『思想2023年1月号(ウィトゲンシュタイン――『哲学探究』への道)』

ウィトゲンシュタインについて、全然読んでいるわけではないけれど、雑誌で特集とかあるとつい気になって手にとってしまう。 
鬼界訳『哲学探究』は、半分くらいまで読んだところで止まっている……(この『思想』を読みながら、少しだけ『探求』も読み進めたが)。
自分にとっては、ウィトゲンシュタインよりも、ウィトゲンシュタインを通して鬼界先生の授業を思い出したりするのが面白いかもしれない。ウィトゲンシュタイン自体も面白くはあるけれど。

【小特集】ウィトゲンシュタイン──『哲学探究』への道
思想の言葉  野矢茂樹
〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一
表出と疑問  飯田 隆
形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏
ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫
進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一
意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一
哲学探究』研究解題  谷田雄毅
日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅


思想対象としての20世紀中国──『世紀の誕生 ― 中国革命と政治の論理』序論(下) 汪 暉/丸川哲史

思想の言葉  野矢茂樹

『論考』は、「操作と基底」という一点から読めた
『探求』は、鬼界訳の「いわば頭を水面に上げておくことが難しいのだ」という一節から読めた、と感じたという話

〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一

山田の司会で、それぞれウィトゲンシュタインとの出会いから始まっての座談会。
鬼界と古田は、初めて読んだときから面白かったと答え、野矢は最初はあまりピンと来てなかったような感じ。
草稿を全て読んでいきウィトゲンシュタインの人生とも照らし合わせながら読んでいく手法の鬼界と、あくまでも最終版のテクストから読み解けるものを読んでいく手法の野矢とで、解釈が分かれているという印象。
例えば独我論について、「私」の問題は『探求』にはそこまで強くでてないのではないかという野矢と、そうではないのではないのかという鬼界
あるいは、「語りえないもの」としての倫理についてとか。『探求』では、より徹底して、語らないことを実践しているのだという鬼界と、そうではないのではないかという野矢
『論考』は『探求』の中にどのくらい残っているのかということについて、鬼界は、哲学をよくしようという意志が残っていると答えている。
あと、最後は比喩の話をしたりしている。
それから、哲学の方法論というか文章の書き方として、ウィトゲンシュタインのスタイルと分析哲学のスタイルとの違いについてとか

表出と疑問  飯田 隆

表出文の意味論と、疑問文の意味論についてのスケッチ

形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏

『論考』に出てくる「使用」について

ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫

哲学探究』解釈の話としては、鬼界彰夫『『哲学探究』とはいかなる書物か――理想と哲学』 - logical cypher scape2のダイジェストだけど、そこにどうやって至ったのかという話がなされていて興味深い。
元々『哲学探究』と出会ったのは、大学院生時代の読書会の時。しかし、その時は、この本は体系的に読むことはできないのではないかという衝撃を受けて、決して研究対象にはせず趣味で読むにとどめよう、と思ったらしい。
アメリカ留学時代に、カーツによる解釈に触れ、体系的な解釈が可能かもしれないと思うようになり、筑波大学就職以後、演習授業で読むようになった、と。
また、奥雅博研究室に、『確実性について』の手稿コピーがあることを知ったことも契機だったようだ。
『確実性について』を読む中で、「スレッド-シークエンス法」を編み出す
講談社の上田哲之氏からの依頼で、2003年に『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を出版した後、2009年にやはり上田氏から『哲学探究』の翻訳依頼を受けた、とのこと。
『探求』を訳すにあたって、いくつか解決すべき謎があったということで、テクスト内の解釈の話と、ウィトゲンシュタイン自身の生との関係の話とを挙げている。
最後に、キルケゴールからの影響が謎として残ったが、鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』によって説けた、という話で締めくくられている

進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一

後期ウィトゲンシュタインの言語観が、ダーウィニズムっぽいという話。
繰り返し注意されているが、ウィトゲンシュタインダーウィンから直接影響を受けたという話では全くない。
結果として、後期ウィトゲンシュタインの言語観とダーウィン的な生物観が似ているのではないか。というか、後期ウィトゲンシュタインの言語観を、ダーウィニズムと比較すると理解しやすいのではないか、ということ。
つまり、言語(生物種)には、本質というものはなくて進化していくものなのだ、という考えである点で似ていると考えてみると、後期ウィトゲンシュタインが理解しやすくなるのではないかという話として読んだ。。

意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一

哲学探究』第一部と第二部の違い
一次的意味と二次的意味
一次的意味は、その言葉の普通の意味で、二次的意味は、一次的意味を踏まえた上で特定の文脈の中での意味
第一部では、「意味」や「理解」の一次的意味を扱っていて、第二部では、「意味」や「理解」の二次的意味を扱っているのではないか
「意味」の一次的意味は、例えば入れ替えが可能かどうかで判断できる。
「私は四月にはもう学校にいません」と「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は入れ替えても、同じ文であるという一次的意味で「理解」することができる。
しかし、「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は、宮沢賢治の詩の中で出てくる一文で、これを「私は四月にはもう学校にいません」に入れ替えることはできない。これは二次的な意味での「理解」での入れ替え不可能性。
文字の見た目とか音の響きとかリズムとかが大事になる
一次的意味があってこそだが、二次的意味もまた人間の生にとって必要なものではないか、と

哲学探究』研究解題  谷田雄毅

中期から後期への変遷は「計算的な見方から人類学的な見方へ」「文法から使用へ」と要約される
この変遷は、経済学者スラッファから「この身振りの文法は何か」と問われたことがきっかけとされる
ところで、後期のメルクマールとして、ことばをチェスの駒と比較することをやめ、音楽や絵画と比較するようになったところにあると注釈されていた。音楽で喩えるのは、上述の山田論文の中でも出てきていた
使用をみろ、というのは、言葉の使われ方のルールを見ろ、ということだけではなく、その言語ゲームがどのように生活の中に埋め込まれているかというポイントを見ろ、ということでもある。
「生活形式」というのは、それが一体どういうものかを巡って色々解釈されてきたが、その内実にはあまり重点はなくて、言語ゲームのポイントを前景化させるための方法論的な概念であるとのこと
ウィトゲンシュタインは、われわれの実践と酷似しているのにどこか「関節が外れてしまっている」実践を創り出す天才である。」この、関節のはまっているゲームと関節の外れているゲームとの断絶を位置づけるために便宜的につけられたラベルが「生活形式」
アスペクト論について
バズは、既存のアスペクト論解釈を(a)アスペクトとは概念のことである(b)すべての知覚はアスペクト知覚である」(c)「あらゆる知覚は概念化されている」という3つのテーゼのいずれにコミットしているかで分類しつつ、ウィトゲンシュタイン自身はこのどれにもコミットしていないと見ている。
ウィトゲンシュタインは、画像が複数のアスペクトを持つように、ことばも複数の使い方をもつと論じていた
谷田は、ことばが複数の言語ゲームで使用されるところに、ことばの「魂」や「表情」のようなものがでてくると論じる。

日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅

まず、日本のウィトゲンシュタイン研究者を3つの世代にわける
第一世代(1920~40年代前半生まれ):大森、黒田、黒崎、藤本、奥ら
第二世代(1940年代後半~1950年代前半生まれ):飯田、野家、永井、鬼界、野矢ら
第三世代(1970年代以降生まれ):荒畑、山田、古田ら
そのうえで、特に第二・第三世代を中心に、翻訳、概説書、『論考』研究、『探求』研究を整理している
『論考』研究について
吉田寛による解釈の分類
決然たる読みとの距離での位置づけ
従来の標準的解釈とも決然たる読み解釈とも異なる大谷弘
『探求』研究について
クリプキの強い影響を受けた世代として「第二世代」を捉える
(ところで、冒頭の討議で野矢自身、クリプキ論文をリアルタイムで読んだという話をしているが、一方の鬼界はクリプキにはあまり影響を受けなかったと述べている)
ここでは、大谷弘の本を例に挙げながら、第三世代が、クリプキを経由せずに『探求』を読んだ世代としている
また、第三世代の特徴として、アスペクト論研究の充実も挙げている。