ポール・オースター『鍵のかかった部屋』

これでニューヨーク三部作は読み終わった*1
ニューヨーク三部作は一貫して、書くことと自分と他者が曖昧になっていくことがテーマになっている。
書くこと(そしてあるいは読むこと)というのは、自分が他者になり、他者が自分になっていく体験なのだ。
『幽霊たち』は、そのテーマに対してとてもミニマルな手法で作られている。
『シティ・オブ・グラス』は、歩いていた跡を地図に書くと文字になっているという、大仰な(新本格ミステリ的な?)仕掛けが施されている。
それらに対して、この作品は、「文学的な」ないしは「私小説的な」雰囲気が強くなっているかもしれない。フォーマットはミステリ的だが、もはやミステリ的な仕掛けはほとんどなくなっている。
鍵のかかった部屋」は自分の頭蓋骨の中にある。自分の中に見知らぬ誰かがおり、自分の外には見知ったものしかいない。
失踪したファンショーを追ってパリまでやってきた「僕」は、ついにそのことに気付き、崩壊する。パリでぐずぐずになっていく「僕」は、まるで関係ない男を「まったくのランダム性、百パーセントの偶然が生む眩暈」によって、ファンショーと呼びかけ執拗に追いかける。そして逆に返り討ちに遭う。
「僕」は生還する。ファンショーと「僕」が織りなす馬鹿げた世界から、ソフィーと二人の息子がいる世界へと生還したのだ。
しかし、その生還に対して暗澹たる気持ちになった。救われる話なのだけど、救われない感じがした。前の2作品よりも何だか暗い気持ちになった。実際に「僕」は全然救われていないのかもしれない。かろうじて、逃げ帰ってくることができただけなのかもしれない。
鍵のかかった部屋」は、いまだに頭蓋骨の中に残ったままだ。そして、その鍵はどこかに捨てられて、忘れ去られてしまったのだ。


オースターの小説の面白いところは、軽い文体と繰り出されるエピソードの数々だと思う。
色々な本や歴史(?)から引用されてくるエピソードが面白くて、すいすいと読み進めることができる。
どこまでが本当のことで、どこからがオースターの創作なのかよく分からないのだが、これを読んでいて、ふとなんか小説を書きたくなった。
この作品のなかで「僕」は、国勢調査員をやっていたときに、調査書に架空の家族をでっち上げていた。そのことを思い出した後に、ラシェールの生涯とダ・ポンテの生涯についても述べる。彼らは、幾多の数奇な人生を送っていた。
架空の人生あるいは複数の人生をなんか書きたくなったのだ。

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)