フリオ・コルタサル『八面体』

1974年刊行の短編集『八面体』に加えて、『最終ラウンド』(1969年)から3編と短編小説について論じたエッセーを加えた短編集。
コルタサルについては、これまで以下の2つの短編集を読んだ。『動物寓話集』は彼の初期短編集で、『悪魔の涎・追い求める男他八篇』は、『動物寓話譚』『遊戯の終わり』『秘密の武器』『すべての火は火』から10編を採録した日本オリジナル短編集で、1950年代から1960年代の作品が入っている。
『八面体』は上述の通り1974年のもの。コルタサルは70年代半ばから政治運動へ傾倒して創作活動が少なくなっていき、1984年に亡くなっている。このため『八面体』は、これ以降にも短編集は出ているものの、作家にとって後期の作品集となるらしい。
以前2作の短編集のどちらかの解説に、これらに加えて『八面体』も読んでおけば、大体おさえたことになる的なことが書かれていた記憶があったので、読んだ。
フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳) - logical cypher scape2
フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2


文体として、普通なら句点で区切れるようなところも読点でつないで、文が長くなっているみたいなのが見られた気がする。
登場人物や舞台について説明的な文章がなく、何が起きているのか、登場人物たちの関係がなんなのか、読み始めは掴みにくい。そのため、上の特徴とあわせて、多少読みにくい文章かなとも思うのだが、少し読んでいると意外とするすると入っていける。
面白かったのは「リリアナが泣く」「セベロの諸段階」「シルビア」かな。後ろの2つは、ちょっと不思議な出来事が起きる、という点で、小説としての面白さが分かりやすい。
「手掛かりを辿ると」も面白いか。

八面体

リリアナが泣く

病気で余命わずかな男が語り手で、リリアナは妻の名前
病室で無聊を慰めるために書いている手記という体裁で、友人でもある主治医への感謝や見舞いに来る友人・家族の様子などを綴りながら、次第に、自分の死後、葬式での友人たちやリリアナの様子などへと話題が移っていく。
これが、主人公の想像なのか、実際に起きることの描写なのかが、読んでいて次第に曖昧になっていく。
非常に献身的な友人が1人いて、彼が様々な手配や遺された家族の心理的ケアなどやってくれていて、主人公も、彼にしか任せられない、彼はきっとこうしてくれるだろうなど、全面的に信頼していることをうかがわせるが、最終的に、彼とリリアナが結ばれることになる。
まあ、夫が死んだ後に、未亡人が夫の友人と親しくなっていくという展開自体は、ありがちな話だとは思うが、それを夫自身の手記という体裁で、かつ、そう至る経緯がわりと詳細に描かれるので、これはNTR妄想なのでは、みたいになっているのが面白いといえば面白い。
さらに、最後の最後に、主人公は奇跡的に回復するのだが、もう少しだけリリアナが独りぼっちでなくなる夢を見させてくれ、と言って終わる。

手掛かりを辿ると

主人公の文学研究者フラガが、詩人ロメロの半生を研究する話。
この詩人というのは、非常に評価が高いのだが、その人生の大半が謎に包まれているため、これについて調べてみようと思い立つ。
で、調べているうちに、関係者のふとした発言から、ある女性の存在にいきあたる。婚約したのだが結局別れた女性がいて、2人の間には娘がいた。その娘に話を聞き、残されていた詩人からの手紙を入手する。
こうして、この詩人が、自らの病気により相手が未亡人になってしまうことを不憫に思い、相手の可能性を閉ざさないように結婚をとりやめていた、ということが分かり、それをもとにsた伝記を出版し、主人公は一躍時の人となる。
がしかし、主人公はある時に気付いてしまう。それは、自分が都合良く解釈した物語に過ぎないことを。そしてそのことを、授賞式のスピーチで暴露する。
娘から渡された手紙は、そのように解釈できるように都合良く選別された手紙であって、実際のところ、詩人は相手を思いやって別れたわけではなく、手ひどい扱いをしていたのである。
主人公は、自分と詩人とを、栄誉に浴するためにごまかしをおこなった点で、同じ穴の狢だったのだと

ポケットに残された手記

地下鉄の中で出会った女性を追いかけるゲームをしている主人公
と書くと何やらいかがわしいが、というか実際いかがわしいが、駅から事前にどのルートを通るか考えておいて、どこまでその女性の通る道と一致するか、みたいなことをしている。
そんなことを不特定多数を相手にしていたら、ある時、一人の女性と実際に親しくなる

隣人の娘を一晩預かることになった夫婦マリアノとスマル。
夜になって、馬のいななきが聞こえてくる。つながれていない馬が家の周りを歩いていた。
それに気付いて妻の方が、馬が家の中に入り込んでくるのではないかという恐怖で、恐慌を来す。夫も警戒する。一方の娘の方は、何も気付かずすやすや眠っている。

そこ、でも、どこ、どんなふうに

夢であって夢でない存在、それは友人のパコで、そこにいないのに近くにいるように感じられる。
亡霊のようであるが、まだ死んではいないし、亡霊とも違う。
パコは病気を患っているようでもある。
語り手本人も、なんだか上手く説明できないことをなんとか言葉にしようとしていて、何が起きているか分かりにくいが、友人たちへの思いが書かれている、気がする。

キントベルクという名の町

雨の日、ヒッチハイクしていた女性リナを乗せたマルセロは、キントベルクにたどり着き、そこで一晩雨宿りする。
リナをなぜか小熊にたとえている

セベロの諸段階

セベロの家に親族郎党が集まっている。
セベロの息子から声をかけられて、セベロの寝室に赴くと、セベロは寝ていて妻が着替えさせている。発汗段階だという。
その後、いくつかの「段階」があって、「時計の段階」では集まった人たちに対してそれぞれセベロから数字が言い渡される。
なんかそういう謎の儀式的なことで夜をあかすことになる。
言い渡される数字に何か意味があるらしいのだが、読者に対してその意味は明示されない。
焦点人物となる男は、これをあんまり真面目に受け取っていないようだが、集まった人によってはもっと深刻に受け取る人もあれば、もっと軽く扱っている人もいる。

黒猫の首

「ポケットに残された手記」同様、電車で出会った女性に対して「ゲーム」をする男の話で。こちらは、電車の手すりを握っている手を握るというもの(それは限りなく痴漢なのでは)
ムラート娘の手を触るところから始まるのだが、このムラート娘がその誘いにのってくる。で、なんか勘違いしないでくださいよ的なことを言いつつ、男の部屋へと入っていく、というなんかポルノみたいな展開。
この短編集は、この作品以外も、性的な場面やエロティックな描写があったが、この作品は特にそのウェイトが大きいものだった。
ただ、行為のさいちゅうに、女が蝋燭を探してきてみたいなことを言って、男は取りに行くのだけど、何故か部屋から裸で閉め出される。大家や隣の住人からどやされる、みたいなことを心配して終わり、みたいな話だった気がする。

最終ラウンド

シルビア

とある別荘地に、3家族くらいが集まって長期休暇を楽しんでいる。
主人公は独身だが、友人たちは子どもがいて、子連れでそれぞれの家にいってはバーベキューなりなんなりしている。
主人公は、子どもたち(2歳から7歳まで)と一緒に、見慣れない若い女性シルビアがいるのに気付く。ふとした拍子にシルビアのことを目で追っており、主人公はシルビアに惹かれ始める。
彼女について質問すると、シルビアは「みんなの友だち」なのだという。そして大人たちは「子どもの作り話」だという。
子どもたちがみんな揃わないとシルビアは現れない。休暇が終わって去っていく家族もいるので、子どもたちが揃わなくなって、シルビアとはもう会えないなってところで終わる。

旅路

夫婦が電車の切符を買いに駅にやってくる。
知り合いに、この乗り換えでここに行くといいよと言われたので、それを買いに来るのだが、その話を聞いた夫が経由地も目的地も忘れてしまう。
なお、駅に着く直前くらいに、夫が妻に対して乗り換え内容を伝えているシーンがあって、読者は経由地も目的地も分かっている。その直後くらいに、夫がどっちも思い出せなくなり、夫が妻に対して、さっきお前に言っただろ、俺はこういうの忘れやすいからお前に言ったんだ、とか言い出すのだけど、妻もちゃんと覚えていない。
その夫婦のおぼろげな記憶から、駅員がサジェストしていって、なんとか最終的には切符を買うことができる。
なお、電車にはそこから乗るのではなく、さらに車で移動した別の駅から乗るという行程

昼寝

主人公ワンダは思春期の少女。唯一、主人公が女性なのではないか。というか、登場人物がほぼ全員女性だ。
夫婦が主人公になっている作品は、女性「も」主人公になっているとはいえたかもしれないが、基本的にはここまで全ての作品が男性主人公であった。
近所にいる友だちテレシータが、悪友みたいな感じで、叔母たちが顔をしかめるような性的な話題、サブカルチャーなどを共有している。
自慰行為を叔母に見られて手ひどく叱られたりもする。
少女2人の、ある種のシスターフッドというか、性的なものへの興味を描いているのだが、最後の最後で、主人公の性被害の記憶が描かれている。
三人称小説だが、主人公の意識の流れで描かれていて、時間がいったりきたりしながら、回想なのか現在時点の話なのか明示されないまま進行する。

短編小説とその周辺

コルタサルによる短編小説創作論
作品の構想がえられた瞬間を「(自分が)短編小説になる。」と形容している。
短編小説を書く作家と詩人との類似性を強調し、長編小説と区別している。