三中信宏『系統樹思考の世界』

久しぶりに新書を買って読んだ気がする。
06年の本で、既にある程度話題の本になっていたっぽいが、なかなかいいタイミングで読むことができたなあと思った。


著者は、進化生物学を専門にしている*1ので、この本はまずは進化論の本といえる。
だが、いわゆる進化論の話が書いてあるのではなくて、進化論によってもたらされた「考え方」について書いてある。それが、タイトルにもなっている「系統樹思考」である。
そしてこの本の面白いところ(であり、かつこの本の構成を複雑にしているところ)は、「系統樹思考」そのものについてと、それによってできることを両方とも書こうとしているところだ
一挙両得となっているのか、それとも二兎を追う者は一兎をも得ずとなっているのかは、評価が分かれるところかもしれない。
著者は、系統樹思考は生物学以外の分野にも広く行き渡っている(少なくともそれが可能である)ということを論ずる。
それゆえ、話は様々な方向へと広がっていって、著者の博識が展開される。
その博覧強記なところには圧巻される一方で、もう少し深く書いて欲しかったと思う箇所もあった。もっともそれは、新書という形態を考えると仕方がないことかもしれない。


さて、これは進化論の本だと上述したが、生物学の本ではない。
これは、科学哲学(科学論)の本だ。
科学ないし学問*2というものは、一体どうやってなされるのか、ということについて書かれている。
そこで、物理学を規範とするような科学観とは異なる科学観を打ち出そうとする。
それが「分類思考」ではなく「系統樹思考」であり、そのような思考を支える推論方法としてのアブダクションである。


分類思考ではなく、系統樹思考という考え方があることを提示した点で、進化論というのは哲学的な意義を持っている。
分類思考とは、文字通り分類する思考のことだが、分類される対象に本質というものを見出すという特徴がある。例えば、ここにポチとかラッシーとかがいるとする。そのポチとラッシーは、「犬」として分類されるわけだが、それはポチもラッシーも「犬」性という本質を有しているからだ。
この分類思考は、「犬」というものが変化するということを想定しない。ある個体が「犬」として分類されるのであれば、それがいつ、どこの「犬」であっても「犬」性を有しているのである。
系統樹思考は、変化していくことを想定する、というか、変化を説明するための思考法である。いつでも、どこでも通用する「犬」性ではなく、「犬」性がいかにして変化してきたのかということを考える。
系統樹思考は、形而上学に対して新たな問いを投げかける。
それは、生物学哲学ないし生物学で論じられている、「種」は実在するのかという問いである。
系統樹思考に基づいて考えると、「種」というのはせいぜい、ある時空間において類似している個体の集団を指している言葉にすぎない。
だが、分類思考に基づいて考えると、「種」というものは、「犬」という種が「犬」性に基づいているように、何らかの本質を現している概念だということになる。
無時間的に成立するような本質があるのか、本質とは変化していくものなのか。
これは哲学の問いだろう。
著者は、この問いに対して直接的に、ないし深く論じてはいない*3。ただし、ヒントはいくつか残されている。
例えば、何故人間は分類思考をしてしまうのか、という点。
レイコフの名前が引かれているが、認知心理学の研究によると、人間という生き物はそもそも分類思考をしてしまうようになっているらしい。
本質があるのかないのか、ということは究極的には分からないかもしれないが、本質があるように思ってしまう心理的な傾向がどうもあるらしい*4ということは分かる。
そのようなことを調べるのは、自然科学の役割だ。
哲学の問いが自然科学によって解かれるかもしれない。これは非常に面白いことだと思う。
ここに、哲学者と科学者は協働していくことになるのだろうと思う。


科学(学問)とは一体どういうものか。
ある現象に対して、説明をするものである。
では、その説明とは一体どのようにしてなされるか、あるいはその説明が正しいか否かどのように判断するか。
普通、実験や観察をして検証することによって、そのような判断はなされる。
それに対して、進化論などの歴史(時間的変化)を対象にする科学では、実験や観察というのは難しい。少なくとも、物理学や化学でいうような実験や観察を行うことは難しい。
また、科学的理論というのは、真か偽かと考えられることが多いが、厳密な意味での真偽が問われているのではなくて、説明としての整合性によって判断されている。
そこで、著者は「物語的説明」というものを挙げられる。
僕は以前、説明とは一体何か説明するのが哲学と書いたが、ここではまさに、説明とは何かが説明されようとしている。
のではあるが、「物語的説明」に関しては議論が不十分であったように思う。
物語と科学の関係に関しては、野家啓一の議論と接続したりすると面白くなるのかな、と思う。
さて、この本では「物語的説明」とは別に、アブダクションという方法が説明される*5
アブダクション系統樹思考によって、科学的な説明がなされるわけである。
それはどのようになされるのか

これらのデータをもっともうまく説明できる系統樹を発見する必要があります
(中略)
まずはじめに、得られたデータを系統樹が「もっともうまく説明できる」とはどういうことかという点です。いいかえれば、そのデータのもとで「ベストの系統樹」とみなす最適化基準をどのように設定すればいいのかという問題
(中略)
データに基づいてベストの系統樹を「選ぶ」とはどういうことかという点です。

一点目の最適化基準については、そもそも最適化基準は色々なものがあり、そのどれを選ぶかを巡って多くの学派が論争をしてきている。というわけで、何が最適であるかということは、一概にいうことはできない。これについての研究をすると、科学史研究ということになっていくのだろう。
どのように選ぶか。これは、とりあえずはもっとも単純なものを選ぶということになる*6
そのために、網羅的探索や発見的探索という方法が紹介されている。


科学というのは、ある何らかの現象を説明するためのものである。
説明といっても色々あるわけだが、変化や歴史を説明する場合がある。その場合に使われるのが、系統樹思考というわけだ。
この本は、系統樹思考とは何か。系統樹思考の使い方が書かれているわけだが、その一方で系統樹思考そのものの歴史についても書かれている。
上述したように、それがこの本の面白いところであり、構成を複雑にしているところでもある。
昔の系統樹の絵が資料として載っていたりするし、科学史・学問史として面白い。
系統樹というのは、遡ると「存在の大いなる連鎖」の図としても現れる。
しかし、この「存在の大いなる連鎖」というのは、むしろ「分類思考」、本質主義に基づいて作られたものだ。ダーウィン以前の科学というのは、そういうものだったのだと思う*7ダーウィンというのは、時間、変化というものを、科学の考え方の中に持ち込んできたのである*8
20世紀の生物学史についても書かれている。
生物学史なんて全く知らないジャンルなので、それもそれで興味深い*9


哲学の方から見て、もっと突っ込んで議論するところがあるぜっていうのは、伊勢田哲治ここで指摘している。
とはいえ、色々なことを詰め込んでいるので、ここで展開されている議論を不備のないものにするのには、新書というよりも一冊の本ではもとより不可能なのだろう。
もう少し欲しいなあと思うところはあったけれど、最近、科学とか説明とかについて考えていた*10身としては、「うんうん、そうだ、そうだ」と思いながら読めた。
全然関係ないけど、著者近影を見ると、秋山仁を若くして*11太らせたような感じの人。
本文は、ですます体で書かれているが、文末につけられている参考文献リストにはだ・である体でコメントがつけられており、時には「豚に食われろ」といったコメントまでつけられていて、著者の「熱さ」みたいなものが伝わってくる。

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

*1:あと、生物統計学という聞き慣れない奴と、本人のサイトには生物学哲学とも書いてある

*2:ここでいう科学には、自然科学のみならず人文社会科学も含まれている

*3:不満な点ではあるのだが、新書では荷の重い話でもあるだろう

*4:心理的本質主義

*5:あるいは、「物語的説明」と系統樹思考は同じようなものとして想定されているのかもしれない。また、「物語的説明」のところでは、タイプとトークンの話もされている。タイプの説明をするのが、従来科学的説明と考えられてきた説明で、トークンの説明が物語的説明だという。タイプと分類思考における「本質」というのはよく似ていると思うので、そこで話は繋がってくるのだろうとも思う。ただし、その繋がりが明確にはなっていない

*6:しかし、何故もっとも単純なものがいいのか。この単純さというのも、複数ある基準の一つにすぎない。単純な説明の方がより合理的であるとは感じられる。ここらへんもまた、認知心理学の問題なのだろうかな

*7:19世紀のナチュラリストたちの考え方だ

*8:現代思想の立役者というと、ニーチェとかフロイトとかハイデガーが挙げられるが、僕はここにダーウィンを連ねたいと思う。哲学・思想史の中でダーウィンが紹介されることは少なくないが、ともするとソーシャル・ダーウィニズムとの関わりでしか語られなかったりもする

*9:でも考えてみると、生物学史に限らず、物理学史や化学史だってよく知らないなあ

*10:って言うほど大した考えてはいなかったけれど

*11:10歳くらい