フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳)

コルタサルのアルゼンチン時代に書かれた8篇からなる第一短編集。
海外文学読むぞ期間の一環として、フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2に続いてコルタサル
のちにパリに移住する作家だが、それ以前に書かれた作品なので、いずれもブエノスアイレス周辺が舞台となっている。
ラテンアメリカ幻想文学の1人だが、あくまでも日常的・現実的なところを舞台にしつつ、少し不思議・奇妙なことがおきるという作品が多い。
また、やはりどこか暗い不穏な雰囲気がいずれの作品にも漂っている。
「天国の扉」「バス」が特に面白かった。「動物寓話集」「パリへ発った婦人宛の手紙」もよい。

奪われた家

フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2では「占拠された屋敷」というタイトルで訳出されていた。
ストーリー自体はもちろん同じなので繰り返さないが、訳文の印象がずいぶん違っていた。
どちらの本も図書館で借りて読んだので、手元において直接比較していないが、本書の寺尾訳の方が、新訳ということもあって読みやすい文体になっていたと思う。
ちなみに訳者解説によると、1940年代のアルゼンチンではペロン大佐の人気が高まり、1946年に大統領に就任するが、ペロニズムの広がりへの比喩として読むという解釈が発表当時からあったらしい。

パリへ発った婦人宛ての手紙

同じくフリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2では「パリに居る若い女性に宛てた手紙」というタイトルで訳出されていた作品。
こちらも、訳文が読みやすくなっている印象。語り手の申し訳なさや不安な気持ちがよりわかりやすくなっているというか。
些細な違いをいうと、子兎が子ウサギになっている。

遥かな女 ──アリーナ・レエスの日記

サブタイトルにあるとおり、日記形式の作品だが、最初は何が起きているのかよく分からない。
エスという女性が、ルイスと結婚するまでの日記なのだが、レエスは時々ブダペストにある「あの子」ないし「遥かな女」」について思いを馳せている(白昼夢的なものを見ている?)。ぶたれているあの子は私なのではと思う。
最後のオチは、日記ではなく三人称で書かれているのだが、レエスとルイスは新婚旅行で実際にブダペストに行く。見ていた橋に実際に行くと、薄汚れた女性がいて、抱き合ってレエスは本当の自分になれたと思うのだが、なんと入れ替わられてしまうというオチ
回文が出てくる。

バス

クララがバスにのると、運転手、車掌、乗客からじろじろと見られる。墓地に向かうバスのためか、乗客はみな花束を持っていて、花束を持っていないクララのことを不審げに見ているようだった。
次いで、やはり花束を持っていない若者が乗車すると、皆クララと若者のことを見るようになり、クララと若者は連帯感をもつようになり、急速に接近していく。
墓地を過ぎて乗客はみな降りるが、運転手と車掌はまだ敵意のある目で見てくるが、2人はそれに抵抗する。
バスに下りた2人は花束を買って、そしてそれぞれ別々の道を歩いていく。
バスの車内で恋人同士のような距離感にもなった2人が、バスを降りた後急速に離れていくラストはどこかしら「南部高速道路」を思わせなくもない。
なおこの作品も、訳者解説によると、ペロニズムへの抵抗という解釈がありうるとか。

偏頭痛

マンスピアという動物を育てている「私たち」の話。
「私たち」という一人称複数形で語られているが、「私たちの男の方」「私たちの女の方」という書き方がされることもあり、男女2人組、夫婦もしくは「奪われた家」のようなきょうだいのようであるが、そのあたりははっきりしない。
ホメオパシー小説で、「わたしたち」は絶えず悩まされている心身の不調をホメオパシー用語で記録している。ホメオパシーは、症状を「トリカブト」とか動植物の名前で呼び分けていて、「明らかに○○だ」とか「○○なのかもしれない」とかそうしたホメオパシー用語で不調を訴え続けている。
2人の使用人を雇った上で、4人でマンスピアという動物を繁殖させ、飼育している。最終的に売却するのが目的らしいのだが、かなり飼育が面倒そうな動物である。
しかし、使用人は逃げた上に盗みを働き逮捕され、マンスピアへの飼料は減っていき、さらには原因不明の脱走を起こし、夜には正体不明のうめき声に悩まされることになり、マンスピアの売却もあまりうまくいきそうにない、という踏んだり蹴ったりの話
そういう状況の中、「私たち」はホメオパシーの手引きを読むことに没頭していく。
訳者解説によると、コルタサル自身が体調を崩していた際に「悪魔払い」(自己セラピー)として書いた作品で、当時のコルタサルホメオパシーにも関心を持っていたらしい。

キルケ

婚約者を2人相次いで亡くした女性デリアに、マリオは惹かれていき、婚約するに至る話。
語り手は、マリオの弟妹?
マリオは彼女の家に通い、少しずつデリアやその家族に受入れられていくが、婚約者2人が相次いで死んだ彼女のことを周囲の人たちは結構怪しく思っている(1人は自殺だが、自殺なんてするような人ではなかったと証言されている)。
デリアは、リキュールやボンボンを作るのが趣味で、新作をつくっていくのだが、両親はあまりそれを好まず、マリオが試食してくれるので、それを通して2人は親しくなっていく。
婚約後、彼女の作ったボンボンの中からゴキブリが出てきて、マリオがキレて、彼女の首を絞める。
ラストが急展開でちょっとよく分からなかった。
訳者解説によると、これまたコルサタルによる自己セラピー的な作品で、食べ物から虫が出てくる妄想にとらわれ拒食気味だったが、本作を書いて回復したらしい

天国の扉

語り手の友人夫婦の妻セリーナが、結核で急死する。
語り手と夫のマウロは、キャバレーでセリーナを偲ぶ。
語り手は弁護士で、夫婦はその依頼人だったようだが、友人づきあいをするようになった関係らしい?
セリーナの方は、元々怪しげなキャバレーで遊ぶのが好きだったようなのだが、結婚後は、時々夫を誘ってもう少しまともな(?)店でダンスする、くらいだったらしい。
語り手とマウロは2人で、キャバレーを訪れる。
語り手はキャバレーを地獄と呼んだり、そこの客たちのことを「怪物」と呼んでいたりしてちょっとギョッとする。
色黒娘とも書かれているが、人種の違いがあるのか階級の違いがあるのか(肌の色なのか日焼けなのか)何なのかいまいちよく分からなかった。語り手は、セリーナは本当は自分たちより「怪物」に近かったのだなと思ったりする。
マウロは、見知らぬ女性と踊ったりするが、しかし2人とも店内の雰囲気にはなじめないまま、セリーナが踊っているところを目撃する。
「今のみたか」「そっくりだったな」という会話で終わるので、よく似た人を見かけたという話だが、彼女の幽霊を見た、というふうにもとれる話になっている。
天国の扉を自分たちは越えられないのだ、という感慨で終わっている。

動物寓話集

夏休みの間、田舎の家に預けられる少女イサベルが主人公。
幼い主人公の視点から語られるためか、登場人物たちの血縁関係がよく分からないが、この田舎の家には、年かさの男性ネネ、哲学を勉強しているルイス、若い女性レマ、主人公と同じかさらに幼い少年ニノが住んでいて、さらに農夫たちの親方がいる。
そして、この家の周辺には虎がでて、時々家の中にも入ってくるらしい。それを親方が知らせてくれて、その間はその部屋には入れなくなる。
主人公はニノと蟻を観察したりなんだりして比較的楽しく過ごすようになっていく。
ある晩、ネネは主人公に対して、レマにレモネードを持ってきてもらうよう頼むのだが、レネマは明らかに行くのを渋り、主人公が代わりにネネにレモネードをもっていく。
翌日、主人公は親方が言っていた警告を誤って伝える(虎はネネの書斎にいる)。それを聞いて読書室へ行ったネネが虎に襲われる。
レマがイサベルに感謝を告げて終わる。
「大食堂から母とイネスの話し声が聞こえ、荷物、発疹について医者に相談、鱈油、アメリカマンサク、夢ではない、夢ではない。(p.172)」みたいな、単語を羅列するちょっと奇妙な文が時々出てくる。

解説

コルタサルの生誕100数年、没後30周年であった2014年は、ガルシア=マルケスが亡くなったこともあり、日本でラテンアメリカ文学が再注目を浴びた年であったというところから、コルタサルは日本でも人気があるが、しかし、あまり正確に知られていないのではないかという話がなされて、本書の成立過程へと解説されていく。
コルタサルは教員として働いていたが、上述の通り、アルゼンチンでペロン大佐が台頭すると教育現場も国粋主義的になってきたために、教員を辞め、創作活動に移っていったらしい。
本作より前に『対岸』という短編集がある(寺尾により翻訳されている)が、これは出版には至らず、本作が「真の処女作」である、と。
「奪われた家」が雑誌掲載されたのがコルタサルにとって転機だった。掲載誌の編集長がボルヘスだが、持ち込み時にコルタサルボルヘスは初めて出会ったという逸話は、ボルヘスコルタサルのどちらかあるいは両方による作り話だとか。
また、この『動物寓話集』という短編集については、パリへいくコルタサルから友人たちが原稿を取り上げて出版社に持ち込んだという逸話が日本では知られている(『悪魔の涎・追い求める男他八篇』の解説にも書かれていた)が、これも裏付けのない話らしい。
「天国の扉」はコルタサル本人も気に入っており、研究者からの評価も高い作品。訳者はコルタサル作品の重要なテーマの一つとして「死」があるという。1940年代に相次いで友人知人を亡くしており、30年後の作品でもその悲しみについて書いているらしい。