レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』

ニューメディアとは、CG合成の映画やコンピュータゲーム、web、メディアアートなど、コンピュータを使ったメディア(作品)の総称で、そうしたものについての美学理論入門*1
ニューメディアと(オールドメディアである)映画との連続性を検討している感じの本。
アニメーションが映画の一種なのではなく、映画がアニメーションの一種、みたいなこと言ったので有名な本でもある。
2001年のアメリカの本なので、出てくる例は分からないものも多いし(具体的にはゲームが。CD-ROM5枚組のアドベンチャーとかFPSとかが出てくる)、また古いところもあるのだけど、書かれている内容としては分かりやすいし古びてもいない。もちろん、そういう2014年の日本人に分かりにくい例だけでなく、有名なハリウッド映画や、もっと日常的な例(Wordとか)も出てくる*2。コンピュータによる映像全般を扱ったもの、と考えてもいいかもしれない。
90年代だと、インタラクティブとかマルチメディアとかいわれるのが流行っていたと思うのだけど、この本は、ニューメディアの特質はそういうところにあるのではなく、という話をしている。


ちなみに、石岡良治『視覚文化「超」講義』 - logical cypher scape三輪健太朗『マンガと映画』 - logical cypher scapeで言及されていたので、その流れで手に取った。

イントロダクション

    • 個人的な年代記
    • 現在の理論
    • ニューメディアをマッピングする――方法
    • ニューメディアをマッピングする――構成
    • 用語――言語、オブジェクト、表象


第1章 ニューメディアとは何か?

  • メディアはどのように新しくなったのか
  • ニューメディアの諸原則
    • 1.数字による表象
    • 2.モジュール性
    • 3.自動化
    • 4.可変性
    • 5.トランスコーディング
  • ニューメディアとは何でないか
    • ニューメディアとしての映画
    • デジタルの神話
    • インタラクティヴィティの神話


第2章 インターフェース

  • 文化的インターフェースの言語
    • 文化的インターフェース
    • 印刷された言葉
    • 映画
    • HCI――表象対制御
  • 画面とユーザー
    • 画面の系譜学
    • 画面と身体
    • 表象対シミュレーション


第3章 オペレーション

  • メニュー、フィルター、プラグイン
  • 合成
    • 映像のストリームからモジュール的なメディアへ
    • モンタージュへの抵抗
    • 合成の考古学――映画
    • 合成の考古学――ヴィデオ
    • デジタル合成
    • 合成と新しいタイプのモンタージュ
  • テレアクション
    • 表象対通信
    • テレプレゼンス――イリュージョン対行動
    • 〈道具としての画像〉
    • 遠距離通信
    • 距離とアウラ


第4章 イリュージョン


第5章 フォーム

  • データベース
    • データベースの論理
    • データとアルゴリズム
    • データベースとナラティヴ
    • 範列と連辞
    • データベース・コンプレックス
    • データベース映画――グリーナウェイとヴェルトフ
  • 航行可能な空間
    • 《ドゥーム》と《ミスト》
    • コンピュータの空間
    • 航行の詩学
    • 航行者と探検家
    • 映画-眼(キノアイ)とシミュレータ
    • 《EVE》と《プレイス》


第6章 映画とは何か?

  • デジタル映画と動画像の歴史
    • 映画、インデックスの芸術
    • 動く絵の手短な考古学
    • アニメーションから映画へ
    • 再定義された映画
    • 映画-眼から映画-筆(キノブラッシュ)へ
  • 新しい映画言語
    • 映画的なものとグラフィカルなもの――シネグラトグラフィー
    • 空間的モンタージュとマクロ映画
    • 情報空間としての映画
    • コードとしての映画

イントロダクション

筆者の略歴。モスクワでプログラミングとデッサンを学び*3、その後ニューヨークへ渡り、『トロン』を制作した会社に勤める。
本書の方法論と構成
用語
言語、という言葉で、ニューメディアの慣習やパターンや形態に研究の焦点をあてていることを示す
オブジェクト:製品とか芸術作品とかではなくオブジェクトと呼ぶ。デジタルの静止画像、デジタル合成されたフィルム、3D仮想環境、コンピュータゲーム、ウェブサイトなど
表象:他の言葉と対立させて使うのが有益
1.表象――シミュレーション
ここでいう表象は、画面のテクノロジー。画面とは、仮想世界を枠で囲んだ矩形の表面
シミュレーションは、観客を完全に仮想の世界内に没入されることを目指すテクノロジー
2.表象――制御
フィクションの世界を表象する画面と、ユーザーがコンピュータを制御するコントロールパネルとしての画像(〈インターフェースとしての画像〉)
3.表象――行動
現実を操作することができるテクノロジー(地図、図面、テレプレゼンスなど)(〈道具としての画像〉)
4.表象――通信
5.視覚的なイリュージョニズム――シミュレーション
前者:視覚的な類似物を目指す/後者:視覚以外も含めた、現実をモデル化する様々な方法
6.表象――情報
フィクションの世界にユーザーを没入することと大量の情報への効率的なアクセスをユーザーに与えること

第1章 ニューメディアとは何か?

メディアはどのように新しくなったのか

メディアとコンピュータの融合・前史
1839年 ルイ・ダゲールのダゲレオタイプ
1833年 バベッジの解析機関←ジャカールの織機(画像を織りなす機械)からの影響
1890年代 映画の普及/統計を計算するためのタビュレーター(IBM
チューリングマシンと映写機の類似
コンラート・ツーゼ:廃棄された35ミリフィルムに、バイナリ・コードをパンチ
20世紀後半、コンピュータはメディア・プロセッサー

ニューメディアの諸原則

ニューメディアの特徴

  • 1.数字による表象

ニューメディアのオブジェクトは数学的に記述でき、メディアがプログラミング可能になる(ノイズを除去したりコントラストを変えたり)
デジタル化=サンプリング+量子化
近代のメディアもサンプリング=離散的な水準はある(映画や写真)←近代の産業社会・工場制度に由来
しかし、近代のメディアは、量子化はしていない(連続的)

  • 2.モジュール性

モジュール的な構造をしている。1つのモジュールはさらに細かいモジュールに分割できる。また、他のモジュールに組み込まれても独立性を保つ。また、特定のモジュールを削除したり置き換えたりも容易にできる。
例えば、WebサイトやWordの文書に、画像や他のデータをカット&ペーストすること


以下、1と2から導きだされる帰結

  • 3.自動化

メディアの創造について、「低次」や「高次」の自動化

  • 4.可変性

ニューメディアのオブジェクトは、異なったヴァージョンを生みだす
オンデマンドでの生成
同じデータから異なったインターフェース
ユーザーにあわせたカスタマイズ(ウェブサイト)
インタラクティヴィティ
定期的なアップデート
サイズの違い(フルサイズの画像とサムネ画像)

  • 5.トランスコーディング

文化的レイヤーとコンピュータのレイヤーの2つに属していること

ニューメディアとは何でないか

よく、ニューメディアの特徴とされるものが、実はオールドメディアも持っているという例
・ニューメディアはデジタル
1秒に24回、時間のサンプリングを行っているという意味で、映画もデジタル
・ニューメディアはマルチメディア
映画も、画像や音声、文章を組み合わせたマルチメディア
・ニューメディアはランダムアクセス
ゾートロープなど19世紀の映画機械はランダムアクセス


デジタルという言葉は、アナログからデジタルへの変換、共通の表象コード、数字による表象という3つの概念があわさっていて、曖昧なので本書では使わないようにする


・デジタルは、アナログと比べて失われる情報がある
最近のデジタル画像は、解像度が十分高い
・デジタルは劣化しない
理論的にはそうだけど、現実には不可逆圧縮


インタラクティブも、デジタル同様、大雑把な概念

第2章 インターフェース

文化的インターフェースの言語

文化的インターフェース=コンピュータが人間に文化的データを提示したり、インタラクションできるようにするやり方
3つの形態=「印刷された言葉」「映画」「HCI(ヒューマンコンピュータインターフェース)」
ここでいう「印刷された言葉」「映画」は、その伝統で培われた習慣や文化全般も含む
「印刷された言葉」
「ページ」という概念
「映画」
移動性をもったカメラ
矩形のフレームで切り取ること
「HCI」

画面とユーザー

古典的な画面
ダイナミックな画面=動画
ウィンドウ・インターフェースとVRによる、ダイナミックな画面の時代の終わり
(他の画面を見たりザッピングしたりするウィンドウ・インターフェース/他の空間の「窓」としての画面が消滅するVR(HMD))
レーダー画面
リアルタイムにアップデートされる画面になった


古典的なタイプ→ダイナミック型→リアルタイム型→インタラクティブ型→コンピュータ画面
時間性の観念
見る者がいる空間と表象の空間との関係
身体の監禁(不動性)
アルベルティの遠近法的窓、デューラーの遠近法器具、カメラ・オブスクラ、写真、映画
VR、身体は縛り付けられているけれど、画面を見るために身体を動かさないといけない


表象の伝統とシミュレーションの伝統
前者:ヴァーチャルな空間と現実の空間を分ける、ルネサンス絵画
後者:両者を混ぜる、フレスコ画、モザイク
後者は建築物などに組み込まれているので、ヴァーチャルな空間と現実の空間を混ぜられる。ルネサンス以降、表象の伝統が支配的になったが、蝋人形館、博物館のディオラマ、19世紀のパノラマに残って、VRへと繋がる

第3章 オペレーション

多くのソフトウェアに共通する一般的な技法など
選択、合成、テレアクション

メニュー、フィルター、プラグイン

「選択」について
Wordとかパワポとか、スタイルやプラグインを選択して使う
ミュージック・シンセサイザー登場以降、芸術制作も、メニューの中から選択して行うことができるようになった

合成

デジタル合成の3段階
1.様々な要素からヴァーチャルな3D空間を構築
2.カメラの動きをシミュレーション
3.特定のメディアの人工物をシミュレーション(フィルムの粒子やヴィデオのノイズ)
広い意味での合成:いくつもの要素を集めて、継ぎ目のない単一のオブジェクトを作ること
狭い意味での合成:動画像の要素を集めて、フォトリアリズム的なショットを作り出すこと
合成と選択は双方向的


連続性の美学
モーフィング、ゲームで3D空間を絶え間なく移動することなど、オールドメディアではモンタージュであったところを、連続性に置き換えている(反モンタージュ)時間や空間を瞬時に転換する近代のナラティブ(文学にしろ映画にしろ)から、ゲーム(FPS)やVRの一人称のナラティブ


時間的なモンタージュとショット内のモンタージュ
後者は、分割スクリーンや近景と遠景の並置など
ヴェルトフ:モンタージュによって、現実には存在しない対象を観客に提示し、インデックス的な性質を克服する
映画以外では、ショット内のモンタージュが標準的
MVとか、天気予報で予報士が天気図の前にいるような合成(キーイング)


合成とモンタージュ
Premierは、編集を二次元のオペレーションとしているが、After Effectsは第三の次元を付加
エイゼンシュテインは時間に焦点を当てていたが、デジタル合成では、空間の次元及ぶフレームの次元が時間と同じくらい重要
存在論的モンタージュ
存在論的に相容れない要素どうしが、同じ時空間の中に共存(リプチンスキー『タンゴ』(1982)『階段』)
様式的モンタージュ
異なるメディア、異なる様式の映像の並置(カレル・ゼマンの作品、『フォレスト・ガンプ』)

テレアクション

19世紀は異なるテクノロジーだった、表象のテクノロジーと通信テクノロジーが、20世紀に1つになる
従来の美学的オブジェクト→有限(グッドマンもバルトも、有限のオブジェクトを想定している)
美学的オブジェクトの再考は必要か?(芸術は必然的に有限のオブジェクトに関わるのか、遠距離通信はそれ単独で美学の主題になるのか、ユーザーの情報検索は美学的な観点から理解できるか)
テレプレゼンス
ブレンダ・ローテルの定義では、仮想現実の空間に存在するという意味と、現実の遠く離れた場所に存在するという意味の2つが含まれているが、スコット。フィッシャーおよび本書は、後者のみを「テレプレゼンス」と呼ぶ。
無人潜水艦の操作、宇宙ステーションの修復、湾岸戦争でのミサイルなど
〈道具としての画像〉
ラトゥール:画像は制御と権力の道具として使われた
写真を使って測定する
ダイアグラム、地図、X線や赤外線画像など、イリュージョニズムにうまく入らない表象のほとんどは、〈道具としての画像〉
〈道具としての画像〉とテレプレゼンスの違い
リアルタイム性があるかどうか
テレプレゼンスを可能にしたのはなんのテクノロジーか→ヴィデオか→ヴィデオなしでもテレアクションは可能(レーダー画像とか)→電子的な遠距離通信こそが重要
ベンヤミンヴィリリオの類似点
自然(アウラとか)を距離と捉え、テクノロジーを距離を破壊するものと捉える
視覚と触覚の対立図式、触覚の攻撃性

第4章 イリュージョン

合成的リアリズムへの不満
  • 映画のリアリズムにおける3つの説明

(1)バザンの目的論的・進化論的説明
(2)ジャン=ルイ・コモリ イデオロギー的な機能を重視/非直線的な仕方で説明(付加と置換)
(3)デイヴィッド・ボードウェル&ジャネット・スタイガー 産業的な編成からの説明

コンピュータ・アニメーションにあてはめると
(1)70から80年代:現実のイリュージョンへと進歩
(2)80年代末、様式がとってかわる
(3)リアリズムの目標設定:軍事とエンターテイメントのニーズが反映:フライト・シミュレーター等への応用、映画の特殊効果やヒューマノイド、合成俳優の開発(『ルッカー』 女優の三次元モデル、『タイタニック』 コンピュータ・アニメーションによる「エキストラ」)

合成画像とその主体

コンピュータグラフィックスによる合成映像は、通念に反して、既に伝統的な写真よりもリアリズム的
コンピュータグラフィックスによる合成映像とフィルム・フッテージを継ぎ合わせるために、コンピュータ生成による画像の質を低下させた
→コンピュータグラフィックスによる合成映像は、完璧すぎる、あまりにもリアルであるともいえる
→解像度無限、被写界深度の効果からも自由、肌理からも自由、色が濃く、シャープな線
→人間視覚以上の視覚→コンピュータの視覚・サイボーグやミサイルの視覚

イリュージョン、ナラティヴ、インタラクティヴィティ

メタリアリズム
イリュージョン(虚構世界への窓)とインタラクティブ(メニューやコントロール画面)が共存していたり、絶えず切り替えられたりする
あるいは、QuickTimeにおける画像のぎざぎざや巨大なピクセルブレヒト的な、イリュージョンの産出の露出、ベンヤミンの「気の散った状態での知覚」の実現
こうした切り替えが、現実効果やイリュージョンを妨げない
メタリアリズムは、現代のイデオロギー(仕掛けの暴露も織り込み済み)に対応しているので、技術の進歩によってなくなるものではない
イリュージョンは行動に、奥行きは表面に、想像の世界への窓は制御盤に、それぞれ従属させられる

第5章 フォーム

コンピュータメディアの慣習・形態・形式(フォーム)
(1)データベース
(2)3D仮想空間
情報と「没入」の対立は、行動と表象の対立の特殊な1つ
ナラトロジーにおける叙述と描写の区別→描写は情報を与えている
ナラトロジーは叙述に最大の注意を払う→情報アクセスの美学が必要

データベース

データベースとナラティブの関係は?
ニューメディアにおいて、データベースという形式は支配的
特にWebでは、リンクによって要素が次々と付加され、完成されないという性質が、ナラティブと相容れない
データベースではないようなニューメディア
→コンピュータゲーム
ナラティブのようで、それはアルゴリズム
コンピュータの世界は、データ構造とアルゴリズム
データ構造とアルゴリズムは互いに互いを必要とするが、データベースとナラティブもそうか


ニューメディアにおいて、作品とインターフェースの層が分離
可変性:ニューメディアのオブジェクトは、マルチメディア素材のデータベースに対する、1つないしは複数のインターフェースからなる
(インターフェースが1つだけの場合、伝統的な芸術のオブジェクトと似る)
ハイパーナラティブ:ユーザーがデータベースを通り抜ける複数の軌跡の総和
伝統的ナラティブ:ハイパーナラティブのなかの特殊ケース
しかし、ユーザーの恣意的な配列が、即座にナラティブになるというわけではない
データベースとナラティブの関係は対等ではない
データベースがナラティブをサポートすることはあるが、データベース自体にナラティブの生成を促すものはない


範列と連辞
連辞:明示的に関連づけられる。例)ファッションであれば、実際に着られているスカート、ブラウス、ジャケットなどという系列
範列:暗示的に関連づけられる。例)実際には着られなかった別のスカートの系列
ナラティブ=連辞、データベース=範列
インタラクティブ・メディアでは、範列よりユーザーに提示される
しかし、なお連辞が意識されている
ニューメディアは、20世紀の記号学的秩序ー映画の秩序に従っている
視覚文化において、何世紀も空間化されたナラティブが支配的だったが、20世紀には、漫画など「マイナー」な地位に追いやられた
ニューメディアは、「文化」たらんしているときは、一度に一画面ずつ情報を提示し(ゲーム)、単に情報のインターフェースとして機能しているときは、一度に多くの情報を提示する(メニュー画面)


データベース映画として、グリーナウェイ『英国式庭園殺人事件』(1982)と、ヴェルトフ『カメラを持った男』(1929)を見る

航行可能な空間

叙述と描写ではなく、ナラティブ行動と探検という観点でゲームについて考える
近代のフィクションでは、見ることと行動することが別のことが普通だが、ゲームでは同時に起こる
航行可能な空間はゲーム以外、ニューメディア以外でも見られる(ヘイルズ・ツアー、ローラーコースター・ライド)
航行可能な空間は、情報を視覚化するので、労働のツールにも使われる(グラフのようなもの)
サイバースペースサイバネティクス←キベルネティコス(「舵取りが上手い」という意味の古代ギリシア語)


ニューメディアの空間はオブジェクトの集積であり、真の空間ではない
パノフスキー:「集積的」な空間(ギリシア)と「体系的」な空間(イタリア・ルネサンス
3DCGは一見「体系的」だが、その実「集積的」
3D空間は、2D平面の集積(キャラクター、静止画像、ムービー、背景など)として作られる
キャラクターと背景は互いにインタラクションしない


航行可能性
『アスペン・ムービーマップ』(1976):自動車の動き
『読むことのできる都市』(1988-919:自転車の動き
『浸透』(1994-95):スキューバダイビングの動き
これらに対して
ヴァリスキー『森』(1993):ヴァーチャル・カメラが複雑な動きをしながら停止せずに動いていく
『ストリート・オブ・クロコダイル』:突然離陸したりなどする
コンピュータの空間は、特定の軸を特権視しない=等方性
近現代の建築や、カバコフのトータル・インスタレーション
航行者(遊歩者):ベンヤミン、集団とのインタラクション、データ・ダンディ、メーリングリストニュースグループ
探検家:クーパーやトウェイン、ヘミングウェイアメリカの古典的小説は物理的な移動によってナラティブが駆動、仮想空間の航行、RPGInternet Explorer


映画史家フリードバーグ「移動性をもった仮想の視線」(近現代の映像文化の様式)
ヴェルトフ「映画−眼(キノアイ)によるインターフェース」
→カメラを建物の屋上や走行中の車に据え付ける、フィルムの速度を変える→人間の物理的な航行以上のオペレーション
フライト・シミュレーター(当初は模型の上にアームで動かすカメラを据え付けていた)
→3DCG(山脈や雲、霧などが研究課題に)
→軍事からエンターテイメントへ
ヴィリリオ『戦争と映画』(20世紀の軍の文化と映画文化の間に見られる並行関係)
オジェ『非-場所』
モダニティから、何か別のものへ(ただし、ポストモダニズムが断絶を含意していたとしたら、こちらは連続性を強調)

第6章 映画とは何か?

デジタル映画と動画像の歴史

映画はインデックスの芸術
タルコフスキー「抽象映画はありえない」
しかし、いまや、映画をアニメーションから分けることはできない。映画は、絵画のサブジャンルになった


19世紀の動画像(フェナキスティスコープ、ソーマトロープ、ゾートロープなど)
・手で描かれた画像を手作業で動かしていた
・動く要素が限られていた
・ループに基づいていた
写真とモーターが結びつき映画が生まれ、これらの要素はアニメーションへ



デジタル映画制作の諸原則
1)物理的に撮影しなくても、コンピュータ上で直接映画のようなシーンを描けるようになっている
2)ライヴ・アクションのフッテージも、デジタル化されれば、グラフィックスと同じになる(インデックス的な関係を失う9
3)ライヴ・アクションのフッテージも、さらなる合成やアニメーション化などされる→新たなリアリズムへ
4)編集と特殊効果の区別の崩壊
デジタル映画とは、多くの要素の1つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである
プロダクションとポスプロの関係の変化→『スター・ウォーズEP1』、セット撮影は65日、ポスプロは2年以上、2200ショットのうち2000ショットがコンピュータ上で作成


絵画としてのデジタル映画
アヴァンギャルドな映画制作→コンピュータのうちに
映画−眼から映画−筆へ
20世紀の映画(現実の記録としての役割)は、視覚的表象の歴史における例外
画像が手作業によって構築するもの→映画も絵画の一種となる

新しい映画言語

映画的ナラティブやリアリズムを放棄した新しい映画として
・MV
・CD−ROMベースのゲーム
後者は、伝統的な映画を模倣しようとしながら、新しい視覚言語へ到達(100年前の映画の歴史を辿り直しているかのよう)


初期のデジタルムービーにおける「ループ」
セル・アニメーションに見られるループ→ナラティブを駆動するものとしてのループ
インタラクティブTV番組『アクヴァーリオ』(「たまごっち」のような、画面の下のボタンを押すと、様々なショットのデータベースの中からショットが選ばれる。ループがナラティブとインタラクティブを結んでいる)
空間的モンタージュの可能性
漫画からGUIのマルチウインドウへ
書物が文書へのインターフェースであるなら、映画は3D空間で生じている出来事へのインターフェース
コージックのアスキーフィルム
アスキー・コードと画像が共存している作品


感想

原著は2001年に出ているのだが、この本って、『動ポモ』の書かれうる別の形だったのではないか、と思う。同時代性なのか何なのか
超平面性って、可変性とトランスコーディングのことだったのだろうと思うし
データベースとナラティブ、というわりとそのまんまな部分もある
『不過視なものの世界』という、『動ポモ』の前に出た対談集があるけど、そこで映画の過視化について書かれているけれど、それとも通じているところがあると思う。
違いとしては、『動ポモ』がオタク論的な色彩が強く、また近代的主体からポストモダン的主体へというような断絶的変化とオタクとを重ねあわせようとする本なのに対して
『ニューメディアの言語』は、あくまでも視覚文化の連続的な歴史と、美学としての理論を目指す本であること、か。
まあこの本も、時々、反映論的なこと(モダニティの変化だとか、イデオロギーに対応してるだとか)は言っているのだけど。
個人的には、初期東のこういう美学的・視覚文化論的なな議題を東にはもっと膨らませてほしかったのだけど、実際にはそういう方向にはあまり進まなかった。こういう方向性に進んでいったのはむしろ、渡邉大輔だったと思っている。

個人的には、現実にはありえない映像をつくるという意味での「過視化」というものに興味があって
モンタージュの話とか、コンピュータの視覚とか、映画−視からフライト・シミュレーターへ、とかが面白かった
あと、コンピュータグラフィックスは、映画的なものを模倣するというところで被写界深度の話が出てきて、アイカツのCGライブのことを思ったりした。あれは、カメラをかなり意識してる。


表象とそれ以外の対立(道具としての画像とか)は、美学とか描写の哲学の問題として、もしかしたら面白そうかも
イリュージョンではないような画像との並置とか、鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scape的な話


書物のインターフェースとして、「ページ」をあげていて、ニューメディアも基本的にこれを使っている、そして「ページ」というのは何千年もの歴史をもっているから、そう簡単には消滅しないだろうと述べられている。
というのを踏まえて、2001年にはまだ注目されていなかっただろうものとして、SNSのタイムラインっていうのは、新しいインターフェースなのかもしれん、と思った。
この本のなかでも、ニューメディアでは、ページがどんどん「バーチャル化」して、ついにはスクロールしていく、ページというよりは巻物みたいなものになっていっているとか、マルチメディア化して色んなメディアタイプが貼られているとか、そういった記述はあるので、SNSのタイムラインも、この議論の範疇内かもしれないけど
でも、動画のプレイヤーとかも全部埋め込まれていて、下手するとあのタイムラインのスクロールの中で大半のものが閲覧できてるの、「ページ」とはまた別種の何かのような気がする。
渡邉大輔『イメージの進行形』 - logical cypher scapeが、映像圏としてtiwtterの話をしているのは、そういう意味で意義のあることなのかも


ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

*1:筆者は、「美学」が美醜を判断するというコノテーションがあるのが好ましくないといって、『ニューメディアの美学』ではなく『ニューメディアの言語』としたらしいが、言語より美学の方が内容に適しているような気がする

*2:ニューメディアの特徴として、余暇と労働が近くなるというような話もしている。つまり、ゲームをするにも仕事をするにも、同じコンピュータを使って同じような作業をするという意味で

*3:ただし、コンピュータはなくてノートに手書きで学んでいたらしい