Kathleen Stock "Fictive Utterance and Imagining"

フィクションの哲学の論文
フィクションを想像概念によって定義する、というのがこの分野のオーソドックスな見解だが、反論も多い。
反対派としては、マトラバースやフレンドがいる。
一方、最近の賛成派としては、このストックが挙げられることが多い
この論文は、フィクションにとって、想像させるよう意図してるものだ、というのが十分条件になってるよ、というもののようだ。


この論文はしかし、同じくフィクションを想像概念により定義するカリーの議論に対して、反駁ないし補足するようなものになっている。
「フィクティブな発話は、必ず想像を指定している」(この命題を以下NIP*1と略す)
これは、発話者(作者)が読者がPという命題を想像するように意図している、ということ
NIPの反例として、カリーは『ロビンソン・クルーソー』と『虚栄の市』をあげる。
前者は、元々作者がノンフィクションとして発表していて想像するように意図していないケース
後者は、事実について書かれており、想像ではなくそれについて信念を持つように意図されているケース
カリーは、前者について、正式にはフィクションではないのだがそのように扱われているケース、後者はフィクションとノンフィクションのパッチワークケースだと論じる。
これに対してストックは、カリーの応答は不十分であり、実際はNIPはフィクションを定義するのに十分であると論じていく


Pが真であるものとして示され、なおかつ非偶然的に真であることと、Pを想像するように指定していることは、両立する
両立するならば、NIPに障害はなくなる
というのが、ストックの見立て

この両立を示すのに最初に出てくるのが、Laslieの実験で、子どもに中身の入ってるコップ渡して、空のコップだと想像させる奴
ただ、ストックはこの実験によってこの論文で擁護したいことがちゃんと示せるとは考えてないっぽい


想像について、他の命題的思考と結びつく傾向性のあるものとして捉える、という提案をする
例えば、1945年のイギリスを舞台にした小説を読むとき、1945年のイギリスでは戦争があったという信念の内容と、その小説とを結びつける想像がなされる


読者の現象学的には、フィクションを読む時とノンフィクションを読む時とで変わりはないが、結びつく心的状態が異なるとも。
で、ここらへんから、『ロビンソン・クルーソー』はNIPの反例にならないと言ってるらしいが、あんまよくわからなかった


パッチワークケース
カリーはnon-non-accidentality condition、ラマルク&オルセンは、unreliablity conditionとか、条件を付け加えるけど、真であるかどうかということとNIPとの間にはつながりはないのではないか、というようことを論じているっぽい

*1:Neccessarily Imagining Prescribe