J.L.オースティン『言語と行為』

オースティンについて

911〜1960
48歳という若さで亡くなっている。
アリストテレスなどギリシア古典の研究から研究キャリアをスタートさせている。
戦中は、情報将校として従軍し、ノルマンディー作戦に関する情報収集、分析などをやっていたらしい。
オクスフォードに所属していたわけだが、戦前のイギリス哲学界の中心はむしろケンブリッジであった。哲学で言えば、ラッセル、ムーア、ウィトゲンシュタインが属し、また経済学者ケインズケンブリッジであった。
オクスフォードの哲学者としては、オースティン、ライル*1、ストローソン、グライス*2が挙げられる。*3
オースティンとライルは共に日常言語学派などとも呼ばれるが、互いの影響関係はほとんどなかったらしい。一方、ストローソンとグライスは、オースティンの言語行為論の影響を受け、批判的継承をしているようだ。
オースティンの哲学の師は、プリチャードという人で、この人が「約束」について考察していたらしいので、そこから言語行為論への影響はあるのだろう。
オースティンの同僚としては、法哲学者ハートや政治哲学者バーリンなどがいて、法律における行為の考え方などの影響を受けているっぽい。
この本は、ハーバードに招かれ行った講義をまとめたものである。刊行年は1960年で、おそらく死後編まれたものと思われる。

本の感想

この本で書かれていることが、深い哲学的洞察であることは間違いないが、しかしこれは人によってはあまりにもつまらない本のようにも思えるかもしれない。
オースティンは、実に慎重に、様々な発話を腑分けしていく。
これは、様々な言語表現を整理整頓し直した作業の記録、としても読むことができる。そしてそれは、ある意味では退屈なものでもある。オースティンは、その退屈さを必ずしも否定しない。多くの人にとって退屈であるということは、間違っているわけではないということだからだ*4
何らかのクライマックスがあったり、刺激的な文があったりして、興奮を喚起させるような本ではない。
だが、全体を貫くヴィジョンや、様々な指摘、言語表現に対しての観察眼などは、大きなポテンシャルを感じるのではないだろうか。

行為遂行的と事実確認的

パフォーマティブとコンスタティブである。
このブログの読者には、東浩紀読者が多いと思われるが、東がよく使うので知っている人も多いかと思われる。
コンスタティブというのは、オースティンによる造語で、そのもとになったコンスタトという動詞も英語では滅多に使われない珍しい語らしい*5


哲学の世界において、文というのは、真偽によって判断されるのが通例であった。つまり、文なり言明なり発言なりというのは、何事かを記述しているのである、という考え方があった。
オースティンはこれを「記述主義」的誤謬と呼んで批判する。
言語表現の中には、何かを記述しているとは思われないものや、真偽によって判断できなさそうなものがあり、それらを見逃してしまうことになるからだ。
そこでオースティンは、「何かを言うことが何かを行うことである」文や発話のことを、行為遂行的と呼ぶことにする。
そしていわゆる陳述文を、事実確認的と呼ぶのだ。


この本の前半部は、この行為遂行的と事実確認的とをいかに区別することができるか、という点で考察が進んでいく。
だが、結論から言えば、この両者の厳密な区別は不可能であることが分かるのだ。
この両者の区別は、過度な単純化や極端な場合において見えてくるものであり、現実には混ざり合っているのである。
事実確認的な文が、真偽によって判定されるように、行為遂行的な文は、適切・不適切によって判定される。
しかし、事実確認的な文であっても、不適切さというのは当てはまる。
例えば「現在のフランス王は禿げである」という文は、オースティンに言わせれば、不適切ということになるだろう。
また、行為遂行的な文であっても、真偽とは言われなくても、それに類似する判定がある。真偽とは、事実との一致・不一致であるが、行為遂行的な文もまた、事実と何らかの形で関係し合っている。

言語行為の三分類

行為遂行的と事実確認的の、明確な区別に失敗したオースティンは、言語行為一般を考察の対象にする。
行為遂行的を「何かを言うことが何かを行うことである」などと定義しておいたわけだが、そもそもそれは一体どういうことなのだろうか。

  • 発語行為

そもそも「言う」こと自体が「言う」という行為である。これを発語行為と呼ぶ。
これはさらに、音声行為、用語行為、意味行為に分類される。
音声行為や用語行為は、引用符で括るなどして*6、再現・模倣が可能であるのに対して、意味行為は、間接話法によって表される。
意味行為の意味meaningは、referenceとsenseのことであり、referenceによって事実と関係することになる。
音声行為や用語行為のない意味行為はない。意味行為のない音声行為や用語行為はある。

  • 発語内行為

言うことが同時にあることを行うことでもあるような行為である。
発語内の力forceによる。
例えば、「約束する」といった発話は、「約束する」と言うことによって同時にまさに「約束」ということを行っているのである。
発語内行為が遂行されると、了解の獲得、効力の発生、反応の誘発が起こる。
ここで起こる反応=結果は、慣習的な効果によるもので、その点で発語媒介行為と異なる。
発語行為のない発語内行為はない。ただし、発語内行為は発語行為の結果ではない。

  • 発語媒介行為

言うことによって行うことになる行為である。
発語内行為と発語媒介行為の違いは、in sayingとby sayingの違いによって説明されている*7
結果としての効果がある。
例えば、脅かすなどがある。「お前の本名晒すぞ」と言うことによって*8脅かしているのである。
これは、非慣習的であり、また非言語的にも達成可能である。
「俺はお前を脅かすぞ」と言っただけでは、それは脅かしたことにはならないが、
一方で、発語内行為の場合、「私は約束する」と言えば、約束したことになる。


オースティンはさらに、発語内の力を5つに分類する*9
すなわち、判定宣告型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言明解説型である。
事実確認的とされた「陳述する」「記述する」は、言明解説型に分類されている。
判定宣告型は、「無罪とする」「見積もる」「診断する」など
権限行使型は、「許可する」「任命する」「助言する」など
行為拘束型は、「約束する」「計画する」「駆ける」など
態度表明型は、「歓迎する」「陳謝する」「抗議する」など
どちらに分類すればいいのか、不明瞭な動詞も多々ある。それらは、状況によってどのような行為になるか異なる。例えば「誠に遺憾である」というのは、単に自分の感情について言っているだけなのか、そう言うことによって謝罪という発語内行為をしているのか。

その後の展開

以下、訳者解説による。

ストローソン、グライス

オースティンの言語行為論においては、「慣習」というものが非常に重要である。不適切性を判断するにも、発語内行為と発語媒介行為を区別するにも、「慣習」が出てくる。
だが、その「慣習」が一体どういうものであるかは、はっきりとしていない。
そこで、ストローソン、グライスは、「意図」や「意味」からの解明を試みる。
しかし、その結果として、発語内行為と発語媒介行為の区別が曖昧となった。

コーヘン、オルストン

彼らは、発語行為と発語内行為の区別を批判した。
また、オルストンによる分析をもとに、ヘアは「善い」という語の意味を解明しようとした。

サール

オースティンの後継者を自称している。
サールは、規則を、統制的規則と構成的規則に分類する。前者は、法律のように、既にある状態に対して何らかの秩序を生み出すための規則であり、後者は、ゲームのルールのように、そもそも規則がなければその状態自体がありえないような規則である。
そして、慣習とは、構成的規則によって作られるものだと解釈した。
また、発語行為の中の下位分類を、むしろ発語内行為や発語媒介行為と同等の分類とみなし、発語行為の3分類を
音声行為、用語行為、命題行為、発語内行為、発語媒介行為に分類しなおした。
文を、F(p)と分析し、Fが発語内の力、pが命題にあたる。訳者解説には書いていなかったが、おそらくこの分析がのちに、志向性の話へと繋がったのだと思われる。

その他

語用論との関連や、生成文法学派からの注目など、哲学だけでなく言語学にも影響を与えている。
また、フランスやドイツなど、非英語圏にも影響を与えている。

事実と当為

「〜である」という事実言明と「〜すべきだ」という当為言明は、ヒューム以来、区別するのが哲学の伝統である。
オースティンは(「記述主義」的誤謬と同様に)この区別もまた疑問視している。
だが、オースティンは、この点については詳しく述べていない。
サールは、「約束する」という言語行為の構成的規則*10によって、事実から当為が導き出せると論じたらしい。
そういえばパトナムは、事実と当為じゃないけれど、事実言明と価値言明の区別を批判していた*11

デリダ・サール論争

以下は、野家啓一「「言語論的現象学」の可能性と限界」*12による。
デリダは「署名、出来事、コンテクスト」においてオースティンを批判し、それにサールが「差異の反復――デリダへの応答」で反論、「有限責任会社abc」で再反論が行われた。
デリダは、オースティンの仕事の大枠はむしろ評価している。
だが、オースティンが、言語退化として「寄生的用法」を退けてしまったことを批判する。
「寄生的用法」とは、舞台の上での役者の台詞などのことである。オースティンはこれを、意図の伴わない「不真面目な」用法と考え、例外事項にしてしまう。
一方のデリダは、むしろ意図の伴わない「不真面目な」用法が可能になるところにこそ、言語行為の基盤があると考える。
それは「反復可能性」である。
オースティンは、行為遂行的な文を可能にするために、発言原点が明確にならなければならないと考える。つまり、発話者が発話した本人であると分かることである。文章であれば、署名によってそれはなされる。
一方、デリダによれば、署名が署名として成立するのは、その固有性によってではなく、反復可能性によってだと考える。発言原点からの差異が生じることによってこそ、署名は署名たりうるのである。
両者の調停を試みる野家は、デリダの「反復可能性」こそが、オースティンの「慣習」ではないかと論じる。
オースティンの言語行為論は、「慣習」と「意図」によって成り立っている。
不適切性を判断するのに、6つの規準をオースティンは挙げているが、そのうちの4つが「慣習」に関するものであり、残りの2つが「意図」に関するものである。
オースティンの著作からでは、慣習が一体何であるかは確かに判然としない。それ故に、デリダによって批判されてしまったのではないか、と野家は考える。
だが、オースティンは確かに「慣習」を非常に重視しているのである。

言語と行為

言語と行為

*1:野家啓一『言語行為の現象学』によれば、イギリス哲学界の「ゴッドファーザー」らしいが

*2:のち、カリフォルニア大学バークレー

*3:ラッセル、ウィトゲンシュタインケインズはみなはてなキーワードがリンクされるのに対して、オースティン、ライル、ストローソン、グライスはされない

*4:オースティンの講義に出たことのある訳者は、紳士的で好人物とされるオースティンにも、シニカルな面があったのではないだろうかと指摘しているが、もしかするとこういうところかもしれない

*5:フランス語では使われるらしく、訳者はそっちを参照して訳語をあてたらしい

*6:直接話法によって

*7:ただし、ここがオースティンの本領発揮のところなのだが、inとbyの様々な用法に目を通した結果、必ずしもinなら発語内行為、byなら発語媒介行為と即断できるわけではないことが明らかになる

*8:by saying

*9:ただし、この分類が暫定的なものであるとオースティンは言っている

*10:慣習!

*11:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071118/1195368441

*12:

言語行為の現象学

言語行為の現象学