カント『判断力批判』(上)

上巻だけ。目次を見て下巻に惹かれなかったので、というか最初はとりあえず崇高論だけ読むつもりだったので、上巻しか買わなかった。
そういえば、ブログに書き損ねたけれど、以前『純粋理性批判』も中巻だけ、読んだのだったw これは、読書会に途中から途中まで参加していたからなんだけど。ちょうどアンチノミーのあたりで、ほぼ同じ時期に『群像』でやってた中島義道の連載もアンチノミーの部分をやっていて読んでた。
だから、理念の話はなんとなーくわかってんだけど、悟性とかの方はあんまりよくわかっていない(悟性は『純粋理性批判』の上巻)。それでもって、『判断力批判』には悟性がよく出てくる。
まあ、他にもあんまりよくわからないカント用語は色々と出てくるので、わかるところだけひろってざっくり読んだ。


大きく分けて、「美の分析論」と「崇高の分析論」があり、さらに注釈だか補足だかっぽい節が連なってて芸術についてもそのあたりで触れられている。
で、ここで論じられているのは主に、「趣味判断(美的判断)」とは一体どういうものか、という話。
これはまずは主観的なもので、快・不快に関わる。快・不快というのは基本的には人それぞれなもので、感覚に訴えかけてくるもの。しかし、それだけではまだ「趣味判断」とはいえない。
趣味判断は、普遍妥当性を求める、反省的な判断。つまり、人それぞれの快・不快というものから一歩進んで、自分以外にも「これって美だよね」と言いうるようなもの。カントは、「共通感覚」などといったりもしている。
快適−美−善、という感じで比較されていて、快適と美は主観的なものという点で似ているのだけど普遍性という点で異なっていて、美と善は普遍性という点で似ているのだけどそこにどうやって至るかという点で異なっている(善は概念的なものだが美はそうではなくて主観的)。
カントは結構あちこちで、美と善は似ているんだけど違うということを繰り返しているんだけど、『実践理性批判』読んでないせいかなんなのか、あんまりよくわからなかった。
無関心性とかもここらへんで出てくる。快適や善は関心と関わっているけど美はそうではない、とか(善は実践的快)。
さて、このような趣味判断の根拠となっているのは、主観的合目的性である*1。たぶん、ここらへんも美を善や快から区分けする要因となっている。
この合目的性というのは、言い換えると「形式」ということになる。
なので、感覚的刺激や感動というのは、美に含まれてこない。そういうものは、あくまでも、普遍性を持たない快適の方に入る。
純粋な色や音、造形美術であれば輪郭。動物の造形、歌詞のない楽曲。こういうのが例に挙げられている。
また、美というのは、構想力と悟性の自由な遊びと調和によるものだともされている。この調和を感じるのが、共通感覚。
構想力というのは表象を多様にさせていくもので、悟性はそれらをまとめていくもの、という感じでよいのかな。


で、次は「崇高」
美が悟性に関わるのにたいして、崇高は理性に関わる。美は、形式・限定・性質の表象と結びつくが、崇高は、形式を持たない無限定性・分量の表象と結びつく。
確か、悟性で把握するものが概念で、理性で把握するものが理念だったような気がするのだけど*2
理念というのは、たとえば「世界全体」とか。こういうのは現実的には(というか悟性によっては)全く把握することができない。つまり、世界全体を実際に見たりすることはできない。でも、理性というのは実際には見たり触ったりできないようなものも、把握できちゃう。「世界全体」とか。
で、崇高というのは、なんか大きいものを見たときに感じるのだけど、この場合の「大きい」は客観的な指標があるわけじゃなくて、主観的に「でけぇ」って思うもの。で、構想力が働いてよりいっそう「でけぇ、でけぇ」ってなっていくんだけど、理念の方はなおそれよりもでかい。そのでかさに対する感覚が崇高。
で、美は対象の方に感じるものだけれど、崇高というのは対象ではなくむしろ自らの心に対して感じるもの。
感性や構想力では到達できないという限界を超えたところにある理念


趣味判断の演繹
趣味判断の普遍妥当性について書いてるところを抜粋する。

この種の普遍妥当性は、他の人達から賛成投票を集めたり、或は他の人達にめいめいの感じ方を訊ね回ったりしても、決して確立されるものではない。

実際にも趣味判断は、対象に関して常に単称的判断の形をとるのである。悟性なら、(...)全称的判断を形成することができる。例えば「すべてのチューリップは美しい」というような判断である。しかしそうなるとこれは趣味判断ではなく論理的判断である。(...)換言すれば、この一個のチューリップに関する私の適意を普遍妥当的であると判定する判断だけに限られるのである。それだから趣味判断の特性は、この判断が主観的妥当性しかもたないにも拘わらず、すべての主観の同意を要求するところにある

「私は対象を快の感情をもって知覚し判定する」といえば経験的判断である。しかし、「私は対象を美と認める、――換言すれば、かかる適意を必然的なものとしてすべての人に要求し得る」といえば、それはア・プリオリな判断である

趣味とは、与えられた表象に関する我々の感情にすべての人が概念を介することなく普遍的に与りうるところのものを判定する能力のことである


続いて、芸術の話
芸術は、自然の模倣のように見えてはならない。つまり、合目的性がなきゃいけないから、そこに意図がなきゃいけない、わけだが、かといって意図的に見えてはならない。
で、カントは、芸術は天才によってのみ可能である。天才がつくったものだけが芸術である、といっている。
カントはやっぱり自然というものを重要視しているようで(合目的性にからんで)、なので芸術というものは、自然によってその能力が与えられた天才によって作られると考えているっぽい。で、趣味判断によって、見いだされる。
あと、芸術の分類(言語芸術、造形芸術、感覚の遊びによる芸術(音楽とか))を行ったり、その中での比較をしている。詩と絵画を高く評価して、音楽は美学的にはちょっとねって感じみたい。

美学のこととか?

この本は、『純粋理性批判』『実践理性批判』に続く三批判書ということで、カントの主著だが、なんでこの3つがまとめられているかというと、三つともア・プリオリな判断だからということみたい。
趣味判断というのは、認識にも拘わらないし道徳的な命令を行うわけでもない、主観的なものにすぎないけれど、それでも普遍妥当性をもっていて、ア・プリオリな判断だから、重要なものと目された、のかな。
ところで、高校の倫理に多くを期待するのも酷というものだけど、高校の倫理では『純粋理性批判』と『実践理性批判』は出てくるのに、『判断力批判』はせいぜいそのタイトルくらいしか出てこない。
だいぶあとになるまで、これが美学の本だということすら知らずに過ごしてきた。
日本だとそもそも、美学というものがあまり知られていないし、ましてや哲学の一部門だなんてほとんど思われていないのではないか。
まあ僕自身、美学そのものはまだ全然勉強していないのだけど、さる筋(?)から聞いた話によると、来年、分析美学の入門書の翻訳を出すという企画が進行中らしいので、非常に楽しみにしている。
もしこれを読んでいる人で、それは楽しみだ−という方がいれば、応援の意味を込めて、スターかブクマをお願いしますw それなりにたまったら、その企画をしている人に報告しておきますのでw *3

*1:ここでいう合目的性は、実際にその対象の目的とかではない

*2:悟性と概念の方は全く自信がない

*3:どこまで決まっててどこまで言っていいのかわからないのでこんな書き方ですが、その方ははてなにもtwitterにもいて、twitterでもこの話をしていたりしたはず。分析美学を楽しみにしている人はこんなにいるよーアピールをして、無事に出版され、分析美学ブームが巻き起こるまで応援していきましょう!w