脱中心化みたいな

僕がずっと一種のスローガンのようにしていた言葉に「metaからinterへ」というのがある。

形而上学から郵便的脱構築へ」といってもいいかもしれない。完全に一致はしないかもしれないけれど、元ネタはそれだ。
metaというのはmetaphysicsのmetaである。
哲学・思想というのは、ずっとmetaの時代だったのが、現代思想が始まって、subの時代に変わったと思う。つまり、マルクスの下部構造substructureであり、フロイトの無意識subconsciousness*1である。
そしてさらにそれが進展すると、internationalとかinternetのinterになるのではないか。
ということを、何となく考えていたことがあって、それもあって、「metaからinterへ」などと言っていたりもする。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071224/1198478299

ただ、メタ的な基礎を作るのではなく、インター的な基礎を作らないといけないのではないか。暫定的な公共性≒インター的な基礎(知)

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061123/1164299133

しかし、このインター的なものって一体何だよ、という疑問はずっとついて回ってきていた。
それに対する一種の回答のようなものを以下の記事で見たような気がする。
ロゴスとミュトス/神話とは何か3(仮想算術の世界)

ロゴスが世界のすべてをロジカルに通覧し理解しようとする形而上学的欲望を示すとすると、ミュトス(神話)のほうは世界を部分的にしか理解しえない者どうしが、その部分どうしのあいだに調和を成立させていく技術のことを指します。前者がトップダウン式に、いわば垂直的な理解のゲームをやっているとすると、後者は部分部分のあいだで、いわば水平的な調和のゲームをやっている、と言い換えてもいい。

僕が、meta的なものというもの*1、それはわりとロゴスのイメージで、inter的なものというものは、わりとミュトスなんじゃなかろうか、と思った。


ただ僕は、口では「metaからinterへ」などといいつつも、実際の身振りはどうだったかというと、なかなかどうかと思う。
つまり、「形而上学的欲望」が達成されないことが分かりつつも、むしろそれは断念しなければならないと思いつつも、その欲望に駆り立てられているところがある。
例えば

「人間の動物的な側面」と「人間の人間的な側面」のキーワードがリストアップされている*2のですが、見事に自分の興味があるのは「動物的な側面」ばかりでした
がしかし、自分の思考方式はおそらく「人間的」なのです
東は「動物的な側面」と「人間的な側面」の統合は断念しなければならない、という
(中略)
それでもまだ、それをぎゅっとまとめるものはないのか、と自分は考えてしまう。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060118/1147096716

metaという言葉を僕が使うとき、それは一つにまとめる統一的な中心点ないし原理のことを指している。
それは例えば、近代的自我とか「作者」とかと言い表してもいい。
そして僕が物語の(無)根拠で、成熟は不可能だとか、作者は不自由だとか論じたのは、そういう統一的な中心点ないし原理はありえない、ということでもある*3


metaからinterへ、というのはもちろん、反形而上学的なスローガンなんだけれども、
しかし最近、自分の中で形而上学もいいんじゃね、という感じが出来ている。
形而上学と言っても、いうなれば、生物学的形而上学なんだけど。

本質主義的なものと構築主義的なもの(実在 / 唯名、合理 / 経験など)の繰り返しなんだよなあと思うんだけど、戦後はわりとずっと後者だったので、そろそろ前者がくるのかもしれんね、と思い始めた。チョムスキーとか分析形而上学とか。個人的にも、そっちにコミットしつつある。

https://twitter.com/sakstyle/statuses/696081952

人文知と自然科学が再び接触を持つとしたら、エピステモロジーとか進化論とかそこらへんかなあ。まあ単に今、生物学哲学が流行だからってのもあるけど。三中信宏系統樹思考の世界』は面白かった。あるいは、チョムスキー・ピンカー路線?

https://twitter.com/sakstyle/statuses/766639316

次元は実在ないし存在するのか、というのも、宇宙についての話なのか、それとも人間の脳や身体の構造についての話なのか。でももし仮に、人間の身体構造が先立っていたとしたら、ループするよね。

https://twitter.com/sakstyle/statuses/767510372


metaとinterを対立的なものとして語ってきたので、ロゴスとミュトスもそのように見えてしまったかも知れないが、福嶋によれば、ロゴスとミュトスというのは相補的なもの。
そこらへんの機序が僕にはまだよく分かっていないので、今後どうなるか期待。


本当は、最近twitterで書いていたいくつか、哲学関係の話題を並べておくつもりだったのだけど、これである程度まとまってしまったので、これで止めておく。

*1:ただし、inter的なものとの対比において。メタという語が、ベタとかネタとかと対比されるときはその限りにあらず

*2:引用者注、東浩紀のブログ

*3:福嶋は、ミュトス的な生き方として「脊髄反射」を論じている。これを読んで、意識を消去してしまった伊藤計劃From the Nothing, with Love.」を想起した。ただし、この伊藤作品の主人公は「脊髄反射」的に生きているが、伊藤作品自体は「脊髄反射」的ではない