Rune Klevjer, "Virtuality and Depiction in Video Game Representation"


と、松永さんが紹介していたので読んでみた。
面白かった
ビデオゲームの中で用いられる映像のうち、ヴァーチャルなものとインタラクティブ描写を区別するというもの
この区別を、ウォルトンごっこ遊び理論の中に出てくるプロップの区別に基づいてやっている
この区別の話、他にもなんか使えそうな気がする。
あと、何故フッサールも援用しているのだけど、こっちはどういう風に使われているのかいまいちよく分からなかった

Depiction and Space
Reflexivity and the Image
Image Consciousness
Physical and Concrete Models
Virtualiity
Screen-Projected 3-D Graphics and Prosthetic Vision
Interactive Depiction


全体としては、ビデオゲームについての論文で具体例もビデオゲームなのだけど、冒頭で一番最初に出てくる例は、ビデオインスタレーション作品
画像と彫刻の両方の特徴をもつような不思議な知覚的効果がある作品、らしい。で、これがどうして生じるかを、ウォルトン使って明らかにしていく、と始まる(のだが(実際あとでもう一度この作品は出てくるが)この作品自体はあんまり重要ではなかった気がする)

Depiction and Space

(知覚的)メイクビリーブに用いられるプロップとして、作品世界を持つものとそうでないものという区別がある。
具体的には、絵画作品と人形の違い。
この違いを空間を持つかどうかの違い、と言い直している。虚構的な空間を作るものと、現実空間の中で操作するものという違い

Reflexivity and the Image

現実の世界の人形と、虚構の空間を作る絵画との違いを、筆者は自己表象してるかで区別する(reflexivity)
人形が赤ちゃんであるようなメイクビリーブでは、「人形それ自身が赤ちゃんである」という虚構が生成されている。
しかし、ヴィーナスを描いた絵画において、「その絵そのものや絵の部分が女性である」という虚構が生成されているわけではない。
絵画は、このreflexivityを欠いてる
ムンクの自画像を描いた絵の周りを歩きまわったとしても、「私がムンクの周りを歩き回った」という虚構は生成されない(人形なら生成される)
人形は、他のものとの関係が存在する空間の中にある物理的物体としてのそれ自身についての虚構的真理を生成する

Image Consciousness

ウォルトンの主眼は、人形と絵画を区別することではなく、むしろどちらも広い意味では同じもの(描写)とすることにあった
が、人形は、反射的reflexiveなプロップであり、画像とは区別しておいた方がよい
ということで、ここで画像を特徴付けるものとして出てくるのが、フッサールの「イメージ意識」という概念
画像における表面(「像」)と描かれている対象(「イメージ対象」)の区別についての議論らしい
ここでは、フッサールのこの議論が、ウォルハイムのseeing inの議論にもエコーしていると述べられている

Physical and Concrete Models

人形が、描写的表象ではないというのなら、どのようにして表象をしているのか?
これについて、筆者は、自己表象プロップ概念をモデル概念と結びつけることを提案する


モデルについては、フラスカの定義などが紹介される
元となるシステムのbehavioral abstractionだとか、システムや現象などの物理的・数学的・論理的表象であるとか
エーコは、おもちゃの馬は、機能的な表象だとしている(見た目が似ているからでも慣習からでもなく、その機能をとおして表象している)
モデルとは単に視覚的な表象なだけではなく、機能的
反射的なプロップというのは、モデルが知覚的な表象をしていること
例えば物理的なモデルを作ると、単にそれを見るだけでなくて行為も誘うし知覚的な想像の助けにもなる。バイクの模型だったら実際に座ってみるとか(機能的な表象をしている)、建築模型だったら影がどのように指すのかとか。
単に見るだけのものである画像とは違って、反射的な表象になっている(ただ、機能的な表象になっているのに気づかなければ、バイクの画像ないし描写になる)


ところで、物理的モデルは、その定義において、素材がプラスチックだったり金属だったりであることは求められていない
具体的であることと、反射的かつ論理的に今ここにあることが求められる。
ということは、アーノルド・シュワルツェネッガーの蝋人形が、物理的モデルで反射的な表象であるのと同様に、アーノルドのホログラムも同じことが言えるのではないか。
しかも、ウォルトンのプロップは物理的であることも求めてはいないから、ホログラムでもいける。
ホログラムは、モデルの視覚化ではなく、モデルそのもの

Virtuality

ホログラムではなく二次元だったらどうなるか?
ここで「ヴァーチャル」概念が出てくる。
ここでは、まずタヴィナーのヴァーチャル概念について
ターゲットの代理であり、ターゲットの機能的な側面の描写とも(筆者は、エコーの機能的表象と同じような定義になっていると指摘している)
タヴィナーは、リアルタイムなオブジェクト(レースゲームのレーシングカー)を、代理物でもあるような描写であり、モデルであるとしている
しかし、筆者は、代理物であることは、イメージ意識と相容れなくて、モデルとして扱われるならそれはもう描写ではないとする。
リアルタイムなヴァーチャルオブジェクトは、二階のモデル(数理的モデルの視覚的モデル)だという。
実体としては数理的だけど、オブジェクトとしてはtangibleだと
こういうリアルタイムなヴァーチャルオブジェクトの例として、Tennis for Twoなどをあげている
リアルタイムなグラフィックが、モデルとして扱われるために、いまここでプレイアブルなものとして経験されるためには、tangibleなインタフェースがカギ
コマンドベースなインタフェースと違って、実在感を高める


コンピュータゲームは、ピンボールゲームと似て、映し出された対象や環境を実在とすることで、画像的な経験であることを効果的にキャンセルすることができる

Screen-Projected 3-D Graphics and Prosthetic Vision

3D映像はどうなるのか
3Dは仮想的なカメラから撮られているていになっていることが多くて、その点で画像的であることをキャンセルできないのではないか、と。
ここで、ウォルトンの透明性の議論が出てくる
写真は、視覚的補綴の延長にあるので、画像であると同時に、対象を直接見てることにもなるのだ、というあれ
これに対しては反論がなされていて、ヴィデオカメラの映像はやはり描写の一種だよね、となっている
しかし、さらに筆者は、スカイプみたいなヴィデオ会話はどうなの、と。リアルタイムで、tangibleなコンタクトができると、画像性は弱まるのではないかと。
ビデオゲームと他の画像メディアの違いは、非描写的性質にある
シューティングゲームで撃っている時、仮想的なカメラで撮影されたフィルムを撃っているわけではなくて、リアルタイムな環境に向けて撃っている。仮想的なカメラを視覚的な補綴として使っているのだ、と。

Interactive Depiction

ヴァーチャル環境と似て非なるものとして、インタラクティブな描写というのがある
描かれた対象とインタラクトしているのではなく、画像そのものとインタラクトしている。
インタラクティブな描写は3種類ある
(1)描写的空間ナビゲーション(2)描写的ハイパーメディア(3)描写的インタフェース
(2)描写的ハイパーメディアは、「ポイント&クリックアドベンチャーゲーム
(3)描写的インタフェースの具体例としてAdvance Warを挙げている
そのゲームのスクリーン上のビジュアルは、モデルではなく、モデルの視覚化
これをチェスに喩えている。キングの駒を、間違って触って倒してしまったとしても、チェスというゲームにおいて、キングが動いたとか倒れたとかいうことにはならない。
キングの駒がD4にあるからキングがD4にある、わけではなくて、キングがD4にある、ということを、キングの駒で表しているだけ
Advance Warは、コンピュータなしでもプレイできないわけではない
でも、コンピュータで作られた具体モデルは、必然的にデジタルな現象


全てのゲームがどっちかというわけではなくて、実際には混ざっていて、そこにはコンフリクトがある

感想

人形のようなプロップと画像のようなプロップとの区別の整理が綺麗にまとまっているところが、個人的にはすごくツボ
もっと前にこれを知っていれば、何某か使えたのでは~と思ったりするし、今後使えるかもしれないし
反射的というのを、ウォルトンはわりと、メタフィクションっぽい作品を指すのに使うので、人形のことを反射的プロップとして整理するという観点が自分になかった
でもって、そこで作品世界の有無というのを、現実の空間かフィクショナルな空間か、というところでばっさり区別しているの、個人的には使い勝手がよくてよいなと思った。ウォルトンの作品世界概念はなんかわかりにくいので。
で、それをモデルと絡めているのが、この論文の面白いところだと思う。
ビデオゲームについて、表象とシミュレーションの両方の観点から捉える、というのは、松永伸司『ビデオゲームの美学』 - logical cypher scape2でも論じられていたテーマで、うーん、なるほどなあとは思っていたけれど、プロップ→具体モデル→ヴァーチャルとつながっていくこの論文は、個人的には納得と説得力あるように感じた
ウォルトンの透明性の議論の、こんな捻った使い方あるんだ、とか。
最後の、ヴァーチャルとインタラクティブな描写の区別の話も面白いなあと思った。
インタフェースとしての描写、というのも、それはそれで面白い概念だなあと思っていて、レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』 - logical cypher scape2に出てきたメタリアリズムとかの話ともかかわりそうだなあと思ったり思わなかったり。具体モデルであるヴァーチャル対象とは区別されるとして、何某か操作できるものだと描写ともまたなんか違うような気もしないでもない。けどまあ画像っちゃ画像なのかも。