『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』

「家族」や「都市」などテーマ別で編まれた同アンソロジーだが、10巻は実験的な表現方法で書かれた作品を集めたものとなる。
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
に引き続き、読んだ。
なお、このシリーズは最終的には全18巻となるのだが、元々は全10巻シリーズとして刊行されたもので、刊行当時、この巻は最終巻であった。
全体的に短い作品が多くて、この中では唯一既読であった「馬」が一番長い分量で、若干なんだかなーという気持ちがないわけでもなかったのだが、改めて読んでみても「馬」は面白い作品であった。
それ以外では、筒井「遠い座敷」、渋澤「ダイダロス」が面白かった。次いで、笙野「虚空人魚」吉田「お供え」も面白かった。
後半から、ホラーなりSFなりファンタジーなりの要素が入った作品が増えて、前半の作品より後半の作品の方が好みではあった。

「ゆうべの雲」内田百間

家に帰ってきたら、客とその奥さんが来ていたという話

「アルプスの少女」石川淳

タイトルにあるアルプスの少女は、あのアルプスの少女のことで、後日談を書いている
立って歩けるようになったクララが、ある日、ハイジの約束を反故にして都会へと出かけるのだが、そのタイミングで、戦争が勃発する。
戦争が終わり、兵士となっていたペーターと再会し、アルムの山へと戻る。
ハイジやおじいさんが、妖精か幽霊かのように書かれている(クララが山を下りる前後に、消滅している)

「澄江堂河童談義」稲垣足穂

稲垣足穂って飛行機の人というイメージがあったのだが、これは、おしりの話
澄江堂は芥川龍之介の号で、この話も、最初の部分と最後の部分に芥川が出てくる。筆者が、芥川のもとを訪ねる話で、芥川に作品を読んでもらっていて嬉しかったとか、あるいは芥川以外にも当時の様々な作家の名前やエピソードが出てくるのだが、しかし、大半はおしりの話をしているのである。
おしりというのは、人体の中でもっとも魅力的な部位であるという話から、なんで「菊」とか「釜」とかいうのかという話をしたり、褌の話(過去には褌ではなく違うものを穿いていたとか、西洋人の下着の話とか)をしていたりする。


「馬」小島信夫

小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2で読んだばかりであるが。
やはり文章のディテールが面白いなと思うし、展開の唐突さというか、主人公はこう思うんだけどそうならない、みたいな展開に奇妙さと面白さがあると思う。
ところで、結局のところ、この五郎という馬は一体何なのかというのと、影法師は一体何者なのかという問題がある。
影法師を目撃した主人公は、これが大工の棟梁だと思い、妻が棟梁と浮気していると疑うのだけど、妻からあれは病院を抜け出したあなただと言われ、後に、やっぱり自分だったのかなと思うようになる。
また、馬の五郎が言葉を喋っているのを聞いた主人公は、実はあの馬は人間で、やはり妻との関係を疑うわけだけれど、後にやはり、あの声は自分の声だったのではないかと思うようになる。
この馬に対する妻の献身的な様子や、あるいは夜中に馬の物音で主人公の目が覚めてしまうあたりは、馬が子どもの比喩になっているようにも読めたのだが、直後に、まるで乳飲み子に話しかけているようだ、とそのものズバリのことを書かれてしまっていて、なんというか逆に採用しにくい解釈なとも思ってしまった。
最終的に、妻から妙な愛の告白をされて、一応めでたしめでたしとなる。
主人公の何らかを象徴化したものとしての、影法師や馬なのだろうと一応それっぽいことは言えるわけだが、小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2に掲載されていた江藤淳の解説では、小島作品のシンボリズムについて「小銃」を例に挙げて象徴にしては具体的、というようなことが書かれていた気がする。
この馬も、読んでいると当たり前が「こいつ、馬だなあ」と思うわけで、主人公と妻のちょいとねじくれた愛の話でもあるけれど、「気付いたら馬と一緒に暮すことになった件」とでもいうべき奇譚として素直に(?)読むこともできる。

「棒」安部公房

デパートの屋上で子どもを遊ばせていた男が、手すりに身を預けてぼんやりしていたら、バランスを崩して落下してしまう。
そして、落下しながら棒に変化してしまう。
その棒を、学生らしき男2人と教授らしき男の3人組が拾い上げて、この棒について話しはじめる。最初、棒の物理的な特徴について話をしているようで、それが生前(?)の人間性についての話にもなっていて、どういう罰を下しましょうかという話へと変わっていく。

「一家団欒」藤枝静男

バスの終点から湖畔にある墓地へ、そして墓の中へ
主人公は既に亡くなっていて、死んだ家族のもとへ来たという話
生前、家族に対して抱いていた負い目を告白して、許される。そのあと、ヒンオドリの祭りへ行く。
主人公は50代で亡くなったようだが、兄は30代、姉・妹・弟は10代や乳児の頃に亡くなっているので、みな亡くなった年齢の姿で出てくる。(ここで出てくる兄弟姉妹の名前は、実際の藤枝の兄弟姉妹と同じ名前っぽいが、主人公の名前は「章」)

「箪笥」半村良

方言による語りで綴られる、一種の怪談。
能登地方のとある家で、夜、子どもが布団で寝ずに箪笥の上に座るようになる。それを目撃した父親は、なんであんなことさせてるんだと母親に怒鳴るが、母親や他の家族もそのままにさせている。そして、次第に他の子も箪笥の上に座るようになり、果ては母や祖父母もそうなる。夜、箪笥の上に座っている以外は変わったところはないのだが、怖くなった父親は、北前船の水夫となって家から逃げ出してしまう。
最後、語り手が聞き手に対して、なんで箪笥の上に座るのかは座ってみないことは分からないし、座ったら分かるから、座ってみたらどうか、ということを勧めてきて終わる。
幽霊が出てくるわけでもないし、危害を及ぼすようなこともないので、怖い話というわけでもないのだけど、夜中になると自分以外の家族がみんな箪笥の上に座っているというのは、確かにすごく不気味であり、それに対する説明もなされないので、怪談的ではある。
地の文が全て方言で書かれているのが、いかにも現地の言い伝えの聞き書き風になっていて、雰囲気を与えている。

「遠い座敷」筒井康隆

これまた怪談風の話だが、やはり特別怖い出来事が起きるわけではなくて、なんかちょっと不気味だという話である。
山の麓に住んでいる子が、頂に住んでる子と遊んでいたら、夕飯を食べていけとその子の親から言われてその子の家族と夕飯をともにする。
なんか、その地方に伝わる歌を歌うのだが、頂と麓では歌詞とかが少し違っていて、恥ずかしい思いをする
帰る段になって、夜の山道は嫌だなと思っていたら、座敷を下へ下へ行けばよいと言われる。
この家は、座敷が階段状に連なっていて、一方、麓の子の家も同じように階段状に並んでいる座敷があって、その子は、もしかして繋がっているんじゃないかなーと思っていたら、確かにそうだったと。
で、座敷は薄暗いながらも電灯がついているので、山道を歩くよりよいと思って下りていくのだけど、それぞれの座敷の板の間には、人形だったり掛け軸だったりがあってなかなか不気味で、どんどん怖くなってきて、最初は丁寧に襖を開けたり閉めたりしてたけど、最後の方は開けっ放しで走って下りていって、無事家に帰り着いた、と。
こちらは「箪笥」と違って地の文は標準語だが、台詞はものすごくきつい方言というか、日本語としては読解不可能な文(架空の方言ではないかと思われる)になっている。前半に出てきた歌も、意味がとれない。
頂と麓の家が繋がっているあたりも含めて、和風異世界情緒が漂っている。
不気味さはホラー・怪談っぽいけれど、設定や筋立てはファンタジーっぽさがある。

ダイダロス澁澤龍彦

タイトルはギリシア神話だが、内容は鎌倉時代の話。
由比ヶ浜で、大船が朽ちているというシーンから物語は始まる。
源実朝の命で、南宋出身の職人である陳和卿が、渡宋のために建造した船だが、あまりにも大きすぎて海に浮かべることができなかったという。
その船の近くには、実朝を迎えるための塔のような館があって、そこには天平美人をあしらった豪華な繍帳がかけられている。
で、ここから奇妙なのは、繍帳に縫われている女性が実際の人間のようにものを考えたり喋ったりしていて、来ることのない実朝のことをずっと待っている。
そこに、一羽の鸚鵡がやってきて、実朝はもう死んだし来ないよということを告げる。
次に、陳和卿が隠れ住んでいるところに、その鸚鵡がやってきて、なんであの船を作ることにしたのか尋ねる。なお、この鸚鵡も南宋出身で、その後、俊乗房重源のもとにいたというが、陳和卿も元々は重源のもとで大仏殿の再建をしていた。で、2人で(1人と1羽で)、重源についての人物評を話したりもしている。
最後に、陳和卿が蟹になって、朽ち始めた繍帳の元に訪れる。繍帳の女はその蟹を実朝だと勘違いし、陳和卿も実朝だと名乗るのだが、最後の最後には自分が誰なのか分からなくなって単なる蟹になる。

連続テレビ小説ドラえもん高橋源一郎

いやー、タイトルと作者とでひどそうな奴だなと予想がつくけど、読んでみると実際ひどい奴だった。
ここでいう「ひどい」は、別に貶しているわけではないが、かといって(褒め言葉)っていう奴でもない。
1見開きで収まるような短い話がいくつも書かれている。

「虚空人魚」笙野頼子

生物SFっぽい作品
虚空湖に生息し、群体を形成する単細胞生物「光アメーバ」は、時折、雨にのって地上へと飛来してくる。その際、虚空効果や虚空現象という独特の現象を生じさせる。
この光アメーバの生態と虚空現象についての科学的解説という体裁で書かれている。
ただ、そもそもこの光アメーバ細胞が含まれている雨と普通の雨とは区別がつかず、虚空現象も何らか別の説明がつけられるか、あるいは、誰にも観察されずに終わったりしているとあり、じゃあこの解説がそもそも誰の視点から書かれているのか、というか、何故このような解説が可能になったのかということは明らかにされないまま書かれている。
群体は、流線型をとり、しかし進化上の偶然のたまものとして顔のような窪みができているとされ、「虚空人魚」というタイトルは、その光アメーバ群体の形状からとられているのだと思われる。
群体となるものとは別に、孤立する奴がいて、すぐ死んでしまうのだけど、これが雨にのって地上にやってきている。で、一部には、テレパシーやテレキネシス能力を持っている細胞がいて、それが地上にいる生き物や人間、あるいは無機物に対しても影響を及ぼすことがあって、それが虚空現象。
しかし、具体的には色々な形態をとることがあって、例えば発狂した王様が都を燃やすこともあれば、遷都するという場合もある。最後に、とある山村で起きた虚空現象に触れられているのだけど、村人たちは早々に逃げ出して誰もいなくなった村のとある家の流し台にて、生命の奇蹟が起きた。

「お供え」吉田知子

夫を10年以上に亡くし、庭仕事などをしながら一人暮らしをしている主人公
ある時から家の敷地のカドに、花が置かれるようになる。まるで事故現場に供えられる花のようだが、そこで暮らし始めてから事故が起きたことはない。
毎朝片付けてもまた何度となく供えられるので、不気味さと怒りを覚えるようになるが、なかなか他の人には理解されない。
基本的に、日常的・現実的な描写が続くが、いつの間にか主人公が神のように奉られている(隣の空き地で祭礼が行われたり、お賽銭が庭に投げ入れられたりするようになる)

解説 清水良典

テーマではなく手法で編んだ巻だけれど、結果的に「家」にまつわる作品が多かった、と。
それは、戦後に家父長としての「父」が失墜したことと無縁ではないだろうという観点からまずいくつかの作品を解説している。例えば、明らかに家父長として振る舞っていた夏目漱石と世代の近い内田百閒と、もはやそのようなアイデンティティを持てない世代の小島信夫の作品が、しかし同じテーマで繋がっているのだ、とか。
また、半村良筒井康隆といったSFをベースとした作家や、笙野頼子のようなSFを取り入れた作品など、SFは「表現の冒険」をしていたジャンルだったのではとも述べている。
最後に、埴谷雄高が、戦後文学の主題や思想が後発作家に受け継がれることを「精神のリレー」と呼んだことを踏まえつつ、戦後文学の精神のリレーは、主題ではなく、表現の冒険の試みにこそあったのではないかとして、藤枝の「一家団欒」が、笙野頼子「二百回忌」や川上弘美「蛇を踏む」へつながったのではないかと述べている。