泉賢太郎『古生物学者と40億年』

古生物学の方法論について紹介した新書
古生物学関連の一般向け書籍は最近かなり増えてきている気がするが、方法論のみで1冊というのは珍しいかもしれない。
当初、内容紹介や目次から、あんまり内容が分からなくて、わりと恐る恐る手に取ったところはあるのだけど、結構「古生物学の前提」をぐいぐい問い直す本となっていて、面白かった。
なお、著者のことをSNSでフォローしていて、いつか著作を読んでみたいなとは思っていた(本書以前から一般向け著作をすでにいくつか出版しているが、機会を逸して読めていなかった)。
(別にこの本は古生物学の哲学の本ではないが)古生物学の哲学を勉強したいな、という気持ちになった。
科学的に考えるとはどういうことか、そしてその考え方を古生物学に当てはめるとどうなるのか、というのが再三繰り返されている。
検証できないことは主張できないとか、あるいは、ある主張をするためにはどこまで詰めていけばいいのかとか。

第1章 古生物学とは
第2章 地層から古生物学的な情報を読み解く難しさ
第3章 古生物学の基礎知識
第4章 化石から「わかること」とは…?
第5章 化石を研究しない古生物学者
第6章 古生物学の研究はブルーオーシャン

第1章 古生物学とは

前半は、古生物学の一般的なイメージや筆者が古生物学を志した経緯等
後半は、化石について
さらに最後の方で、古生物学の研究について
古生物学というと化石発掘のイメージが強いかもしれないが、古生物の研究は化石を入手してからがスタートラインだ、と
仮説をたてる、検証のための素材(化石)を集める、観察等でデータを集め解析する
ただし、確かにそこからスタートなのだけど、事前準備も大事
それから、古生物学の再現性についても触れられていて、面白い
「過去を直接観察することはできない」ことと「再現性がない」ことは別ものだ、と。
研究の標準的な流れ
(1)ある地層を調査→(2)化石を発掘→(3)化石試料の観察→(4)観察データ取得→(5)データを元に古生物の生体情報を推測
このうち、(1)→(2)と(3)→(4)において再現性が確保される必要がある、と。
(3)→(4)については、古生物学の論文でも記述されている(どういう手法で観測したか、計測したかについて)
ところで、(1)→(2)の再現性については微妙だ、と。
論文において、どこどこで何個の化石を発掘した、とは書かれているが、それだけでは再現性についての記述にはならない、と。何kgの岩石サンプルを処理したか、まで記述する必要があるのだ、と論じている。
(4)→(5)は、古生物学者による「解釈」
「真実」を観測することはできないので、「ベストな解釈」を目指すのが古生物学だ、と。

第2章 地層から古生物学的な情報を読み解く難しさ

まず、古生物学・地質学の大前提として、斉一説、地層累重の法則が解説される。
斉一説はいわば公理みたいなもので、証明されているわけではないけれど、これがないと成り立たないものだとしている。
地層累重の法則も法則という名前だけど、物理法則のような厳密なものではなく、これもまた古生物学を成り立たせるための「考え方」だ、と。


水平方向の不均質性
生物学者は地層の垂直方向には非常に気をつかう。年代の幅だから。
それに対して、水平方向にはあまり意識を向けていない。しかし、地層の水平方向には不均質性がある。例えば、同じ地層であっても、化石がよく産出される地点とそうでない地点とがある。


諸々のバイアス
古い年代になるほど地層そのものが少ない、というバイアス
あと、調査努力のバイアス、というのも紹介されていて面白かった(1週間かけて調査した地層と2日しか調査していない地層だと、当然発見される化石の量も違うよね、というような話)


岩相依存性という違いもある
砂岩と泥岩では堆積速度が違う
堆積速度を調べるには年代を調べる必要があり、放射年代を求める必要がある
が、放射年代を調べるためには、ジルコンをピックアップして測定装置にかける必要があるが、この測定装置のお値段がとても高い
なので、年代測定は簡単にできない!


時間スケール問題
ジュラ紀の温暖化速度と現在の温暖化速度は比較できるか?
その温暖化が起きた時間の幅(時間スケール)が違うことを念頭に置く必要がある
(その間、変動が一定速度だったわけでもない)

第3章 古生物学の基礎知識

  • 化石化プロセスについて

軟組織やウンチはどのように化石になるのか
有機物が鉱物へと置き換わることで。
具体的には、アパタイトまたは炭酸鉱物
アパタイトを構成するのはカルシウムとリン。リン酸イオンとカルシウムイオンが反応してアパタイトが生成され、有機物と置換されていくことで、化石ができる。
カルシウムイオンは海水中に豊富にあるが、リン酸イオンはそうではない。
当の有機物自体がリン酸イオンの供給源となると思われる
(コラーゲンとか骨とかに多く含まれてて内蔵とかはそうでもない。軟組織などが化石として残る際、肉食動物はアパタイト、植物食動物は炭酸鉱物になりやすいらしく、それはこのような理由による、と)
が、どれだけの濃度のリン酸イオンがあればいいのか、どういう条件が揃うと反応するのかはよく分かっていない。
リン酸イオンと反応する前に、炭酸イオンと反応して炭酸カルシウムができると、炭酸塩コンクリーションができる。
どれくらいの速度で生成されるのか
これもよく分かってはいないが、こうした化石の周囲の地層の縞が湾曲しているので、地層の堆積物が固くなるより早く鉱物化しているのは分かる。
また、2018年に発表された炭酸塩コンクリーションについての論文では、数ヶ月~数年でメートル級サイズのコンクリーションができる、と。
『Newton2017年6月号』 - logical cypher scape2にもあったな

  • どれくらいの生物が化石として残されているのか

これまで地球上に存在した全生物のうち、一体どれだけが化石化したかということをフェルミ推定している。
当然、かなり大胆な仮定をおいての推定となっているのだが、0.00001%という推定値が出てきている。少なく見えるのだが、筆者の感覚だと「意外と多いな」という感じらしい。


死に場所と化石化する場所が同じとは限らない
化石は変形する

第4章 化石から「わかること」とは…?

第3章は「わからない」ばっかりだったので、第4章は「分かる」ことについて。

  • 存在確認

古生物学の花形であり、あらゆるデータの基本となる。
いなかったことは証明できない。どこまで調査しても「いなかった可能性が高い」にとどまる。
発見されれば「いた」といえる。

地層の年代が分かる

  • 示相化石

地層の環境が分かる

  • 代理指標

炭酸カルシウムの酸素同位体比などから海水温が分かる
植物の気孔の密度から二酸化炭素の濃度が分かる
過去の海水温や二酸化炭素濃度は直接測定することはできないが、他の指標から測定できる。

第5章 化石を研究しない古生物学者

化石に残される特徴=「表面」
生物学的な要素=「中身」
古生物は、生きていたところを見ることができない。化石という「表面」はわかるが、生理現象や行動などの「中身」は分からない。つまり、ブラックボックス
これを「ホワイトボックス」にすることはできないが、少しでも「グレーボックス」にすることはできないか。
今、生きている生き物を調べることによって。
ところで、当たり前といえば当たり前だが、部外者が見過ごしがちなこととして、「古生物学者生物学者ではない」ということがある。
古生物学は地球科学の一分野であって、大学であれば、理学部の地学科で教育が行われる。
これに対して、生物学は、理学部生物学科、農学部、園芸学部で教育が行われる(ここで園芸学部がでてくるの、千葉大の先生! って感じがする)。
だから、古生物学者は生物学について教育を受けていない、と
(本書では特に言及されていないが、古生物学は英語でpaleontologyであり、biologyという語が含まれていたりはしない)


余談として、筆者が「生体復元図」という言い方はよくないのではないか、「生体想像図」と言うべきだ、と述べているのちょっと面白い


「化石目線で生き物をみる」
生理学的・行動学的な特徴などと関連するような、化石に残る特徴を探す
これは生物学者にはない発想
具体例として、二枚貝の套線湾入というものが挙げられる。
これは、水管を格納するスペースで、化石にも残る形態学的特徴だが、水管の長さは堆積物中に潜る深さと一致するので、潜るという行動の様子がわかる。


個体差
これは筆者が実際に生き物を飼育観察するようにして感じたこと。
実際の生き物はとにかく個体差が大きい
大量にデータを取得して、真の分布に限りなく近いであろう分布を探していくしかない
しかし、そもそも大量にデータを取得できない古生物においては……
性別や成長段階による差もある。
古生物において、性別や成長段階を知るのは非常に難しいが、それに対応する形態を探す。その場合も、化石に残りやすい部位はどこか、という観点から探すのが「化石目線」
そうした形態の差異は、あるかないか(0or1)の場合もあるし、程度(0~1)で決まる場合もある。
程度で決まる場合は注意が必要。境界があるわけではなく、重複する場合もあるから
(例えば、ある部位の幅が、オスだったら平均1mm、メスだったら平均0.5mmとかの特徴だとして、0.8mmのオスも0.8mmのメスもいる、とか)


単に大きい、小さいで比較できるわけではない。
体の全長に対してどれくらいか、という「比率」で比較することが多い
しかし、そもそも成長すると、この「比率」自体が変化する
(赤ちゃんの方が頭身が小さい、とか)
この比率の観点から調べる「相対成長解析」というのもある。


隠蔽種
見た目はとてもよく似ているのだけれど、遺伝的には異なっていた、というのが「隠蔽種」
DNAを調べることのできない古生物では、隠蔽種かどうかが分からない
多くの古生物学者は、古生物について隠蔽種かどうか調べる科学的な方法はないので、形態的にそっくりであれば、同じ種と考えておく
しかし、筆者はこの考え方に疑問を持ち、現生種において可能な限りDNA解析を行い隠蔽種が存在する可能性は低い、というところまで調べた、という


そんなわけで筆者の研究室では、二枚貝の飼育実験室や遺伝子実験室などを立ち上げていったという

数理モデルを使う
例えば、大腿骨の大きさと体重の間に数理的な関係があることが分かっているので、化石しか残っていなくても、大腿骨の測定さえでれきば、その数式に当てはめて体重が分かる
数理モデルはあくまでも近似に過ぎない、という欠点はあるが、それを踏まえておけば強力なアプローチになる、と
上述のように、本書の筆者の研究室は、飼育用の水槽や遺伝子を調べるための装置が置いてあるわけだが、一方で、数理モデル用いて研究している古生物学者の場合は、紙とペン、コンピュータが研究道具で、ひたすら計算しているのだ、と。

第6章 古生物学の研究はブルーオーシャン

古生物学の研究対象は、これまで地球に生息していた生物全て=すごく多い
一方、古生物学者の数は少ない
その意味で競合の少ないブルーオーシャン(だが、アンバランスともいえる)
ところで、古生物学というと世間的には恐竜一択のような状況もある
古生物学の研究対象は多いし、研究アプローチも多様だが、古生物学への入口はそうでもない。
化石の発掘は確かに古生物学の王道・花形だが、それが全てではない。
それだけやっていると、先細りになるのではないか。
多様性の確保が必要だが、果たして今、古生物学の教育とか一般への啓蒙ってそれができているのか
最終章は、筆者から古生物学を目指す人へのメッセージであるとともに、そういう筆者の危機感が率直に綴られている。

想像のobjectと想像のvividness

導入

最近になって、2月にこんなワークショップがあったことを知った。
https://fiction-4.jimdosite.com/

ワークショップ「フィクションの中へ没入の美学」
2024年2月10日 関西学院大学

  • 高橋幸平(同志社女子大学):フィクションの哲学における没入
  • 松永伸司(京都大学):フィクションがなまなましくなるとき

(スライド)
20240210_fiction_vividness.pdf - Google ドライブ
https://researchmap.jp/zmz/presentations/45585825/attachment_file.pdf
(同じファイルだと思いますが)

  • 小山内秀和(畿央大学):心理学は没入体験にどうアプローチできるのか
  • 岡田進之介(東京大学):没入のための制度としてのフィクション─情動的参与のためのデザインとその規範の観点から

(スライド)
https://researchmap.jp/shinokada/presentations/45570521/attachment_file.pdf


岡田スライドについては、また機を改めて触れるかもしれない。
松永スライドでは、ウォルトンのメイクビリーブ理論が、なまなましさ(vividness)の観点からまとめられている。
内容については、上にリンクした通りなので、スライドを確認してほしい。
この中で、なまなましさが何から由来するかで3つに分けているが、そのうちの2つ目として「「想像のオブジェクト」のなまなましさ」が挙げられている。
想像のオブジェクトからくるなまなましさについては、僕自身、『物語の外の虚構へ』に収録している「メディアを跨ぐヴィヴィッドな想像――『Tokyo 7th シスターズ』における「跳ぶよ」というセリフの事例から」と「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」とで論じている。
しかし、松永スライドを見て、改めて頭が整理された。
オブジェクトのこととかあまりうまく整理できておらず、「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」ではそのあたりの記述が、若干及び腰になっていたような気がしないでもない。

SNSからサルベージ

で、これに触発されて、SNSでポロポロ書いたのをサルベージしておく

話変わって…… ウォルトンはフィクションをメイクビリーブ(ごっこ遊び)という概念を通じて論じたのだけど 個人的にウォルトン論のポイントは、現実世界の事物がフィクションを生み出す、と捉えたことだと思う。 棒っきれを掴んで「この棒は伝説の剣なんだ」という時、自分が手にしているこの棒っきれという、現実にある事物から、伝説の剣というフィクションが生み出されている、と。 これはいわゆるごっこ遊びだけど、小説や絵とかもそうで、今自分の目の前にある本なり何なりから、フィクションは生み出されてる、と。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5a2hsh722l

ただ、ごっこ遊びは、棒を剣に見立てているけれど、小説を読んでいる時には、普通、本を何かに見立てているわけではない。 だから普通、小説を読むことはごっこ遊びだとは思われないし、ウォルトン論はここが分かりにくいところだと思う。というか、ほかの美学者でこの点にツッコミを入れてる人もいる。 で、ここからいま思いついたというか、気付いたことなのだが、プロップとオブジェクトという機能の区別をしてのけたのがポイントだったのか、と。 ごっこ遊びの場合、オブジェクトとプロップは必ず同じ事物が担ってるので、ごっこ遊びだけ見てると区別しがたい気がする
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5ad2rlhk2v

小説の本は、プロップだけれども(大抵の場合)オブジェクトではない。 何かがフィクションを生み出している時、その時、その何かはプロップなのに対して、 何かがフィクションの何かに見立てられている時、その何かはオブジェクト、ということになるのでは? オブジェクトって、文字通り、何について想像しているのか=想像の対象のことなのだけど、この説明、すごく分かりにくい。 「◯◯についての想像」って、「◯◯(A)を他の何か(B)に見立てる想像」のことなのではないか、と。 単に「想像の対象」とか「◯◯についての想像」とかだと、(A)のことか(B)のことか分かりにくくなる
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5as2t7q22s

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。 逆に、小説の指輪物語においては、オブジェクトってない オブジェクトがなくてもメイクビリーブは出来る ただ、オブジェクトがあると、メイクビリーブはvividに(生々しく・実体的に)なる
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5c26tc3k2r

この最後の、ゴジラ映画の例についてはあまり正確ではなかったので、この記事のかなり後ろの方で、修正している。

ウォルトンのオブジェクト概念、以前何某か書いて、しかし、結局よくわからないままになっていたよな、と思い、読み返してみた。 正直、この時の経験で「ウォルトンのオブジェクトわけわからん……」みたいになっていたのだけど、今読み返してみると、いや、当時の自分かなりきっちり検討しているのでは、と思い直した。 あんまり付け加えることない(俳優はあんまり表象の対象じゃないんじゃないかと思うけど) かなり攻略できた感じがするし、ここで未解決になってることは実際微妙なとこじゃないかなと思う(程度問題なのでは)
https://sakstyle.hatenadiary.jp/entry/20170410/p1

https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks75pypmaz25


先のポストで、似ているようで微妙に違うゴジラの例とロードオブザリングの例を出したわけだけど、これ、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトの例にそれぞれ相当するなと気付いた(というか、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトとがあるのをすっかり忘れてた) その上で、表象のオブジェクトは、想像のオブジェクトのうちの一種だろう、という認識です。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks75vxbyos27

映画『ゴジラ』における東京は、(『ゴジラ』という)表象のオブジェクトであり、かつ想像のオブジェクトである(何かが表象のオブジェクトであるならば、それは必ず想像のオブジェクトにもなっている)。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』におけるニュージーランドは、(『ロード・オブ・ザ・リング』という)表象のオブジェクトにはなっていないが、想像のオブジェクトにはなっている。

表象のオブジェクトと想像のオブジェクトを巡って

sakstyle.hatenadiary.jp

上述の記事は、ウォルトンのobjectという概念を巡っての議論を自分なりに追いかけたものである。
上述のポストにもある通り、思いのほか、2017年時点で自分もちゃんと検討していたようで、あまり付け足すことはない、というか、そんなに結論は変わらないのだが、改めて考えてみた。

2017年の議論の概要

さて、議論というのは、以下のようなものである。
ウォルトンの”Mimesis as Make-Believe”の、田村均による邦訳『フィクションとは何か』において、an object of imaginationとan object of a represenationという語の中に現れるobjectが、前者では「オブジェクト」、後者では「対象」と訳し分けられていたことについて、高田敦史がブログ内で、この2つをこのように訳し分ける必要はないのではないかと指摘し、それに対して、田村が応答、また、松永伸司も加わってなされたものである。


既に述べた通り、ウォルトンによれば、オブジェクトは、想像に対してvividnessを与えるわけだが、vividnessを与えることが、objectの定義に含まれるのかどうかで、田村と高田・松永の間で解釈の相違がある。
正確に言うと、田村は「想像のobject」については、vividnessを与えることが定義に含まれている(「ウォルトン的な意味」という独特な用法でobjectという語が用いられている)、「表象体のobject」については、含まれていない(一般的な意味でobjectという語が用いられている)。だから、objectを「想像のオブジェクト」「表象体の対象」と訳し分ける、という見解である。
これに対して、高田・松永は、確かにウォルトンは、vividnessを与えることがobjectの役割ないし効果であることを論じてはいるが、しかし、objectの定義としているわけではない(ウォルトン的な意味なる用法はない)。だから、どちらも対象と訳してよい、ということになる。

2017年の議論:『ワイアット・アープ』を例として

議論となっている事例として、俳優と登場人物の事例が挙げられている。
映画『ワイアット・アープ』は、実在の人物であるワイアット・アープを俳優のケヴィン・コスナーが演じているものである。
以下では、想像についても、表象についても、いずれもオブジェクトと訳すことにする。
また、田村はrepresentationを「表象体」と訳しているが、ここでは簡便のため「表象」とする。

  • 田村の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ ×
ケヴィン・コスナー ×

映画『ワイアット・アープ』は、アープについての虚構を生成しているので、アープが『ワイアット・アープ』という表象のオブジェクトになっている。が、アープが、観客の想像にvividnessを与えているわけではないので、アープは、想像のオブジェクトではない(少なくともウォルトン的な意味では想像のオブジェクトではない。志向性の標準的な見解では想像のオブジェクトになっていることは認めている)。
映画『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構を生成しているわけではないので、コスナーは表象のオブジェクトではない。が、コスナーは、観客の想像にvividnessを与えているので、コスナーは、想像のオブジェクトである。
すなわち、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトは、外延も一致しないし、別の概念であり、ここでのオブジェクトはそれぞれ違う意味で用いられている。

  • 松永の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ
ケヴィン・コスナー

松永は「ケヴィン・コスナーが表象の対象ではない(コスナーについての虚構的真理が生成されない)という見解に同意できない」と述べている。
『ワイアット・アープ』はコスナーについての虚構も生成しているので、コスナーは表象のオブジェクトにもなっている。
このケースにおいて、両者の外延は一致するし、オブジェクトという言葉が異なる2つの意味で使い分けられてはいない。

  • 高田の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ
ケヴィン・コスナー ×

映画『ワイアット・アープ』の観客は、アープについての想像もしているし、コスナーについての想像もしているので、アープもコスナーも共に想像のオブジェクトである。
一方で、映画『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理は生成していないので、コスナーは表象のオブジェクトではない。
田村は、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトがそもそも一致していないことを示して、この2つのオブジェクトという語の意味が異なると論じているのに対して、松永と高田はこれらが一致しうることを示して、オブジェクトという語の意味は同じであると論じている。
その上で、高田は、アープ(登場人物)が想像のオブジェクトか否かの点で、田村と解釈が異なっており、
コスナー(俳優)が表象のオブジェクトか否かの点で、松永と解釈が異なっている。
前者について高田は、そもそも田村自身が、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトが一致することがあることを認めている(『キングコング』のニューヨーク)ことを指摘している。また、アープについて、ウォルトン的な意味での想像のオブジェクトになりうるのではないかとコメントしている。同様のコメントは、かつて自分もしていた。
後者について高田は、ウォルトンが俳優が表象の対象になると明示的に述べているのは、俳優が反射的表象になっている時に限られ、一般的に、俳優は表象の対象にはならないのではないか、と述べている。
ただし、ここはすごく微妙なところである。
松永は、『ワイアット・アープ』はコスナーについての想像を命じているのであり、だから、コスナーについての虚構的真理を生成しており、コスナーは表象の対象であると述べている。
そして、高田も、『ワイアット・アープ』がコスナーについての想像を命じていることは成り立ちそうであると述べつつ、しかし、これに相当することをウォルトンは何も触れていないことを指摘している。
というか、高田は、ウォルトンは、この点を見逃したが、何らかの論点先取的な想定をしたか、あるいは、想像の命令による虚構的真理の定義を撤回したかしていて、コスナーについての虚構的真理なるものを想定していないだろう、として、解釈がかなり困難な箇所であると論じている。

2017年の議論に対する今現在の自分の見解

さて、話戻っていて、今現在の自分の見解なのだが
正直、ウォルトンの記述に全く立ち戻っていないし、松永スライドに触れて、ふと思い返してみただけ、という状況で何をいうのか、という感じではあるが、
高田解釈が一番納得がいくなと思った。

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。

と書いたが、
この時、「現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像する」と書いたが、ここで虚構の都市と書いたのだが、「東京がゴジラに壊されているところを想像する」と書いた方がよい。
ゴジラ』は、東京についての虚構的真理を生成しており、東京は表象のオブジェクトになっている。
そしてまた、観客は東京についての想像をしているので、東京は想像のオブジェクトにもなっている。
一方、『ロード・オブ・ザ・リング』のニュージーランドの山についてだが、これは実際はかなり複雑である。
ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像する」
(a)ニュージーランドの山は、中つ国の山についての虚構的真理を生成している(プロップである)
(b)観客は、ニュージーランドの山が中つ国の山であることを想像する(想像のオブジェクトである)。
(c)しかし、『ロード・オブ・ザ・リング』はニュージーランドの山についての虚構的真理は生成していない(表象のオブジェクトではない)。

俳優は表象のオブジェクトなのか

うーん……?
この(c)はやはり怪しいな。
ここは、高田・松永の解釈が分かれているところであり、高田がいうように、コスナーやニュージーランドの山についての虚構的真理は生成されていない、というのは一見正しいようにも思うのだが、
松永が言うように、虚構的真理と作品世界内で成り立っていることは区別すべき、という指摘も正しいように思う。というか、そもそも自分の「フィクションは重なり合う」はまさにそれを前提にした議論である。
表象のオブジェクトという時に、表象が生成する虚構的真理全般についていっているのか、作品世界内で成り立つ虚構的真理のみについていっているのか。
MMBでのメイクビリーブ理論を文字通り適用すると、表象作品は、作品世界内では成り立つ虚構的真理だけでなく、作品世界内では成り立っていない虚構的真理も生成している、ということが導かれるのだが、ウォルトン自身がその点を割と軽視しているのではないか、と思われるきらいがある。
で、論文「フィクショナリティと想像」で少し考えを修正しているっぽいのだが、それがうまい修正なのかどうかもよくわからない。
さて、そんなわけで、やはり松永解釈の通り、『ワイアット・アープ』はゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、と考えたい。
がしかし、高田が以下のように指摘していることも考える必要がある。

もし、俳優が一般に表象の対象でもあるのだとすると、定義上、ほとんどの俳優は反射的表象になるだろう。しかしウォルトンが反射的表象の例にあげているのは、レーガンの役を演ずるレーガンだ(p.211, 訳p.212)。「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」とも言われている(p.212, 訳p.212)。俳優一般を反射的表象だと考えているようにはとても見えない。また別の箇所では、俳優は「演技によって虚構的真理を生成する」とも言っているが(p.243, 訳p.244)、俳優についての虚構的真理を生成するという言い方はしていない。

レーガンレーガン役を演じている作品が何か知らないので、ここでは例を『マルコヴィッチの穴』に変える。
『ワイアット・アープ』がケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成するあり方と、
マルコヴィッチの穴』がジョン・マルコヴィッチについての虚構的真理を生成するあり方は、確かに異なっているように思える。
この違いは、松永が指摘するように、『ワイアット・アープ』が生成するコスナーについての虚構的真理は、しかし『ワイアット・アープ』の作品世界内で成り立っているわけではないのに対して、『マルコヴィッチの穴』が生成するマルコヴィッチについての虚構的真理は、『マルコヴィッチの穴』の作品世界内で成り立っている、という違いである。


これをもう少し整理する方法はないか。
拙論「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」において「反射的プロップ」「非反射的プロップ」という概念を提案した。
これは、クレヴィアーがプロップを反射性を有するかどうか(=自己表象するかどうか)という観点で分類したことに由来する、シノハラによる造語である。
クレヴィアーはプロップが作品世界を持つかどうかと、反射性を有するかどうかを対応させている*1
ごっこ遊びで用いられる棒や人形は、反射的プロップである。
それに対して、絵画や小説などの表象作品は、基本的には非反射的プロップである。
ここで「基本的には」という制限をつけているのは、例えば小説『はてしない物語』のような作品は、自己表象している=反射的だからである。
(つまり「表象作品であるならば、非反射的プロップである」は成り立たない。しかし、「非反射的プロップであるならば、表象作品である」は成り立つように思われる。単に反例を思いついていないだけかもしれないが)


ここで問題を複雑にするのは、演劇作品や映画作品における、俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地である。
俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地は、それぞれ反射的プロップである。
ごっこ遊びの棒が反射的プロップなのは、その棒が「この棒は伝説の剣である」という棒についての虚構的真理を生成しているからである。これは、俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地にも同様に当てはまる)
しかし、演劇作品や映画作品そのものは、(普通は)反射的プロップではない。
普通、ある映画Aは「この映画AはBという何某かである」という虚構的真理は生成しないからである(メタフィクション的な作品の場合、この限りではない)。
さて、映画『ワイアット・アープ』がケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成するとは一体どういうことかというと、
映画『ワイアット・アープ』の部分をなす俳優ケヴィン・コスナーが、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、といえるのではないだろうか
かつ、映画『ワイアット・アープ』において俳優ケヴィン・コスナーを除く他の部分は、必ずしもケヴィン・コスナーについての虚構的真理は生成していない、ということなのではないだろうか。
つまり、映画『ワイアット・アープ』の”部分”が、コスナーの虚構的真理を生成している、という限定的な意味において、確かに『ワイアット・アープ』はコスナーの虚構的真理を生成しているとはいいうるが、しかし、コスナーが『ワイアット・アープ』という表象のオブジェクトである、とまでは言えないのかもしれない。
というか「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」という記述に対して整合するように解釈するとこうなるのではないか。
一方で、映画『マルコヴィッチの穴』は、俳優マルコヴィッチは当然として、俳優マルコヴィッチを除く他の部分も含めて、マルコヴィッチについての虚構的真理を生成しているのであり、その意味で、マルコヴィッチは『マルコヴィッチの穴』という表象のオブジェクトにもなっている。
(直観的にいうと、『マルコヴィッチの穴』はマルコヴィッチについての表象だが、『ワイアット・アープ』はコスナーについての表象ではない、となる。ただし、『ワイアット・アープ』という表象の一部分だけを取り上げると、それはコスナーについてのプロップになっている、という感じ(なお、表象はプロップの一種なので、表象もまたプロップである。表象以外にもプロップは色々ある。俳優はプロップではあるが、表象ではない)
そして、マルコヴィッチが『マルコヴィッチの穴』という表象のオブジェクトになっている時、俳優のマルコヴィッチは反射的表象である。
(上で、俳優は表象ではないと述べた矢先に、俳優マルコヴィッチは反射的表象である、と述べているのは矛盾もいいところである。この用語法はおかしいので本当はどうにかしたいが、とりあえず今はいい方法が思いつかないので放置する)
しかし、映画『マルコヴィッチの穴』は反射的表象ではない*2


演劇作品や映画作品といった表象は、それ自体は非反射的なプロップである。
ところが、その構成要素である俳優や小道具、ロケ地などの部分は反射的プロップである。
そして、個々の構成要素がそれのみで生成する虚構的真理と、構成要素同士が組み合わさった状態で生成する虚構的真理とがあり、それらの虚構的真理は、必ずしも同一世界上で成り立つとは限らない。
演劇作品や映画作品といった表象を、部分と全体とで区別するという発想は、おそらくウォルトンにはない。
また、個人的にも今色々考えている中で、ふと思いついたアイデアなので、本当にこれでうまくいくのかどうかは分からない。
しかし、俳優ケヴィン・コスナーがコスナーについての虚構的真理を生成することと、「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」という記述とを整合させるにあたっては、このような解釈が可能なのではないかと思う。
また、メイクビリーブ理論から帰結すると思われる「『ワイアット・アープ』はゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している」については、「『ワイアット・アープ』の部分がゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している」という修正が余儀なくされるが、この修正はさほど問題がないのではないか。

想像のオブジェクトとvividness
  • 十分性について(表象なし・想像のオブジェクトのみでvividではない想像の可能性)

ところで、田村と高田の対立点として、「想像のオブジェクト」にウォルトン的意味なるものはあるのか、ということがあった。
これについて田村は、『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープは、表象のオブジェクトにはなっているが、ウォルトン的意味で想像のオブジェクトにはなっていない。何故なら、アープは想像にvividnessを与えていないから、と述べている(なお、標準的な意味であれば、アープが想像のオブジェクトであることを認めている)。
対して高田は、アープが想像にvividnessを与えていると考えることもできるのではないか、と反論している。
ところで、我々は、ワイアット・アープについて、『ワイアット・アープ』という表象なしでも想像することができる。例えば、もし21世紀現在のロサンゼルスにワイアット・アープが蘇ったら、というような想像である。この時、アープはこの想像のオブジェクトになっている。
しかし、この想像がvividなものであるかは保証されない。全然vividではない想像にしかならない、ということは十分考えられる。
想像のオブジェクトではあるが、想像にvividnessを与えないものはあるのである。想像のオブジェクトであることは、想像にvividnessを与えることの十分条件ではない。
もっとも、田村はオブジェクトの標準的な意味での用法を認めるので、その場合のアープは、標準的な意味では想像のオブジェクトだけど、ウォルトン的な意味では想像のオブジェクトではないのだ、と答えることはできる。
田村の訳し分けにのっとれば、アープは想像の対象だが、想像のオブジェクトではない、ということになる。
しかし、これは英語だとどちらも、an object of imaginationである。何の注釈も定義もなしに、全く同じ単語に2つの意味があると読んでしまっていいのだろうか。
想像のオブジェクトという語を、標準的な意味で使っている時とウォルトン的な意味て使っている時がある、と考えるよりは、想像のオブジェクトは、想像にvividnessを与えることもあるし与えないこともある、と考えた方が分かりやすいだろう、と。

  • 必要性について(オブジェクトはないがvividな想像の可能性)

ところで、想像がvividになるために、想像のオブジェクトは必要条件になっているのか、という問題もあるが、これも答えは否だと思われる。
松永スライドにもどると、自然発生的な想像はvividな想像になりやすい、ということが紹介されている。
自然発生的な想像にとって、オブジェクトは必要ではない。
例えば、写実的な画風で描かれたドラゴンの絵画を見て、思わずそのドラゴンの鋭い爪を恐れるようなvividな想像をしたとしよう。
しかし、この時、この想像に想像のオブジェクトは存在していない。
注意しなければならないのは、そのドラゴンは想像のオブジェクトではないということである。
「そのドラゴンについて想像している」と言いたくなるが、これは正しくはない。
正しくは「「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことや「私はそのドラゴンに恐れを抱く」ことを想像している」となる。
想像のスコープ内では、そのドラゴンはオブジェクト(対象)になりうる。例えば、私の想像のうちでは、そのドラゴンは恐怖のオブジェクト(対象)になっている=そのドラゴンについて恐怖している。しかし、私は現実世界で、そのドラゴンについて恐怖しているわけではない(というか、現実世界に恐怖の対象は存在していない)。
想像するという行為は、現実世界で行っている行為なので、そのオブジェクトも現実世界に存在している。
あるいは、 「◯◯についての想像」とは「◯◯(A)を他の何か(B)に見立てる想像」のこと論法をここで適用してみよう。
繰り返すが、棒を使ったごっこ遊びをしているとき、棒を剣に見立てている=棒が剣であることを想像している=棒についてそれが剣であるように想像している。
一方、ドラゴンの絵画を見ながら「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことを想像している時、そのドラゴンを何かに見立てている=そのドラゴンが何かであることを想像している、わけではない。つまり、これはドラゴンについての想像ではないのである。
(棒のごっこ遊びで敷衍してみると、棒が剣であることを想像しているといえても、剣が棒であることを想像している、とはいえない。想像の内容の中にしか出てこないものは、想像のオブジェクトにはならない)
しかし、そうでありながら、「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことや「私はそのドラゴンに恐れを抱く」ことの想像は、vividな想像になることができる。
そのドラゴンについて描かれた絵画が、優秀な想像のプロンプターになっていて、思わず想像してしまう時、それはvividな想像だと言える。
ここに想像のオブジェクトは必要ではない。

2017年の議論に対する結論

想像のオブジェクトという概念は、ウォルトン理論にとって重要な位置を占めており、その重要性の理由の一つは、オブジェクトが想像にvividnessを与えることが多いから、というのは確かだと思う。
しかし、メイクビリーブゲームにおけるvividな想像にとって、想像のオブジェクトの存在は、十分条件でも必要条件でもない。
つまり、想像がvividになるかどうか、と、想像にオブジェクトがあるかどうかは、それぞれ独立している。
とはいえ、往々にして、想像のオブジェクトが想像のvividnessにかかわっていることは確かだし、また、想像にvividnessを与えるために想像のオブジェクトが利用されることもある(そうした事例を確かにウォルトンはいくつか挙げている)
というわけで、重要性と定義は分ける、という点で、2017年の話と同じ。

今回SNSにポストした内容への訂正

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5c26tc3k2r

うーん、これ、現実の東京はプロップじゃないって書いたけど、つまり、プロップとオブジェクトが一致していない例としてあげたかったんだけど、微妙かもしれない。
東京をロケ地として撮影している以上は、その限りにおいて、東京もプロップになっているのでは。少なくとも『シン・ゴジラ』の立川とかは。
一方、シャーロック・ホームズの小説を用いたメイクビリーブゲームにおいて、現実のロンドンがプロップになっているかといえば、おそらくなっていないだろう。

ケース・スタディー

かなり色々なケースを色々と考えないといけない。

棒は、反射的プロップである(棒は、棒自身についての虚構的真理を生成している)。
ゆえに棒は、想像のオブジェクトでもある。
このメイクビリーブゲームには、表象は関わっていない(作品世界はない)。
棒は、この想像にvividnessを与えている。

  • (2)切り株ゲームにおける、藪に隠れた切り株

切り株は、反射的プロップである(切り株は、切り株自身についての虚構的真理を生成している)。
ゆえに切り株は、想像のオブジェクトでもある。
このメイクビリーブゲームには、表象は関わっていない(作品世界はない)。
しかし、この切り株が藪に隠れた状態で、ゲームの参加者が全く知覚していない場合、この想像にvividnessを全く与えていないかもしれない。

ロンドンは、表象のオブジェクトである(ロンドンについての虚構的真理がある)。
ゆえにロンドンは、想像のオブジェクトでもある。
ロンドンは、プロップではない(ロンドンについての虚構的真理を生成しているのはロンドン自身ではない。「シャーロック・ホームズ」シリーズの小説が、ロンドンについての虚構的真理を生成している)。
ロンドンは、「シャーロック・ホームズ」シリーズの想像に、vividnessを与えている。

東京は、表象のオブジェクトである(東京についての虚構的真理がある)。
ゆえに東京は、想像のオブジェクトでもある。
東京は、反射的プロップにもなっている(東京についての虚構的真理を(撮影されている範囲内においては)東京も生成している)。
東京についての虚構的真理は、『シン・ゴジラ』の作品世界内でも成り立っている。『シン・ゴジラ』という表象が、東京についての虚構的真理を生成している。
だから、『シン・ゴジラ』の撮影に用いられた東京は反射的表象だともいえる。
なお、『シン・ゴジラ』自体は反射的表象ではない。
東京は、『シン・ゴジラ』の想像に、vividnessを与えている。

ニュージーランドは、想像のオブジェクトである。
また、ニュージーランドは、反射的プロップでもある。
しかし、ニュージーランドについての虚構的真理は、『ロード・オブ・ザ・リング』の作品世界内では成り立っていないし、『ロード・オブ・ザ・リング』という表象はニュージーランドについての虚構的真理は生成していない(『ロード・オブ・ザ・リング』の部分(であるニュージーランド)がニュージーランドについての虚構的真理を生成している)。
ゆえに、ニュージーランドは、表象のオブジェクトだとは言い難いかもしれない。
ニュージーランドは反射的表象ではない。
ニュージーランドは、『ロード・オブ・ザ・リング』の想像に、vividnessを与えている。

  • (6)映画『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープ

ワイアット・アープは、表象のオブジェクトである。
ゆえにアープは、想像のオブジェクトでもある。
アープは、反射的プロップではない(アープは、アープ自身についての虚構的真理を生成していない)。
アープは、『ワイアット・アープ』の想像に、vividnessを与えていない(ことの方がおそらく多い)。

コスナーは、想像のオブジェクトである。
また、コスナーは反射的プロップにもなっている(コスナーについての虚構的真理をコスナーは生成している)。
しかし、コスナーについての虚構的真理は、『ワイアット・アープ』の作品世界内では成り立っていないし、『ワイアット・アープ』という表象はコスナーについての虚構的真理は生成していない(『ワイアット・アープ』の部分(であるコスナー)がコスナーについての虚構的真理を生成している)。
ゆえに、コスナーは、表象のオブジェクトだとは言い難いかもしれない。
コスナーは反射的表象ではない。
コスナーは、『ワイアット・アープ』の想像に、vividnessを与えている。

マルコヴィッチは、表象のオブジェクトである(マルコヴィッチについての虚構的真理がある)。
ゆえにマルコヴィッチは、想像のオブジェクトでもある。
マルコヴィッチは、反射的プロップにもなっている(マルコヴィッチについての虚構的真理をマルコヴィッチも生成している)。
マルコヴィッチについての虚構的真理は、『マルコヴィッチの穴』の作品世界内でも成り立っている。『マルコヴィッチの穴』という表象が、マルコヴィッチについての虚構的真理を生成している。
だから、『マルコヴィッチの穴』の撮影に用いられたマルコヴィッチは反射的表象だともいえる。
なお、『マルコヴィッチの穴』は、『マルコヴィッチの穴』についての虚構的真理は生成していないので、反射的表象ではない。
マルコヴィッチは、『マルコヴィッチの穴』の想像に、vividnessを与えている。

指輪物語』を用いたメイクビリーブゲームにおいて、表象のオブジェクトも、想像のオブジェクトも存在しない。
ただし、何らかの要因が『指輪物語』の想像に、vividnessを与える可能性はある。

はてしない物語』は、『はてしない物語』自身についての虚構的真理を生成している。
ゆえに、『はてしない物語』は、表象のオブジェクトであり反射的表象である。
すなわち、『はてしない物語』は想像のオブジェクトでもあるし、また、反射的プロップでもある。
はてしない物語』は、『はてしない物語』の想像に、vividnessを与えている。

  • (11)表象ぬき想像のアープ

表象なしにアープについて想像する。アープは想像のオブジェクトだが、この想像はvividではない。

  • (12)あるドラゴンの絵についての想像

表象のオブジェクトも想像のオブジェクトはないが、vividnessは生じる

プロップ 反射的プロップ 反射的表象 想像のオブジェクト 表象のオブジェクト vividnessの要因
(1)棒 なし
(2)隠れた切り株 なし ×?
(3)「ホームズ」ロンドン × × ×
(4)『ゴジラ』東京
(5)『LOtR』ニュージーランド × ×
(6)『ワイアット・アープ』アープ × × × ×?
(7)『ワイアット・アープ』コスナー × ×
(8)『穴』マルコヴィッチ
(9)小説『指輪物語 × × なし なし
(10)小説『はてしない物語
(11)表象なしのアープ想像 なし なし なし なし ×?
(12)あるドラゴンの絵 × × なし なし

※オブジェクト以外の要因がvividnessを与えうる


想像のオブジェクトになっている場合、vividnessを与えていることが多い。
が、vividnessを与えないだろうと思われるケースもあって、それはいずれも、ゲームの参加者が知覚できないオブジェクトの場合である。
これは想像のオブジェクトが何故想像にvividnessを与えるのかといえば、それは参加者が見知ったものだから、という理由による。
アープは、歴史上実在した人物ではあるが、『ワイアット・アープ』の鑑賞者は本物のアープを見たことはないだろう。だから、アープはvividnessを与えない、ということ。
ただ、このあたりは、場合による気がする。

最後に

  • 反射的プロップは必ず想像にvividnesを与えるか

実はこの話をするにあたり、「反射的プロップ」という自分の造語をわざわざ持ち出したのは、表象のオブジェクト問題を解釈するため、という理由もあるが、あわよくば、反射的プロップがvividnessの十分条件になりはしないだろうか、という思惑があった。
Aが想像のオブジェクトであることだけでは、Aについての想像がvividになることの十分条件にはならないが、
Aが反射的プロップである(ならば、必然的にAは想像のオブジェクトでもある)ことが、Aについての想像がvividになることの十分条件になる、
といえると、個人的には自分の理論のうまみになる、と思ったのである。
しかし、Aが反射的プロップであっても、想像がvividにならない例がありそう(上述の、藪に隠れた切り株の例)なので、この思惑はかなわなかった。
一方で、今回考えた例は、上述の通り、オブジェクトが知覚できていない場合は想像がvividにならない、と知覚できるかどうかを結びつけたのだが、ここも正直、これが必要条件といえるのかどうか、あまり自信がない。

  • 歴史上の人物と想像のvividness

また、アープは想像のオブジェクトではあるが、想像にvividnessを与えない、という見解を、ここではとってみたが、歴史上の人物が想像にvividnessを与えないのかどうか、あまりよい直観がない。

  • vividな想像を考える上で

結局、何かが想像のオブジェクトなのかどうか、ということはわりとはっきり言えるが、
そもそも、ある想像がvividな想像になっているかどうかについては、その条件をはっきり言うことはできないのではないか。
個別に、これはvividな想像になっているか、なっているとしたら何故だろうかという時に、個別にその源泉を見ていくことはおそらく可能であり、そのときの指標として、松永スライドにある通り、自然発生的な想像であるか、想像のオブジェクトがあるか、de se的想像であるか、あたりを用いることはできる。
しかし、これらは、必要条件にも十分条件にもなっていない。
これがあれば必ず想像がvividになる、とか、想像がvividになっているならば必ずこれがある、とは言えないのだろう。
とはいえ、上述の指標は、vividな想像と深い関わりがあるのは確かなので、制作者がvividな想像をさせたいと考えた時に、利用することは可能だろう。
この点において、僕はフィクションの哲学に実用性がある、と思っている。

*1:厳密に言うと、クレヴィアーのいう世界とウォルトンのいう作品世界は別の概念ではあるが……

*2:確かそうでなかったと思うが、もし作中に映画『マルコヴィッチの穴』が登場しているならばその限りではない

小池隆太のマンガ・アニメに関わる物語論関係の論考を読んでのよしなしごと

『マンガ研究13講』『マンガ探求13講』や『アニメ研究入門』『アニメ研究入門(応用編)』という本があり、未読ではあるのだが、いつか読みたいと思っていて目次だけは確認している。
その際、気になった論考がいくつかあるのだが、いずれの本の中にも小池隆汰という研究者がいて気にかかっていた。
で、しばらく放置していたのだが、最近になって何となく検索してみたら、論文がいくつかリポジトリで読めることが分かったのでざざっと眺めてみた。

この人の論文いくつか読んでた 自分のやりたかったことってフィクションの哲学よりナラトロジーだったのでは、という思いを新たにしている(以前も別の機会にそう思ったことがある) 自分の人生の中で、ナラトロジーに度々接近してるはずなのだが、なんかふわっとした接触のまま、ちゃんと向き合えてない気がする。 (多分、なんか具体的に作品分析しないと身につかないんだろうな……)

https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks55vxfwfs2n

アニメ関係

宮崎駿『ルパン三世 カリオストロの城』の物語 構造とキャラクターの移動/運動の関係について
宮崎駿『魔女の宅急便』の物語構造における「飛行」の意味について
宮崎アニメの分析は物語の構造論
プロットの要素を分析した上で、宮崎アニメにおける空間の上下の秩序と登場人物の上下移動の関係を論じている。
思い出のマーニー』論もあったけど、自分が未視聴なので未読

マンガ関係

マンガにおける「語り」の生成について ―つげ義春『ねじ式』における物語論的フレーム
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』におけるコマ間内語
「声」 イメージがマンガの物語構造に与える影響について
コマ間内語の「位置」 -羽海野チカ『ハチミツとクローバー』第61話の分析

マンガの方は、マンガがどのような「距離の制御」を行っているかということを、視覚的フレームから物語論的フレームへの「変換」として論じる
「変換」を物語の生成と呼び、「視点」ではなく「物語の生成点」と呼ぶ。
視覚的フレーム上ではおかしいことを、物語論的フレームで解釈する。
結構難しいのだが、面白い。


どうしても自分の論にも引きつけたくなるのだが……
「分離された虚構世界」ってナラトロジーっぽいのではないか、と。
ウォルトンのフィクション論には生成原理というのが出てくるが、生成原理にもいくつかあって、物語世界が分離しちゃうことがあるよみたいな話なんだけど
生成原理の内実をゴリゴリ探求してきたのは、むしろナラトロジーなのでは、と。
作品から物語世界がどう立ち上がってくるか
あるいは、物語世界は作品(物語言説)を通してしかアクセスできないが、その不透明さは一体どんな仕組みによるものなのか
みたいなことで通じるところがあるのでは。
こっちの方がより詳細な分析ができる気がする。
やはり、自分がやるべきはフィクション論じゃなくて物語論だったのか……


ただ、なんでそんな視覚的フレームから物語論的フレームへの「変換」が可能なのか、というのは、メイクビリーブの出番のような気もする。
マンガ表現論があくまでも目に見えるところにとどまることに拘るのに対して、物語論的フレームという目に見えないものを導入することで、マンガにおける多層性みたいなものをよりうまく捉えているような気がする。
現実にマンガの紙面を見る、というのに対して、「物語の生成点」から物語世界を見る、という変換が起きていて、「物語の生成点」から見られた物語世界というのは紙面上に直接描かれてはいない(=目に見えない)んだけれど、メイクビリーブすることで、想像的に見えているのではってことで、フィクションの哲学により基礎付けができるのではないか、というのが、脊髄反射的な思いつきなんだけど。
まあ、思いつきなので、これで本当にうまくいくのかは検討してない。
あと、仮にうまくいくとして、これってナラトロジーにとって嬉しいものなのかどうか、よく分からない。

『Newton2024年6月号』


今月のNewtonは気になる記事が多かった。久しぶりにがっつり読んだ気がする(とはいえ全部は読んでいない)。

地球大解剖 監修 廣瀬 敬 執筆 尾崎太一

監修の廣瀬敬については『地球・惑星・生命』 - logical cypher scape2にも書いていた

  • プレート運動

プレートが何故動くのかについては、マントル対流仮説とテーブルクロス仮説の2つがある。テーブルクロス仮説というのは、プレートが落ち込んでそれに引きずられて動いていく、という
実はどちらか一方が正しい、というわけではないらしい。太平洋についてはテーブルクロス仮説が、大西洋についてはマントル対流仮説が当てはまるらしい。
いずれの仮説でも、海が必要

マントルの組成について。高温高圧を実験で作り出して調べている。
下部マントルの鉱物は長いこと不明だったが、2004年に廣瀬が発見した(ポストペロブスカイト)

  • 磁場の逆転 

磁場が何故逆転するのかも分かっていない。
これを調べるためには、コアの対流をスパコンでシミュレーションする必要があるが、現在のスパコンの性能では不足している、とか。

  • コアの不純物

地球のコアは鉄だが、純粋な鉄ではなく不純物が混ざっていることが分かっている。
しかし、その不純物の正体は分かっていない。
水素・炭素・酸素・ケイ素・硫黄が主な候補であるが、廣瀬は、後述の理由により、水素が有力候補だと考えている。
また、最近ではヘリウムも候補としてあがっている、と(ヘリウムは不活性ガスとして知られているが、近年、高圧環境下で反応することが分かってきた、というのを、記事末尾のインタビューで、廣瀬が最近注目している研究として挙げていた)

  • コアのその他の謎

(1)温度
(2)異方性
結晶の方向が西半球では揃っているが、東半球では揃っていない
(3)スーパーローテーション
地球の自転より少し早く回っている

  • 巨大低速度領域とティア

マントル内部に巨大低速度領域(LLSVP)という構造があるが、これは、地球形成期にあったジャイアンインパクトの名残だと考えられている。
ジャイアンインパクトの際に衝突した小惑星は「ティア」と呼ばれている。

  • 地球の水はどこから来て、どこへ行ったか

(1)隕石落下、(2)グランドタック、(3)小石集積という3つの仮説がある。
小石集積は、上記2つと少し異なり、惑星形成は微惑星からではなく、小石からなったという仮説で、スノーラインより遠くからも集積してくる、と。
(そういえば、小石集積モデルは井田茂『系外惑星と太陽系』 - logical cypher scape2で少し読んでた。)
しかし、3つの仮説いずれの説をとった場合でも、現在の地球の海洋にある水よりも多い量の水がつくられることになる。
地球形成期に水は、コアへ入り込んだと、廣瀬は考えている。
これにより、コアの不純物の4割までは説明できるという(しかし、6割はなお不明のまま残る)。
また、コアにある水素は海水に含まれる水素の30〜60倍

  • ブリッジマナイト・ブロック

ホットスポットが長期にわたって固定されている原因かも

  • KREEP(クリープ)岩

カリウムレアアース、リンの頭文字をとってKREEP
生命の誕生は、冥王代にKREEP岩で起きたのではないか、という仮説。レアアースが触媒として働き、リンがある、というのが化学合成に適している、という話
しかし、KREEP岩は、現在の地球では見つかっていない。冥王代にはあったとされるが、風化等でなくなってしまった。「期間限定」の岩。なお、月には残されている。

科学と倫理の交差点 監修 児玉 聡 執筆 福田伊佐央

倫理的な問題が生じそうな科学技術のトピックと、倫理学の概念についての解説記事

  • iPS細胞からの同性カップルでの生殖の話と、功利主義/義務論について
  • 障害者アスリートにおけるエンハンスメント・ドーピングの線引き問題と、公平性/無知のヴェールについて

(スポーツ倫理学の話でもあり、スポーツで何故ドーピングが禁止されているのか、安全性・公平性・自律性の観点があり、しかしいずれの観点でも反論があるというのが紹介されていた)

  • 予防の話

ワクチン接種は義務化(強制)できるかという話で、人の自由を制限する場合に用いられる考え方として、「他者危害原則」と「パターナリズム」があることが述べられる。
また、社会全体での予防が進むと個人の予防のインセンティブが下がる「予防のパラドクス」や、統計的生命の価値が特定個人の健康被害より低く見積もられる心理的バイアスが紹介される。
後半、ワクチンだけでなく、予防医療や犯罪予知などについても触れられている。

  • AIについて

故人の「復活」、AI手術や自動運転の際の責任の所在、AIが学習してしまうバイアス、LAWSといった、AIの進展によって生じそうな倫理的な問題が紹介されている。

  • 科学研究や開発

原子力とかAIとか科学研究や開発が、重大なリスクを及ぼすものを生み出すかもしれないことについて。
滑り坂論法への注意。滑り坂論法はだめといっているのではなく、正しいケースと正しくないケースがありうると書いてあった。
ブダペスト宣言
「ガードレール」としての倫理
ELSI
レイチェルズ「良心的な道徳的行為者」

熱電変換の物理学 監修 山本貴博 執筆 中野太

向井千秋監修・東京理科大学スペース・コロニー研究センター編著『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』 - logical cypher scape2で熱電発電について読んだばかりだったので、偶然にもすごくタイムリーだった。
まず最初に物理学における「仕事」と「エネルギー」の定義の確認から始まり、永久機関について解説されている、素人向けの丁寧な記事だった。
エネルギーを投入していないのにエネルギーを与えているのが「第一種永久機関」(エネルギー保存則に違反する)
投入したエネルギーを100%仕事に用いるのが「第二種永久機関」(エネルギー保存則には違反しない)
カルノーならびにケルビン卿ことトムソンにより、第二種永久機関は実際には不可能(熱力学第二法則)だと分かった。熱機関は、高温の熱源と低温の熱源からなり、この温度差で効率が決まる。効率100%にするには、高温の熱源の温度が無限か、低温の熱源が絶対零度である必要がある。
というわけで、必ず廃熱が生じることになる。
ところが、この廃熱を利用しての発電ができる。
1821年ゼーベック効果1834年ペルティエ効果、1851年 トムソン効果というのがそれぞれ発見されていて、熱と電気が可逆変換できることが分かっている。
ゼーベック効果は、温度差のある異なる金属をつなぐと電流が流れる。
ペルティエ効果は、逆に電流を流すと温度差が生じるというもの。USB給電のクーラーはこれを利用している、と書いてあって「ああ、あれ!」となった。なんで冷たくなるのか謎だったので。
ただ、発生する電力が弱いので、これまでほとんど実用に供されていなかった。
例外が宇宙探査機で、ボイジャーや火星ローバーに搭載されたRTGについて簡単に触れられている。
しかし近年、IoTデバイスエナジーハーベスティングという考えにより、熱電変換が注目されている、という。IoTにより、色々なところにデバイスを設置する場合、その環境から熱エネルギーを収穫(ハーベスト)してこようという考え。
本記事の監修者である山本は、カーボンナノチューブによる熱電変換や、熱電変換の量子力学について研究している。
そして、実用例としてIoT制震ダンパーを開発している。
地震の際、その建物から避難すべきかとどまるべきかを制震ダンパーが判断する。しかし、地震時は停電しているので、電力を熱電変換で供給する。リアルタイムハザードマップなどにも使える、と。

世界一美しい化石図鑑

宝石化したアンモナイト化石であるアンモライトや、オパール化したベレムナイト化石など
(アンモライトってアルバータ州でしか発見されていないのか)
あるいは、そういった宝石化した化石ではないが、三葉虫化石やディッキンソニアの化石などの写真が多数掲載されている。
(ディッキンソニアって印象化石だけど、コレステロールが残っている分子化石でもあったのか)
(化石は、日本語だと「石」が含まれているけれど、原語のfossilには「石」の意味は含まれていない、というのは知っていたけれど、冷凍マンモスも化石である、と書かれていて、「ああそうか、そうなるのか」と改めて気付かされた)
樹木の化石がオパール化する珪化木は、この世のものではないような独特の見た目をしているなあと思った(Googleで画像検索してみたが似たものはパッと見当たらなかった)。

極北の自然は今

アラスカが、温暖化・気候変動によってどのような影響を受けているか、写真家の松本紀生によるレポート
トピックは多岐にわたるが、印象に残ったものをあげると
永久凍土が解けることで地盤がゆるんでいる話。村を放棄せざるを得なかったり、放棄したくても移住費用が出せなかったりといったことが述べられており、電柱が傾いてたりする写真が掲載されている。
2015年に熱波があり、ザトウクジラが個体数を減らしている話
山火事の大規模化が進んでおり、地衣類を食べるカリブーにも影響が及んでいる話
アラスカの写真家というと星野道夫が思い浮かぶが、逆に言うと、自分は星野道夫以降、あまりアラスカについてだったり自然写真家だったりをフォローしていなかった。
なので、松本紀生という人も初めて見た名前なのだが、ググってみたところ、星野道夫の影響を受けてアラスカでの写真家を始めた人らしい。

猛毒のサイエンス

タイトル通り、毒についての記事で、毒に関する話が諸々載っている。
その中で特に、AIは猛毒をつくれるのか、というトピックが気になった。
実際に、AIに毒性を有する化学構造を予測させた研究があるらしい
あっという間に大量の構造が予測され、かなり猛毒であることが予測されるものもあった、と。一方、本記事の監修者は、AIはあくまでも既存の物質から予測するだけだが、微生物は全く新奇な構造を生み出すことができるので、微生物の方がヤバイ、というようなコメントだった。
それ以外だと、性質が反対の毒が拮抗する話が興味深かった。
1986年に夫が妻を保険金目当てで毒殺した事件があり、トリカブト毒によるアコニチンが用いられていた。アコニチンは服用するとすぐに死亡するが、夫にはアリバイがあった。しかし、実は夫は、アコニチンとともにフグ毒のテトロドトキシンを同時に盛っていた。アコニチンとテトロドトキシンは性質が反対なので、しばらくの間、作用が拮抗して、すぐには死なないらしい。
それから、やはり作用が反対の毒を用いた話として、地下鉄サリン事件の際、応急処置として、本来は毒であるアトロピンを使用したという話も。

Focus

3Dバイオプリンターで脳を作ることに成功

3Dバイオプリンターで臓器を作るというのがあるらしい。これまで神経細胞の培養がうまくいかなかったのが、ちゃんと神経細胞がネットワーク構築するようにできるようになった、と。

火星から地球の気候への影響

気候変動により堆積が停止して不連続な地層が形成される周期があり、これが、火星の重力によって地球の離心率が変動する周期と一致していた、と

向井千秋監修・東京理科大学スペース・コロニー研究センター編著『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』

スペース・コロニーを実現するために、現在、研究開発中の技術について紹介している本。
編著者にもあがっているが、東京理科大にスペース・コロニー研究センターなる組織があるようで、そのセンターでの研究成果についての本でもある。
元宇宙飛行士の向井さんの名前もクレジットされているが、東京理科大の副学長(2016~)兼スペース・コロニー研究センター長(2017~)である、とのこと。
スペース・コロニーの技術というと、何というか夢物語みたいな話にも聞こえるが、本書では度々「デュアル開発」という言葉が繰り返されており、宇宙で使える技術であり、なおかつ、地上でも使える技術として開発が進められている。


宇宙開発関係は、web記事とか雑誌とかではよく読むけれど、あまり書籍では読んでいなかった。また、特にこのような宇宙滞在のための技術となると、webや雑誌でもあまり注目していなかった。
しかし、たまにはいつもとは違う方向性の本も読もうかという気持ちと、最近、『フォー・オール・マンカイオンド』のシーズン1を見たので、読んでみることにした。


第3章以降が面白かった。

まえがき
第1章 人が宇宙で暮らす時代が始まっている!
第2章 長期宇宙滞在で遭遇する困難な課題
第3章 宇宙で暮らすためには
第4章 宇宙農業への挑戦ーースペースアグリ技術
第5章 スペース・コロニーの電力源ーー創・蓄エネルギー技術
第6章 水・空気再生技術
おわりにーー 人類の未来に向けて
執筆者一覧
参考文献
さくいん


第1章 人が宇宙で暮らす時代が始まっている!

宇宙開発史、宇宙生活でのリスク等、スペース・コロニーのための技術(本書の構成)、今後予定されている宇宙計画について

1-1 宇宙に飛び出した人類
1-2 ヒトが宇宙に行ってわかったこと
1-3 これから始まる、新たな宇宙への挑戦
1-4 スペース・コロニーを造るには
1-5 宇宙開発時代が始まった! 近未来の宇宙探査計画

第2章 長期宇宙滞在で遭遇する困難な課題

骨量や筋肉量が減る分子的メカニズムが解説されてた

2-1 重力場に関する課題
2-2 無重力下で血液はどう巡るのか
2-3 宇宙での生活の質はーー孤立と幽閉、不適合と閉鎖環境
2-4 宇宙放射線
2-5 地球からの距離

第3章 宇宙で暮らすためには

ISSの船外ロボットアーム、船内ロボットのロボノート、イントボール
イントボールって知らなかった
宇宙服内の気圧は1気圧じゃなくて0.4気圧。1気圧にすると膨らんでしまうから。船外活動前には徐々に減圧する必要性。
宇宙ロボットの遠隔操作とレイテンシー対策
健康管理などを行うためのウェアラブル・デバイスとその電源についての話で、汗に含まれる乳酸で発電するバイオ燃料電池が紹介されている。
汗に含まれる乳酸で発電とか、かなり驚きだが、一定以上の乳酸によって発電し、データを送信するという仕組みにして、発電かつ乳酸値のモニタリングが同時にできるという「自動駆動型ウェアラブル・デバイス」ができる。
介護現場で尿糖を検知するオムツなどの開発も。

3-1 居住環境をどう造るのか
3-2 宇宙で働くロボット
3-3 ウェアラブル・デバイス
3-4 バイオ燃料電池の仕組み
3-5 有人宇宙飛行中のトレーニング向け・自動駆動型ウェアラブル・デバイス

第4章 宇宙農業への挑戦ーースペースアグリ技術

宇宙農業について、ロシアは歴史が古いなあ。
60年代から計画が始まって、サリュート、ミール、ISSロシアモジュールで実験している
アメリカが研究を始めたのは80年代
2015年に、ISSで宇宙で栽培された野菜が初めて食された(油井さんがいたらしい)
ヨーロッパは、南極で実験している
なんか、ビニール袋にいれてキャベツを栽培してる(小規模ロットから栽培ができる。万一、汚染・感染があっても被害を最小限に防げる)

4-1 宇宙で食料を得るには
4-2 宇宙農場を目指した各国の開発動向
4-2-1 ロシア 4-2-2 米国 4-2-3 欧州 4-2-4 中国 4-2-5 日本
4-3 宇宙レタスが食べられる日
4-4 「水中プラズマ」技術で防藻・防カビへ
4-5 月面農場はこうなる!?

第5章 スペース・コロニーの電力源ーー創・蓄エネルギー技術

太陽電池が開発されたのは1954年
太陽電池が初めて人工衛星に搭載されたのは1958年(ヴァンガード1号)
スペース・コロニー用には、軽量・フレキシブルで超高効率、耐久性が求められる(これらすべての条件を満たすものはまだない。ISSのは効率が低い、はやぶさは超高効率だがコストが高い


シリコンではなく、銅(Cu)、インジウム(In)、ガリウム(Ga)、セレン(Se)からなる半導体をも知いたCIGS太陽電池が注目


酸化ニッケルによる透明太陽電池。紫外線のみを吸収


月面など長時間太陽光が当たらない場所もある。
カッシーニなどに用いられている放射性同位体熱電気発電機(RTG)は、熱電変換という温度差による発電*1
異なる金属に温度差があると電流が流れるゼーベック効果を利用している
月面コロニーで、室内と外気との温度差で発電できる可能性


最後にフライホイール
フライホイールリチウムイオン電池とを9つの観点で比較した表が乗っているのだけど、フライホイールはわずか3つでしか勝っておらず、ダメでは、という感じなのだが、フライホイールは、繰り返し使用可能で高出力、という利点がある。
また、フライホイールの欠点のいくつは、宇宙空間ではあまり問題にならないという(例えば、真空にする必要があるが、宇宙空間なら特に問題にならないなど)。また、宇宙空間で何かを使うとき、温度条件が問題になりがちだが、フライホイールは温度条件の制限がない。

5-1 宇宙用太陽電池
5-2 安い、強い、曲がる、高効率
5-3 IoTデバイス向け透明太陽電池の開発
5-4 熱電変換素子による発電
5-5 フライホイールによる蓄電

第6章 水・空気再生技術

光触媒ってまあ時々名前聞くけど、そういえばどういうものか全然知らなかった
半導体のように、エネルギー準位のギャップで電子が移動する「光触媒反応」
光エネルギーで水が水素と酸素に分解される。移動した電子がラジカルを生成し、有機物を分解する
除菌や抗菌ができる。宇宙での環境維持としては、微量有毒ガスの分解として使う研究がされている。
光触媒は表面反応。表面にくっついてないといけない。
ミクロ粒子にして懸濁液を作ったり、表面積を増した吸着剤を作ったり。

6-1 環境制御・生命維持システム(ECLSS)
6-2 ISSの空気系サブシステム
6-3 宇宙服のECLSS
6-4 光触媒

*1:RTG内部に原子炉があるという記述があったのだけど、原子炉ではなく崩壊熱では?

ガメラ2 レギオン襲来

Youtubeで2週間限定無料配信なるものをやっていたので見てみた。
昔、小学生だった頃に劇場で見たことがあるが、それ以来の鑑賞のような気がする。パンフレットを持っていて、度々見返していたから、大雑把な内容は認識していたが、映画そのものの記憶はほぼなくなっていて、正直、初見といってもいいような状態ではあった。


本作は結構特撮ファンからの評価の高い作品、というように認識しているが、実際見てみたら「これ、確かにすげーな」となった。
自衛隊の全面協力を取り付けたことでも有名だが、大人になった目で見てみると、怪獣映画というより自衛隊映画だな、と言ってしまいたくなるくらい、自衛隊が出てくる。というか、各種車両の走行シーンがやたらと多い。まあ、撮りたいし見たいよな、という気持ちは分かる。
もちろん、怪獣特撮パートもかなりよい。
特に印象に残ったのは、仙台・霞目飛行場で、ガメラとレギオンが取っ組み合いしている横で輸送ヘリコプターが離陸するシーン。あれ、合成とかじゃなくて、怪獣の後ろでラジコンヘリ飛ばしている、という認識でいいんだよね? すごい。
群体レギオンって、目があんなにぎょろっとしていたのか


札幌出身者としては、やはり札幌シーンは見ていて楽しい
というか、ほぼほぼ札幌映画では? 青少年科学館、テレビ塔大通公園、すすきの、狸小路……
すすきのでは、有名なニッカウヰスキーのビルの倒壊シーンがあるが、しかし、やはりロビンソンに草体できたのがテンションあがる。「ロビンソンだー!」ってなるw
それから地下鉄も当然ながら古い車体が出てきて、昔の地下鉄だーってなるし、その上、運転席視点でトンネル見れるのも楽しい。
主人公である水野美紀が青少年科学館の学芸員で、青少年科学館が度々出てくるのも面白い。
最後に雪まつりまで出てくる
仙台も出てくるが、自分が仙台全く知らないせいかもしれないが、仙台の施設の登場少なかった気がする。個別のビル等が壊されるのではなく、一気に全消滅だったので、「あ、あのビルがガメラに壊されてる!」みたいなのがなかった気がする。
その後、もう一つくらいどこかの都市にいくのかなと思ったら、最終決戦は、足利市近郊から始まって、群馬・埼玉県境くらいまでであった。あと、最後に出てくる名崎送信所というところ、今調べてみたら古河だった。
そんなわけで、こう地元の名所が色々出てくるという意味で、圧倒的に札幌映画だった。


主人公を水野美紀が演じているのだけど、何というかこう、スカートが短い
机の上に座って脚を組んでいたり、といった脚を見せるシーンがいくつかあるが、本人はそういうことに頓着していない、というようなキャラづけだった。まあ、登場する男性登場人物たちも気にしてないけど。
ところで、平成ガメラシリーズに一貫して登場するヒロインとして藤谷文子がいる。自分は平成ガメラシリーズは全て劇場で見ていてパンフレットをもっているので、それにより、藤谷文子が出演していたことについてはよく覚えているのだが、先ほど書いた通り、映画そのものの記憶はかなり薄れていたため、動いて喋るとこんな感じだったのか、という感想。


そういえば、90年代の映画って、自分も既に生まれていてリアルタイムで見ていたわけだけど、それゆえに、改めて見た時にその古さに結構驚くことが多い。
例えば、キャプションとかになんかこう「古い映画だなー」と思わせるものがあった。オープニングで出てくるスタッフやキャストのキャプションが手書き(風?)だったり。


スタッフロールを見ていて驚いたこと
出演者に鈴井貴之安田顕明石英一郎がいる!
ガメラ2って1996年の映画だぞ? 
完全にチョイ役で出演していたらしい。
ググってみると、ミスによりクレジットはされていないが、大泉洋も出演していたらしい。
まあ自分は「水曜どうでしょう」ミリ知ら勢なので、そこまで感動はしないけど、驚きは驚き。
あと、たぶんエキストラ関係だと思うのだけど、ネルケプランニングもクレジットされていた。


金子修介監督インタビュー
自衛隊映画と呼ばれるのは心外らしい。すみません。
あくまでも憲法9条のもとでの自衛隊を描いている、とのことで、実際その点、専守防衛に基づく出動であることを官房長官が述べているシーンがあったりする。また、出動前に、怖くなったら逃げてもいい、と部下に声をかけるシーンもあることなどは、見ている時にも気付いてはいた。
また、水野の「ご無事で」のシーンも含め、90年代だから撮れた映画であって、今だったら違うものになっただろう、とも(ソ連崩壊後に撮ったから、北からの侵略がソ連の暗喩にならずにできたとか。当時、雪の中の自衛隊を見ながら、二・二六だなと冗談を言ったりしたが90年代なのでそれで済んだ。今は無理、とか)
自衛隊を撮影する際に気にかけたこととして、架空の兵器を出さないこと、というのがあって、どういうことだ? と思ったら、ゴジラは、架空のミサイルを自衛隊車両に搭載したことで、以後、協力NGになったことがあったらしい。
水野美紀のミニスカートについても言及があった。
特撮について
特撮でない普通のアクションでも、引きと寄りでダイナミズムを出すが、特撮の場合、怪獣全体を映す大ロング、怪獣への寄り、さらに人間への寄りと3段階できる、と。
ガメラ2の場合、霞目飛行場のシーンや、ジープの車窓からガメラが見えるシーンなど、人間と怪獣が交互に映るシーンが多い。

ブルース・スターリング『スキズマトリックス』(小川隆・訳)

ブルース・スターリング『蝉の女王』(小川隆・訳) - logical cypher scape2に引き続き、〈機械主義者/工作者〉シリーズ
同シリーズ、唯一の長編
『蝉の女王』はそこそこ面白かったが、スターリングの長編というとギブスンとの共作だがウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』(黒丸尚・訳) - logical cypher scape2しか読んだことがなくて、これがいまいちだったので、こちらも実はそこまで期待せずに読んでいたところはなきにしもあらずだったのだけど、読んでみたら、これ、かなり面白かった
結構長い話で、ちょっとよくわからない場所もあるし、読みはじめて早々に歌舞伎とか始まったときはどうしようかと思ったけど、後半になっていく程面白かった気がする。
基本的には、主人公が、太陽系の様々なコミュニティを経めぐっていく話なのだけど、最後、急激に宇宙SF度合が高まる。

世界観設定

人類が宇宙に進出し月軌道などにスペースコロニー国家が繫栄する一方、地球は資源が枯渇し、宇宙との繋がりを断ち切られる。月軌道国家群は〈連鎖国家〉を名乗る。
が、連鎖国家の繁栄も一時のもの、小惑星帯では〈機械主義者〉たちが、土星の環では〈工作者〉たちが勢力を広め始め、連鎖国家は辺境の地となる。
機械主義者や工作者たちは、さらに内部で分派はあるようだが、基本的には前者はカルテル、後者はリング議会というのが中央にあるっぽい。
本作のタイトルである「スキズマトリックス」は、スキゾとも同語源の「分離(スキズム)」と「マトリックス(基盤)」の造語で、この太陽系に広がった人類全体のことをさす。人類というには互いに離れてしまったが、全く別種族となってしまったわけではなく相互に関係がある、という状態をなんとなく指しているらしい。
工作者と機械主義者という対立軸はまずはあるが、種族の違いみたいなもので、この違いとは別に、ほかにもいくつか対立軸がある。正直、読んでいてもあまりはっきり説明されていないのでよくわからないのだが、デタント支持者かそうでないか、計画者か非計画者かとか、あと〈大変革論者〉とか〈超英才〉とかがいる。
この物語の途中で、異星人である〈交易者〉が人類と接触するが、それにより機械主義者と工作者の間に平和・デタントが訪れる。デタント支持かどうかは、機械主義者か工作者かとは独立した軸だったはず。
計画者というのが何を指しているのかはよくわからなかった。主人公のリンジーは計画者。
大変革論者もよくわからないのだけど、これは後のポストヒューマニズムに繋がる考えだったはず。
なお、『蝉の女王』の巻末に年表があったので、一部抜粋してみる。

2045 スパイダー・ローズ生まれる
2050~2450 連鎖国家の繁栄期
2186 アベラード・リンジー生まれる
2217 〈投資者〉が太陽系到着
2218~2240 〈投資者の平和〉によるデタント
2248~2250 「巣」
2254~2276 〈大変革〉運動広がる
2283 「スパイダー・ローズ」
2284 ツァリーナ・クラスター設立
2354 「蝉の女王」
2386 スキズマトリックス終わる
2554 「火星の神の情景」

『スキズマトリックス』は2215年から2386年までの物語

物語

アベラード・リンジーという主人公が、かつての友人であるフィリップ・コンスタンティンから命を狙われ、亡命者となってあちこち流れつつ、しかし、一財産築き、新しい小国家も作ったりする。

プロローグ
第一部 幻日ゾーン
第二部 アナーキーと共同社会
第三部 系統分岐となって進む

目次の上では三部構成だが、その中でさらにいくつかの節に分かれている。

プロローグ

晴れの海環月企業共和国でのヴェラ・ケランドの死とリンジーの追放
共和国は連鎖国家の一つ。
鎖国家は、〈ラディカル・オールド〉と〈維持主義者〉の対立がある。前者は権力者・年老いた貴族たちで、機械主義者と近い立場で、身体改造して高齢化していくのに対して、一方、後者は若者たち・庶民たちで、自然な生命の在り方を「維持」しようみたいな立場。
リンジーコンスタンティンは、ともに、工作者のリング議会に派遣されて、そこで外交官としての訓練を受ける。その後、帰国して、維持主義者たちの代表みたいな立場になる。
この2人と親しくなったのが、ヴェラという女性で、3人はいざとなった時は、自殺して自分たちの主張を世に示そうと誓いあっていた。
で、ヴェラは実際に死ぬ。そして、コンスタンティンはリンジーのことも暗殺しようとする。

静かの海環月人民財閥

リンジーは、同じく連鎖国家の財閥へと追放され、幻日(サンドッグ)となる。
幻日というのは、この世界では、亡命者などを指す言葉で、意訳なら素浪人とか浮浪者とかそういう感じではないかと思う。なお、幻日する、という動詞形もある。
この財閥というの、人権=死ぬ権利のみ、というすごい国家なのだが、のちに出てくるツァリーナ・クラスターも、超監視国家だったりするし、スペース・コロニー国家は多かれ少なかれ抑圧的な政治体制にならざるをえないのかもしれない。
で、リンジーはここで何をするかというと、《歌舞伎イントラソラー》という劇団(?)をでっちあげての詐欺を行おうとする。どういう詐欺なのかいまいちよくわからないが
心中天網島』とか出てきたりする。
財閥の貨幣単位は、娼婦とセックスできる時間で、なので〈芸者銀行〉というのが権力をもあった金融機関兼娼館として存在している。で、この芸者銀行をうまく利用してやろう、みたいな話なのだが、リンジーは芸者銀行のキツネという女性と出会う。
共和国でクーデターを起こして権力者となったコンスタンティンからの刺客がくるが、これを逆に利用して、自分は死んだように思わせて、リンジーは財閥から去る

レッド・コンセンサス号と小惑星エサイルス7

リンジーは財閥で協力関係を結んだフォルツナ鉱夫民主国のレッド・コンセンサス号に乗って脱出する。
フォルツナ鉱夫民主国と国を名乗ってはいるが、実態としては、その国土はレッド・コンセンサス号のみの、事実上の宇宙海賊みたいな集団なのだが、みんな、大統領とか裁判官とか上院議員とかを名乗っている。
で、小惑星エサイルス7というのを見つけて乗り込んでいく。
ここには、ノラ・マヴリデスを筆頭にして、マヴリデス家の遺伝子系列の子どもたちが住んでいる(工作者の家系で、この小惑星で生まれ育ったっぽい。なお、この時代、子どもは母親から生まれてくるわけではなくて、遺伝子技術によって作られる、という感じらしいが、とはいえ、夫婦とか親子とかいう関係性自体は残っている)
エサイルス7を、フォルツナが事実上占領しようとして、リンジーがその両者を取り持つ、みたいな話だったはず。
ノラもまた、リング議会の外交官教練を受けたことがわかる。リンジーとノラはのちに夫婦になる。
結局、エサイルス7とフォルツナ鉱夫民主国の共棲生活みたいなのは崩壊していく。
エサイルス7のパウロという少年らが、パウロの頭像を作って宇宙に射出するのだが、これがめぐりめぐって〈投資者〉に見つかる
リンジーが〈投資者〉と接触して、彼らと親しくなることに成功する

ゴールドライヒ・トレメイン議会国家

ここから第二部
リンジー・マヴリデスは〈投資者〉社会学者として、ゴールドライヒ・トレイメンにおける名士の一人となっている。
教え子の一人として、「巣」の主人公であるサイモン・アフリールが出ている。
また、財閥でリンジーと行動を共にした脚本家のリューミンの弟子であるウェルズが登場する。
リンジーとノラの「娘」であるクレオの結婚式が行われる(もともとクレオはエサイルス7にいた1人。ノラ以外はみんな死んでいて、クローン(?)を作ったっぽい)。
話としては、ここに共和国の元首となったコンスタンティンが訪れ、リンジーとノラのつかの間の平和が脅かされるところから第二部は始まる。
死んでいたと思っていたリンジーの存在におびえるコンスタンティンが、リンジーの周囲の人物を消し始める。
リンジーとノラの間で考え方の相違が生まれる。
コンスタンティンと戦おうとするノラに対して、リンジーは、とある投資者の船に乗り込んで逃亡する。
リンジーは、デンボウスカ・カルテルという、ミカエル・カルナッソスの〈ハーレム警察〉と〈ゼン・セロトニン〉なる宗教が幅を聞かせる機械主義者の小惑星へと亡命してくる。
リューミンやウェルズ、キツネに、最初の妻であるアレクサンドリーナと再会する。
コンスタンティンは、スキマー連合議会国家にいる。
リンジーは、ツァリーナ・クラスター人民企業共和国を設立する。
リンジーが、ゴールドライヒ・トレイメンから逃亡する際に乗り込んだ投資者の船だが、実はこの投資者は、ある異常によって投資者コミュニティから追放された個体を乗せていた。リンジーはこの投資者を女王として、ツァリーナ・クラスターを作り上げる。
そして、ウェルズをウェルスプリングという名にして、ツァリーナ・クラスターの中の重要人物へと仕立て上げていく。
一方で、リンジーコンスタンティンはついに再会し、決闘を行うことになる。

ネオテニック文化共和国

ここから第三部
決闘に勝利したリンジーだったが、負傷して5年の間昏睡状態にあった。
かつてゴールドライヒ・トレイメンで一緒だったマーガレット・ジュリアーノの、アレクサンドリーナによって助けられていた。
ネオテニックにはほかに、やはりゴールドライヒ・トレイメンにいたネヴィーユ・ポンピアンスキュールもいた。
そして、ポンピアンスキュールのもとにいた、コンスタンティンの系列であるアベラード・ゴメスという少年と、リンジーは出会う。
リンジーは、ゴメスを連れてツァリーナ・クラスターへと戻る。
ゴメスは、ツァリーナ・クラスターの中で有力者へと育っていくのだが、「蝉の女王」事件が起きる(本作では直接的には描かれていないが)。
女王がいなくなったツァリーナ・クラスターで、ゴメスらもまた火星へ向かうが、リンジーエウロパを目指す。
リンジーのもとに、コンスタンティンのもとであらたに産み育てられたヴェラがやってくる。フォーマルハウトにいっていたヴェラは、太陽系に戻ってくるときに一緒についてきた〈存在〉に悩んでいた。〈存在〉はヴェラにしか気配を察知することができず、ほかの者はみな彼女の妄想だと思っているが、リンジーはそれを信じる。
リンジーはヴェラを連れて地球へとやってくる。禁忌の地であれ誰も訪れようとしなかった地球だが、その熱水噴出孔へと向い、生物のサンプルを採取していく。
リンジーはその生物サンプルをエウロパの環境に適した形に遺伝子改良して投入するという考えをもっていた。そして、人類のことも。
再びコンスタンティンと再会したリンジーはその計画を彼に話し、最後にノラのことを謝罪するコンスタンティンのことを許すが、その時すでに、毒を飲んだコンスタンティンは事切れていた。
そして、エウロパで、その計画を実行に移していたリンジーは、〈存在〉と会話する。彼らはさらに太陽系の外へと旅立っていくのだった。

感想など

あらすじそのものよりも、ディテールにいろいろと面白さが宿っている作品だとは思うのだけど、とりあえずはあらすじをまとめるだけで精一杯だな……。
デンボウスカ・カルテル以降、物語の前半に出てきた人たちが再登場してくるので、「こいつ、誰だったっけ」と思いつつも、こうつながるのかーと思いながら読んでいくのもわりと楽しかった。
あと「蝉の女王」の裏側というか、ツァリーナ・クラスターの女王やウェルスプリングの正体が、こっち読むとわかる、という趣向になっている。逆に、「蝉の女王」で起きた出来事は知っている前提で書かれている気がする。


どうでもいい話として、大尉博士とか将軍学長とかいう謎の肩書が出てくる。
「巣」でサイモン・アフリールが大尉博士とかで、なんだそりゃと思っていたのだけど、リング保安部に属していると、軍人と学者の両方の肩書がつくらしい。
リンジーも、ゴールドライヒ・トレイメンでは大尉博士、ツァリーナ・クラスターでは将軍学長になっていたはず。
宙学という言葉も出てくる。「蝉の女王」で見かけたときは、一体なんのこっちゃと思っていたのだが、『スキゾマトリックス』を読んでいたら、大学のことをさしているのだとわかった(宙学の学部とか学長とかが出てくるので)。Universityとuniverseのシャレなんでしょうね、多分。


遺伝子改造とかが当然になって、性行為と出産での生殖行為はなされなくなっているという設定ではあるのだけれど、「遺伝子系列」という名で、明らかに家系というものが維持されていて、また、リンジーコンスタンティンの対立の物語という意味でも、物語自体は古典的な雰囲気の漂う作品ではある。
リンジーは、アレクサンドリーナ、ヴェラ、キツネ、ノラという4人の女性がそれぞれ妻・パートナーであった。そういうわけで、男女の物語でもあるのだが、わりとあっさりしているといえばあっさりしているんだよな。リンジーはそれぞれに思い入れは持っているっぽくもあるのだけど(キツネは、キツネからリンジーへの矢印が大きくて、リンジーがどう思っているのかはよくわからんけど)。


最後に、〈存在〉が出てきてから、地球の熱水噴出孔からエウロパ、そして太陽系外へ、という流れが、特に面白かった。
〈存在〉というのは、何らかの異星種族なんだろうけれど、既知の19種族のどれでもなく、超自然的存在のようにも描かれている。
結局、最後に自殺するコンスタンティンに対して、リンジーもまた年老いて、太陽系あちこち回るんじゃなくて、エウロパの海で生を全うするかーと思ったのだがしかし、〈存在〉とともにより遠い世界を見に行くことにしよう、見たい、見に行きたい、と思って旅立っていく、というのがすごくSF的というかなんというか
つまり、太陽系でポストヒューマンな世界を舞台にしつつも、しかしどこか俗っぽく、近世・近代ヨーロッパとかを舞台にしても成り立つような物語を展開していたかと思いきや、最後にすごくSFっぽいテーマでアクセルを踏んだなあ、というか。
まあ、太陽系未来史とか、それぞれの小惑星国家の風景とかもまたすごくSFしていたけれども。そこらへんはガジェットやディテールであって。
あとはまあ単純に、熱水噴出孔とエウロパだー! という面白さもあったけど。
ブラックスモーカーは1979年に発見されているから、1985年のSF作品に出てきてもおかしくもなんともないのだけど、でも、85年の作品に出てくると思っていなかったので驚いた、というのもある。


第三部のタイトルに系統分岐とあるが、作中でもこの言葉は出てくるし、クレードもキーワードとして出てくる
人類がそれぞれ小集団に分かれていくこと、あるいは分かれた小集団を指しているっぽい?
ちょっと独特な用法で使われているような気はした。
分岐学が出てきた時期を考えれば、やはり1985年にSFに使われていてもなんら不思議ではないが、出てくると思ってなかったので驚いた