『ちくま日本文学016 稲垣足穂』

以前、大正時代について少し読んでいたころから、稲垣足穂が気になっていたので、読むことにした。
前半、メルヘン・ファンタジーっぽい作品がおかれ、続いて私小説・日記っぽい作品があって、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」がどんとあって、最後はエッセイがいくつか
前半の作品群と「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」とがやはり面白いけれど、後半のエッセイも、大正時代の思想って感じで興味深い(戦後にかかれたものもあるけど)。

一千一秒物語

すごく短い話(一番短いと3行とか、長くても2ページちょっとくらい)がたくさん載っている。
大抵、月が降りてきてちょっかいかけてくるとかなんかそんな話が多い。
月や星が空にぶら下がっていて、それが人のように降りてくるようなことが多い。
主人公も(各話で同じ人なのか違う人なのかもよく分からない。一人称はまちまち)、すぐに石投げたりするし、場合によっては発砲したりもするので、治安が悪いw

ある晩 ムーヴィから帰りに石を投げた
その石が 煙突の上で唄をうたっていたお月様に当った お月様の端がかけてしまった お月様は赤くなって怒った

とか

自分は憲兵の鉄砲を借りて街上で片ひざを立てた ねらいをつけズドン!
お月様はまっかさまに落ちた
一同はバンザイ! と云った

とか
大正12年

鶏泥棒

これSFだ
丸い胴体の異星人がおりてきて、鶏を盗む。ポリスとエア・フォースの高射砲部隊がやってきて、逃げた異星人を追う。中尉は主人公を乗せて飛行機で追う。星々の間を飛ぶと、星が当たって痛い。
最後、なんか宇宙人と全面戦争になっている。
そもそも一番最初から、ピーピーピーピーと映画『宇宙戦争』のような音がする、みたいな文で始まっている。
大正15(1926)年の作品である

チョコレット

ポンピイが道を歩いていると、妖精のロビン・グッドフェロウが前からやってくる。
実は最近、ほうき星になっていたんだというロビンに、何にでも変身できるなら、このチョコレットの中に入ってみなよ、というと本当に入ってしまう。
で、うんともすんとも言わなくなってしまい、割ろうと思っても割ることができない。
鍛冶屋にもっていって、色んな金槌で叩いてもらうが、一向に割れない
大正11年

星を売る店

これは『文豪ナンセンス小説選』 - logical cypher scape2で読んだ
前半は友人Nとタバコ談義をしたりしている
後半、友人Kの店に寄った際に、物語を思いついたので家へと帰る。その時、電車で走っていく夢だったか空想だったかを思い返している。
すると、星を売る店が目に入った、と展開していく。
大正12年

放熱器

少年時代、飛行機には、蜂の巣みたいな板がついてるけど、あれは何だろうと思っていて、それが次第に放熱器というもので、放熱器とはどういう仕組みのものかというのが分かっていく
昭和4年

フェヴァリット

なんかマゾっぽい願望を抱いている少年がいて、年上の友人たちがなんかいかがわしいクラブをやっていて
昭和13年

死の館にて

稲垣足穂は1941(昭和16)年に腸チフスで2ヶ月入院していたことがあり、おそらく、その時のことを書いたもの(発表は昭和20年)
付添看護婦のFについての愚痴やらなんやら、同室の患者についてとか
甘い物を隠れて食べているとか、食事を削られて廃棄されてしまうとか(おそらく食事制限されているんだろうけど、それへの恨み言的な話か)
夜うるさかった人がいたからちょっと注意したら、病室の中で浮いちゃったとか
隣の人が先に食事制限解除されてて、ちょっと不公平だと思ったんだけど、次の日には自分も解除されたし、そもそも隣の人の方が入院した日も一日早かったし、早合点しちゃいけないな、とか
入院生活の話なので、明るい話はないものの、とはいえ、決して重苦しくもなく進んでいくのだが、最後の退院の時に、一緒に退院できた人もいるけど、同室でそのまま亡くなった人もいたし、退院時に遺体室を見たりして、自分が退院するまでに何人くらい死んでるんだな、みたいなことに思いを馳せて終わる。

横寺日記

横寺は地名(新宿か)
天文関係のことについて。毎日、どの星座を見ることができたかなどが書かれている。灯火管制があった頃で星がよく見えていたっぽい。
「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」
天文分野ってどうも人気ないよな、みたいなことも時々言っている
カントと宗教についての言及が一瞬ある
昭和30年

雪ヶ谷日記

これも天文関係の話しているけれど、小説や美術の話もしている。
東郷青児とか
昭和23年

山ン本五郎左衛門只今退散仕る

寛延2(1749)年7月、「僕」(稲生平太郎)は、触ると物の怪に憑かれるという塚に肝試しに行く。
「僕」は享保19(1734)年生まれで、既に両親はなく、弟と二人暮らしをしている。隣人の相撲取りと親しくしている。
で、その後、「僕」の家には次々と怪奇現象が起きるようになる。弟は親戚の家に預けられることになるが「僕」はそのまま家に居座る。
この「僕」の肝が据わっていて、怪奇現象が起きると「不気味だ」とかは思うのだけど、気にしても仕方ないといって平然としている。
そうすると、色んな人が、一緒にいてやろうとか、祓ってやろうとか申し出てきてくれるのだけど、ほとんどの人は実際に怪奇現象が起きると泡を食って逃げ出してしまう。
狐狸の仕業に違いないといって、狸を捕らえる罠の名人が来たり、霊験あらたかなお札を持ってきてくれる人がいたり、鳴弦で打ち払おうとしてくれる人が来たり、名剣を携えてくる人がいたりと、色々出てくるんだけど、みんな失敗して恐れをなして逃げてしまう。
それでも「僕」は平然としていて、夜寝るのが遅くなって困るなあくらいのテンションでいる。
怪奇現象もバリエーション豊かで、家鳴りから始まって、天井がどんどん下がってくるとか、霊の顔が出てくるとか、家の中の物が勝手に動いているとか、
とまあこういのが1ヶ月続く。
で、最後の最後になって出てくるのが、山ン本五郎左衛門(「やまもと」ではなく「さんもと」という)
正体はよく分からないが、狐狸でも天狗でもなく、はるか昔に大陸から日本へ渡ってきた怪異で、神野悪五郎というのと敵対しているらしい。で、これまで驚かなかった平太郎を賞賛し、今後もし神野悪五郎がやってきた時この木槌を振って呼んでくれたら神野を退治しに来るから、と言い残すと、多くの家来を引き連れて去って行った。
と、そこで終わりかと思ったら、さらに2ページほどついていて、主と客というのが、三次ってのはどこだい、広島でねとか、この話を映画にしたいよね、みたいな会話をかわしているところで終わる。
読後、Wikipeidaを見て知ったが、江戸時代に書かれた怪談が元ネタであり、平太郎少年は実在する人物らしい。

江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、稲垣足穂(「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」)、折口信夫らが作品化している。妖怪・怪奇ブームにのり、21世紀に入っても民俗学者谷川健一荒俣宏、伝奇作家の京極夏彦らも解説書を刊行(下記参照)。水木しげるも『木槌の誘い』で漫画化。『地獄先生ぬーべー』でも劇中のエピソードで紹介された。また、三次を舞台にした宇河弘樹の『朝霧の巫女』に取り上げられたことで、三次には若い観光客が増えているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E7%25A8%25B2%25E7%2594%259F%25E7%2589%25A9%25E6%2580%25AA%25E9%258C%25B2%20

妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。
(中略)
明治以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E7%25A8%25B2%25E7%2594%259F%25E6%25AD%25A3%25E4%25BB%25A4

現代語訳って位置づけなのか
そういえば、時刻の表記が、最初「丑三つ時、つまり2時頃」って書かれた後は、基本的に24時間表記で書かれていた。
ググっているうちに見つけたが、高原英理に『神野悪五郎只今退散仕る』という作品もあるらしい。
昭和43年

空の美と芸術に就いて

飛行家(飛行機乗り)もまた芸術家の一種である、というようなことを論じているエッセイ
人類は、地上だけでなく空にも進出したのだという文明論的な観点も交えつつ、平面ではなく立体的に把握するセンスが必要な点や、空を飛んでいるときに美的な感覚がある点、また、実際に芸術家でもあるような飛行家がいることなどがあげられている。
稲垣足穂の飛行機愛みたいなものが
大正10年

われらの神仙主義

機械と生命
ベルグソンやウェルズ、構成主義未来派への言及あり
大正15年

似而非物語

私がT・Y氏に語ったことや、T・Y氏と訪れた天文台でT技師に聞いた話など
天文学者Pによる「世界線」論
星造りの花火 ポロというフランス人の発明
ハッサン・カンの魔術
ほうき星の捕獲、星畑、食料ともなる星
パルの都
昭和12年

タッチとダッシュ

夜の電車に乗っていて窓外の風景が平べったく見えて、別世界を織り出してゆくとき
「そこにタッチが払拭されて、その代わりにダッシュを(該風景の左肩に)くっつける」
タッチというのは絵のタッチとかのタッチ
ダッシュの方は、(なんでダッシュって呼んでいるのか分からないけど)絵でいうと様式化とか抽象化とかそういうものを指しているっぽい。
こういう言い方はしていないけど、自然主義モダニズムの対比みたいなものか、と思った。
絵の例がでているけれど、絵に限った話ではない。
タッチ派の代表は白樺派
ダッシュについては、若き日の東郷青児を挙げている
人工的とかもダッシュ
摩天楼、交通機関、あるいは「燈火に飾られた街」、「照明を受けて闇中に浮き出した博覧会の塔や円屋根」
昭和4年

異物と滑翔

稲垣足穂は、初めて読んだのが『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2に入っていた「澄江堂河童談義」で、延々、お尻の話をしていたので面食らった記憶があるのだが、これもまたお尻の話というか、アナルの話をしている。
『群像』のエッセイだったのかな? 注に、これの前の連載が「A感覚とV感覚」だったと書いていて、ここでもA感覚とV感覚の話をしている。
A=アナル、V=ヴァギナ、P=ペニス
3節に分かれていて、第2節は対話篇で書かれている。第3節はふたたび「私」の一人称で書かれているが「先生」というのも出てきて、語り手がもしかしたら変わっているのかもしれない。
フロイトだったり何だったりを交えながら色々書かれている
VやPは結局功利的な道具であって、表面的なものだ、と。Aの方が、内面的だったり精神的だったり抽象的だったり本来的だったりするんだ、と。
話の内容は全然違うけれど、論理展開というか何を優位に置くかという点で「タッチとダッシュ」と通じるのかなと思った
女性が個性として見られていない、ただVとしてしか見られていない、ということが書かれていたりして、ちょっとフェミニズムとの関係が気になったりもした(対話篇の中でおそらく女性らしき人物が話している)。
内臓感覚
飛行の話も少し。

解説:佐々木マキ

なるほど、確かに佐々木マキっぽいかもなあと思った。
元々は読んでいなくて、人から似ているよねと言われていて、後日実際に読んだら好きになったという感じらしい。
プロになる前に読んでたら影響受けててやばかったなあ、的なことも