『物語の(無)根拠』第6章

『物語の(無)根拠』目次
第6章 インターフィクション

第三のメタフィクション
連続体と無限
連続体からの分節化
自己言及
フラクタル的――メタを志向しない構造
不完全な対称構造――各章をゆるやかに繋げる(1)
転送――各章をゆるやかに繋げる(2)
インターフィクションとは何か
インターフィクションにおける物語の不確定性
「ネモ・エクス・マキナ
インターフィクションと読者

『Self-ReferenceENGINE』論である。
インターフィクションというのは、もちろん僕の造語なわけだけれど、一つの分析装置として提示したつもりだ。
SREを分析するために作ったものなので、SRE以外の作品にもうまく適用できるかどうかは未知数だが、そんなに特殊なことを言っていないので、他の作品でもわりといけるんじゃないかと思っている。
全体が不確定で開かれていることと「転送」が、インターフィクションなるものを支えている要素となるだろう。


「転送」に関しては、ほんの一段落しか書いていないのだけど、以下のアイデアを自分では重要だと思っている。

「転送」とは、何らかの語なり概念なりが、異なる文脈や物語へと送られることだ。東浩紀的な意味での「誤配」と言い換えることも可能かもしれない。つまり、転送元と転送先が、共通の文脈を持たないのにもかかわらず、繋がるからだ。「転送」されうるものとして、伊藤剛の提唱した「キャラ」が挙げられるだろう。「キャラ」もまた、異なる文脈や物語へ送り込まれ、それらを繋ぐ役割を持っている。ところで、『SRE』で転送される「リタ」や「トメさん」は、「キャラ」よりもさらに同一性が希薄であり、決して「キャラ」とはいえない。そのような「キャラ」ではないものでも、転送されることによって、異なる物語同士を繋ぐ機能を持ちうるのだ。

ここでは、伊藤剛の「キャラ」概念をも包括する概念として「転送」を捉えようとしているのである。あるいは、東浩紀の「キャラクター」もである。
貫世界同定を担うのは何か、という話で、その最低限度として伊藤は「キャラ」を挙げたけれど、東はその「キャラ」からさらに図像を削り落としてもいけるだろうと考えて、僕のこの「転送」というのは、そこからさらに削り落としてもいけるんじゃないか、という考えだ。
ただし、そうなってくると、最低限度として何も挙げることができなくなってくる。
デリダの反復可能性とかが関わってくるのかもしれないなあ、などと思ったりはしているのだけど、どうなるかよく分からない。
貫世界同定というよりは、むしろ野家啓一のいうところの「実の契機」に近いものなのかなあ、とかも思ったりするのだが、やはりよく分からない。
本文では、SREにおける「転送」の事例を並べているだけなので、「ふーん」という感じなものだが、もしかするとここらへんはもう少し突き甲斐があるのかかもしれない。


全体が不確定で開かれていること、ということについては、
やや異なる観点ながら、同じサークルの友達が、『SPEED BOY!』や『誰かが手を握っているような気がしてならない』なんかを挙げていた。


その友達から、インターフィクションという言葉はあまりよくない、と言われたのだが、
これは、「metaからinterへ」という、僕にとってのスローガンみたいなものに拠っている。
大分前から考えていることなのだけど、あまりはっきりと書いたことはない。
形而上学から郵便的脱構築へ」といってもいいかもしれない。完全に一致はしないかもしれないけれど、元ネタはそれだ。
metaというのはmetaphysicsのmetaである。
哲学・思想というのは、ずっとmetaの時代だったのが、現代思想が始まって、subの時代に変わったと思う。つまり、マルクスの下部構造substructureであり、フロイトの無意識subconsciousness*1である。
そしてさらにそれが進展すると、internationalとかinternetのinterになるのではないか。
ということを、何となく考えていたことがあって、それもあって、「metaからinterへ」などと言っていたりもする。
それほど深い意味はないのだけれど。
あと、インターフィクション性という言葉が何度か出てくるが、これは当然、インターテクスト性という言葉を想起させるだろう。
実を言えば、そういう言葉があることは知ってはいたのだけれど、あまりよく分からなかったので、本文中では言及しなかった。インターテクスト性とインターフィクション性がどうかして繋がったりするのか、あるいは関係ないのか、ということはちょっとよく分からない。


最後に、SREにでてくるネモ・エクス・マキナ=Self-ReferenceENGINEについて考察している。
僕は以前「フィクションの自動生成システムが実在していると信じている(た)」と書いたが、その当のシステムの姿こそがこのネモ・エクス・マキナということになる。
僕は、ネモ・エクス・マキナが実在していると信じていた(る)ということになる。
しかし、ネモ・エクス・マキナが実在というのは、一体どういうことだろうか*2


あとがきもupした。
これで、『物語の(無)根拠』html版は全て公開したことになる。

*1:無意識は本当はunconsciousnessで、subconsciousnessというと潜在意識とか下意識という訳語になるのだが

*2:それがさっぱり分からないから、実在説は取り下げざるを得ないわけだが