、新刊の翻訳かと勘違いしていたのだが、上述の通り、原著は1988年に刊行された本で、著者のマークソンが注目を浴びるきっかけとなった作品らしい。
マークソンは、1927年生まれで2010年に亡くなっている。『読者のスランプ』(1996)、『これは小説ではない』(2001)、『消失点』(2004)、『最後の小説』(2007)という「作者四部作」が有名らしく、この中で『これは小説ではない』は日本語訳があり、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2でも紹介されている。
実をいうと『実験する小説たち』を読んでも、『これは小説ではない』はそこまで曳かれるものはなかったのだが、こちらの方は気になっていたので、読んでみることにした。

どんな本か

世界に1人の人間になっていまった主人公が日々タイプした手記、という体裁の作品
まず、その特徴として、単行本にして300ページほどあるが、区切りが一切ないという点がある。章や節による区切りもないし、一行空きによる区切りもない。
どうも、1日に少しずつタイプしていっているらしく、時々、日が改まったのは分かる(○行前は昨日書いていたのだが、とか、この行とこの行の間に寝ていたのだが、とか、実は昨日は何も書いていなかった、とか、ここから明日になったとか書かれている)のだが、その際も、一行空きをしたりすることはないので、文章としてはずっと一続きになっている。
ただ、1段落あたり1文か2文のことが多いので、ページに文がぎっちり詰まっているということはないので、その点では、わりとすいすい読めるような気はする。
内容的には、彼女が思いついたままに書いているという体裁なので、書かれる出来事は全く時系列順にはなっておらず、彼女の記憶と認識によってのみ書かれているので、「今書いたことは間違いだった」とか「今~と書いたが、実は~だ」とかそういった文がしょっちゅう出てくる。
しかし、そのこと自体が文章にある種のリズムを生んでいて、どこか軽妙な文章になっている。
今彼女と書いたが、主人公は、40代後半から50歳ほど*1の女性で画家。
先ほども書いたとおり、書かれている内容が時系列にそっていないのだが、それだけでなく色々と繰り返しもある。
例えば、ある話題自体の繰り返し。ブラームスの伝記を自分は何で読んだのか、みたいなことを、度々繰り返している。そして、その時々で書いていることが少しずつ異なる。本人が自覚して訂正していることもあれば、気付かずに矛盾したことを書いていることもある。
また、そもそも同じ文自体が再度出てくる箇所も何カ所もあった。
他に、フレーズや単語単位で、彼女が気に入っていると思われるものは繰り返し使われる傾向にある。例えば、彼女は、オーディオの説明書の中で見かけた「スピーカを互いに等距離におく」というのが気に入っており、その後「互いに等距離」「等距離」というフレーズを頻繁に使うようになる。
一方、話題が非常に頻繁にあちこちに飛ぶ、というのも特徴である。
今これこれについて書いていたら、突然どれそれについて思い出した、みたいな形で、全然関係しないだろうことを書き出したりする。全然違うことだというのは本人も意識しており、何故これを突然思い出したのかは分からないが、と言って、そこで終わってしまう話題も多い。
逆に、あの時、そのことについて思い出していたのだが、あの時は書かなかった、みたいな感じで突然不意に出てくる話題もあったりする。
そのあたりはすごく、人間の意識の流れをそのまま切り取っているように感じる。
そして何より特徴的なのは、歴史上の人物や有名人への言及が多いということだろう。また、記憶に基づく引用もしばしばある。
主人公が20世紀アメリカの画家ということもあり、ロバート・ラウシェンバーグを始めとする同時代の画家などは直接の知己であったということで言及されている。
が、それ以上に歴史上の人物への言及が多い。
なお、時々、人名をひたすら羅列することがあって、「私は今知識をひけらかした」とコメントがついていたりする。
また、この小説自体が、主人公がトロイア遺跡を「探索」の途中で見に行ったことを思い出しているところから始まっていて、『イリアス』『オデュッセイア』への言及も多い。
そして彼らの日常生活に関わるようなことを考えている。
同じ町で知り合いだったはずで、こんな会話をしたはずだ、とか、猫を飼っていたんだ、とか。
彼女がどこかで読んだのであろう内容もあれば、単に彼女の想像に過ぎない話もある。そうした想像を次々と展開していって、こうだったに違いないと断言しているところもある(そういう時は「誓って言うが」というフレーズが頻発する)。が、明らかに間違っているところもいくつかある。
そんなわけで、主人公の広い教養と記憶力に読んでいて最初は感嘆する。画家であるために美術関連の話題は多いが、文学、哲学、音楽、映画などジャンルは多岐にわたる。しかし、上述のように、記憶がいい加減になっているところも見受けられるし、読んでいるうちに、広いとはいえ、出てくるのが欧米圏に限定されていることにも気付いてくる。

あらすじ(?)

どうして世界で1人の人間になってしまったのかという経緯は謎
世界がまだ普通だった頃は上述の通り画家をやっていて、夫と子どもがいたが、世界がこうなる前に、子どもは亡くなり、離婚したようである。このあたりの経緯は、終盤で語られるものの事情ははっきりしない。メキシコに子どもの墓があるらしい。
世界で1人になってしまってから、世界中を「探索」してまわったようで、その頃のことが断片的に書かれている。捨ててある自動車を乗り換え乗り換えしながら、アメリカ→ベーリング海峡経由でロシア→ヨーロッパを回ったようだが、正確な順番は不明。
その間、美術館を回っていたようで、ニューヨークのメトロポリタン、ロンドンのテートギャラリーやナショナル・ギャラリー、パリのルーヴル、マドリードのプラドなどに泊まっていたらしい(絵の額縁を燃やしたりしていた)。ロシアでは、ロシア語の標識が読めなかったためにサンクトペテルブルクを気付かず通過してしまい、エルミタージュに行くことができなかったのを後悔している記述がある(が、かなり後になってエルミタージュでのエピソードが出てくるが、そのエピソードは以前にルーブルでの出来事として記述されていたはず)。
最終的にアメリカに戻ってきて、東海岸の浜辺の家で暮らしながら、タイプライターを打っている状況のようである。
探索期のどこかで「アウト・オブ・マインド」になっていた時期がある(狂っていたとも、そのときの記憶がなかったとも、書かれている)。今はそうではない、と。
探索をしていた時期には、発電機をはじめとして「荷物」を持っていたが、今はほとんどの「荷物」を捨ててしまったらしい。衣服もほぼ身につけていない。
美術館では額縁を外して燃やしている(絵は戻している)が、浜辺の家に戻ってきてからは、本を読みながらページを1枚1枚燃やしたりしている。
さらに家を二度燃やしている。1度目は失火だが、2度目は家を解体して薪にしたらしい。解体された家の2階部分のトイレだけが残っており、2階がなくなったあとの2階のトイレはいまでも2階だろうか、みたいなことを度々書いている。

ウィトゲンシュタイン

タイトルが「ウィトゲンシュタインの愛人」とあるが、主人公は別にウィトゲンシュタインの愛人だったとかそういうわけではない
しかし、作中で全くウィトゲンシュタインが出てこないかといえばそういうわけでもない。
本作は画家や音楽家への言及が多いが、哲学者への言及も多く、また哲学書からの引用もいくつかある。例えば、パスカル『パンセ』やハイデガーだが、ラッセル、ホワイトヘッドウィトゲンシュタインも何度か名前が出てくる。
ただ、それだけなら「パスカルの愛人」でもよかった(?)わけだが、何故ウィトゲンシュタインか。
まず、主人公がウィトゲンシュタインには好意を持っているようだというのがある。
また、本作を「アメリカ実験小説の最高到達点」と評したデイヴィッド・フォスター・ウォレスという作家が、本作を「『論考』のパロディー」と論じているらしい(なお、ウォレスには『ウィトゲンシュタインの箒』という作品がある)。実際、作中には『論考』からの引用もある。
ただ、個人的にはこの主人公が行っている思索は、どことなく『哲学探究』風なところがあるように思った。
1人であるがゆえに、どこか脱臼した言語ゲームをしているようなところがある。
まるきり同じというわけではないが、私的言語や私的感覚に近い話をしているなと思しき箇所もある。
例えば、彼女はイヤーワーム的に音楽が頭の中で聞こえていることがあるのだが、それを文字通り、誰それが歌う○○を聞いた、と書くことがある。しかし、それは実際に文字通り聞いているわけではない。また、例によって、何を聞いていたか間違えた、という記述が出てきたりするわけだが、これの確認しようのなさは、どことなく私的感覚の話を思い起こさせるからだ(最もウィトゲンシュタインの議論と完全に同じというわけではない)。
なお、ウィトゲンシュタインの哲学そのものの話は作中には出てこない。
ラッセルが、ホワイトヘッドがボート競技をするところをウィトゲンシュタインに見せた話とか
ウィトゲンシュタインが、鳥が好きで、カモメだったかを飼っていた話とか
例によって言及されているのはほとんどそういう話である。
ウィトゲンシュタイン的かどうかはともかく、言葉の使い方の適切性への気の使い方が面白いところがある。今言ったのは、ほんとはこういった方が適切だったとか、現在形と過去形の使い分けとか、複数の意味にとれてしまう文を書くと「またやってしまった」と言って即座に注釈してくるのとか面白い。

結末

終盤になって、「私」は、世界で1人になってしまった女性を主人公に小説を書くことにしたということが書かれ始める。
ここまで「私」がやったこととして記述されてきたことが、「彼女」は小説のなかでこういうことをするのだ、と記述しなおされる。
メタフィクショナルな展開なのだが、個人的にはこの部分にあまり、メタフィクションさを
感じなかった。
あるレビューだと、ここの「私」はマークソンで、男性作家が女性を主人公にした小説を書いていたと明かされるオチなのだ、的な解釈がされていて、まあそれはそうなのだが、
しかし、相変わらず、行空きなどの区切りを示すマーカーはなくて、また、文章的にも「私」の人格が変わったようなところは感じられない。
自伝的小説を書くことにしたと述べており、「彼女」=「私」というのがすんなり納得できる。
なので、あまりマークソン本人が出てきた感は、個人的には感じなかった。

よく出てきた人名・作品名

何度も出てきた人名や作品名を列挙してみる
ただし、全てを網羅してるわけではない。また、1,2度しか出てない名前も拾っていない。
下では、苗字だけの表記にしているのがほとんどだが、実際には、初出はほぼ確実にフルネーム。それ以降も、語り手の好みによって、フルネームだったり、ファーストネームだったりで書かれていることもある

美術

ゴッホはフルネーム、ファン・ゴッホ表記のほか、フィンセント表記でも出てきた

ラウシェンバーグとデ・クーニングは主人公の直接の知り合い

レンブラントは色々と出てくるが、例えば主人公が飼ってた猫の名前が朽葉(ラセット)で、そこからラセット色といえばレンブラントだ、とか
レンブラントの弟子が床に金貨の絵描いていて、レンブラントが騙されていた話とか
犬につける名前を猫の名前にしてた話もレンブラントだった気がするけど、どうだったか。

デルフトで、スピノザやレーウェンフックとこんなすれ違いをしていたはずだとか、そんな話

音楽

ブラームスは、非常に多く出てきた印象がある。
ブラームスのエピソード(ジャンヌ・アヴリルという踊り子との関係とか)がたびたび出てくるのだが、それを果たしてどこで読んだのかということを主人公は非常に気にしていて、それが子ども向けの本だったのか、ちゃんとした伝記だったのか、レコードのジャケットに書いてあったことなのか、とか
今、自分が住んでいる海辺の家に置いておる本を、読んで燃やしたり、あるいは別の部屋にしまい込んでみないようにしていたりするのだけど、そこにあったブラームスの伝記で読んだのだろうか、とか
それから、頭の中でブラームスの『アルト・ラプソディ』がキャスリーン・フェリアの歌で聞こえてくるというのだが、それが途中で『四つの厳粛な歌』だったかもしれないとなり、シュトラウス『四つの最後の歌』だったかもしれない、となっていく。
頭の中で曲が流れるというのは、ある程度多くの人が実際に経験することだと思うし、さらにそれが何の曲か分からなくなるという経験もあると思うが、この主人公の場合、最終的にそれを確かめる術が存在しないので、自分でこうだ、というしかない。
というあたりに、ちょっと私的感覚の議論に似たものを感じる。
ブラームスのエピソードとしては、子どもにキャンディをあげるのが好きというのもあって、キャンディをあげていた子どもはウィトゲンシュタインに違いない、というくだりもある。

文学

トロイア戦争の話は、しょっちゅう出てくる。

ギャディスも主人公は直接会ったことがある

エッフェル塔を見たくなくてエッフェル塔の下で食事をとっていたエピソードがたびたび出てくる

作品名としても人物名としてもたびたび出てくる。

哲学

『パンセ』からの引用など

海辺の家の地下に、本がたくさんはいった箱がいくつかあって、ドイツ語の本が詰められているのだが、そのいくつかがハイデッガーの本だったらしい。「存在(ダーザイン)」だけ読めた、みたいなことが書かれている。
それから、主人公はハイデッガーに手紙を送って返事が返ってきたというエピソードがある。
まだ、世界が普通だったころ、猫に名前をつけていなくて、知人たちが色々アイデアを出していた時に、著名人に名前を付けてもらうのはどうかという案が出て、ハイデッガーだけでなく、エリザベス女王とかとにかく色々な人たちに手紙を送り付けた、という迷惑千万なエピソードがあるのだが、その中で、ハイデッガーだけが返信をくれたという話
なお、それがレンブラントか誰かの猫の名前。

*1:年齢についての記述も時によって異なる