パリ議定書に基づき、気候変動に国際的に対処するために発足した組織、通称「未来省」の活動を中心に、気候変動に見舞われる2020年代後半以降の世界を描く。
火星三部作のキム・スタンリー・ロビンスンの新刊ということで、面白そうだなと思って読むことにした。
今まで読んだことのあるロビンスン作品は下記の通り。
キム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『グリーン・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『ブルー・マーズ』上下 - logical cypher scape2
ところでこの本、パーソナルメディアというところが版元で、ソフトウェア会社で出版も手がけているところだった。出版部門から出ているのほとんどが技術書で、小説はこの本が唯一とかなのではないか。ソフトウェア会社というかTRON関係の開発をしていて、本書の解説を坂村健が書いてたりする。
2025年、インドを破滅的な熱波が襲い、2000万人もの人々が死亡するというところから物語は始まる。
これをきっかけとして未来省が設立されることになる。
未来省トップに就任したメアリー・マーフィーと、インドでの熱波を体験し九死に一生を得たフランク・メイ、この2人が物語の主軸となる。
とはいえ、この作品の特徴的なところは、物語が無数の断片から構成されていく点にある。
106の節にわけられており、短いものだと1節あたり見開き2ページしかないし(とはいえ二段組みだが)、長くても10ページ程度だろうか。4~5ページ程度の節がもっとも多いのではないか。そんな感じで、比較的短い分量の節で構成されている。
(ところで、各節は数字が付されているだけで、小説の場合、こういう時は目次がついていない方が普通だと思うのだが、本書は目次がふされている。しかも、1行目の文の冒頭を便宜的にタイトルのように扱ってずらりと目次に並べられて、結構スゴイ)
節が変わるごとに、人称や語り手・語り口が次々と変わっていく。メアリーとフランクの物語は繰り返しでてきて、作品全体を貫く縦糸となっていくが、1回だけしか出てこない登場人物・エピソードも多い。そして、そもそも出来事・事項の解説みたいな節も多い。
このため、物語というよりノンフィクションに近い、という紹介のされ方もしている。
実際、事実をベースにしている部分もあり、ノンフィクションっぽいといえばノンフィクションっぽいが、ただ、意外と三人称の節は少なくて(メアリーやフランクが登場するところは三人称)、一人称のクセの強い語りが採用されているところが結構ある。そもそも、次々と語り手が変わっていくという手法自体、ノンフィクションではなくこの作品が小説であることを強調しているとは思う。
とはいえ、独特の小説であることは確かだろう。
本作品は、気候変動に立ち向かう人々の物語、のように紹介されていることが多く、実際、未来省は気候変動対策のために作られた組織であり、登場人物たちもそれを目的として行動している。
がしかし、筆者の目論見はむしろ、気候変動を奇貨として、人類社会がポスト資本主義へと移行する様を描くところにあったのではないだろうかと思われる。
実際、キム・スタンリー・ロビンスンは度々、未来社会としてポスト資本主義世界を描いてきた作家である。もちろん、それをいうなら環境問題にも関心を持っている作家なので、気候変動対策の話もまた間違いなく本作の主題ではある。
ただ、本書については、このポスト資本主義、もっとはっきり言ってしまえば社会主義への傾倒がはっきり見られる作品である。
まあ、だからどうということでもないのだけど、
メアリーは、元々アイルランドの外務大臣経験者で、様々な分野の専門家が集まる未来省を束ねることになる。また、諸外国の(特に中央銀行の)トップとの交渉にも携わる。
本作はこういう作風なので、物語性は薄く、メアリーのドラマもあまり起伏は多くないのだが、彼女の物語で盛んに強調されるのが、アイルランド人であることだった。
メアリーの特徴ともされるアイルランド人っぽさって何なのか、欧米で生活したことのない自分にはあまりピンとこないが、スイスでアイルランド人が働くこと、というのが何某か意識されているように思う。
そう、アイルランド人っぽさとあわせて、スイスの国民性もまたしきりに強調される。
気候変動はグローバルな課題であり、未来省も多国籍な職場であり、国民性・国民の気質みたいなものをやたら気にするのも不思議と言えば不思議な話なのだが、火星三部作も、スイス人への着目みたいなのはあったし、ロビンスン的には何かしらの裏テーマなのかもしれない。あるいは、手癖か。
正直、自分にはアイルランド人っぽさとかスイス人っぽさとか言われてもあまりピンとこないところではあるし、逆に、アジア諸国への”解像度”は相対的に低そうだし、そこんとこどうなのと思わせる箇所でもあるが、ヨーロッパの中では小国であるアイルランドやスイスがキーを握っている、というところが何かポイントなのかなー。
それ以外の国だと、インド、中国、ロシアの作中でのプレゼンスが高い。
インドは、何せ2000万人の被害者を出しているので、未来省の動きよりも早く色々とやっている。太陽光を防ぐための大気への粒子撒布というジオエンジニアリングも、先に勝手にやったりしている(期間限定だが効果をあげる)。
国民国家的な枠組みは最後まで維持されるというかわりと重視されているが、その国民概念を支えるものとして、言語への注目もある。あまり、中心的なテーマではないが、言及自体は少ないが。
スイスは公用語が4つあるが、ロマンシュ語を公用語としているのはスイスをスイスたらしめてるものの一つだろう、とか。
スイス話というと、ロビンスン自身がチューリッヒ滞在歴があるためか、チューリッヒへの愛着も結構強く描かれている気がする。チューリッヒという街の過ごしやすさというか。
さて、もう一人の主人公とでもいうべきフランク・メイだが、彼はインドで難民支援事業に携わっていたが、2025年の熱波に襲われる。人々とともに湖へと逃げるが、その町の住民はフランク以外全滅する。フランクは偶々生き残るが、それによりPTSDを発症する。
しかして彼は、いちどヨーロッパに戻るが、インドのテロ組織に入ろうとする。が、白人であるために断れる。それでも何かできることはないかと考え、メアリーを彼女の自宅で脅迫する。
フランクはその後うまく逃げて、チューリッヒ市内で逃亡生活を続けるが、最終的には逮捕される。メアリーは、収監されたフランクに面会するようになる。
この2人の不思議な関係が、物語の縦軸となる。
メアリーがフランクに対して最初に抱いた感情は、当然ながら恐怖であり、その後、面会に行ったのもその恐怖を和らげるためではあった。しかし一方で、脅迫時に彼から言われた「(未来省は)やれることを全てやっていない」という言葉は彼女の中に残り続ける。
メアリーは何故フランクと面会するのか、メアリーにもフランクにもその理由ははっきりとは分からないまま、この面会は2人の習慣となっていく。
次第にフランクは、刑務所の外にも行けるようになる(就労だかボランティアだかでだが、アルプスの山へ訪れることも可能で、門限さえ守れば結構自由そうな雰囲気がある)。
フランクに誘われて、メアリーはアルプスの山に動物を見に行ったりもする。
ついにフランクの刑期が終わると、彼はチューリッヒ市内の組合住宅で暮らすようになり、そうなってからもメアリーは定期的にフランクと会い続けた。
しかし、フランクには悪性腫瘍が発見され、メアリーは彼が亡くなるまで交流を続けることになる。メアリーはフランクのホスピスにおいて、かつて死別した夫との最後の日々を思い返すようになる。
メアリーは、未来省の長官として多忙な日々を送り続けるわけだが、フランクとの交流、そして彼の死を通じて、自分がかつて経験したある種のトラウマ(つまり夫の死)と再度向き合うことになる。メアリーが未来省トップから離れたあとも物語は続くが、彼女の第二の人生の始まりまで物語は描いていくことになる。
メアリーとフランクの個人的な物語は、この作品の本題である、人類がいかに気候変動に立ち向かうかという物語とはあまり関わりがない。むろん、メアリーとフランクに人生は、気候変動に大きな影響を受けたものであるが、メアリーにとってフランクとの面会はあくまでもプライベートに属するものだし、フランクの脅迫は表立ってメアリーに政策・仕事に影響は与えていない。しかし、ともすればマクロな話一辺倒になりがちなテーマの中で、彼らの物語が、個人に着目する視点を与えてくれる。
テロ
気候変動にいかに対応するか、本書が提案するのは、氷河の融解を食い止める技術であったり、炭素回収へのインセンティブとなる金融政策であったりするわけだが、地味に効果をあげているのが、実はテロである。
ある時期に集中的に富裕層の個人ジエットなどを対象とした攻撃が行われ、航空機需要がガタ落ちするのである。
これの犯人は不明である。
なお、未来省の中には汚れ仕事を担当する裏の部署が存在することが示唆されている。ある時期に、メアリーは、この部署を取り仕切っている部下からその存在を示唆されるのだが、これはメアリーが言うように迫ったからであり、この部下は、こういう部署の存在はトップが知らないことこそが重要なのだといって、その詳細は決して明かさない。
そして、基本的に未来省のことは、メアリー視点で描かれるので、読者もそれ以上のことは分からずじまいである。
テロ、ということでいうと、フランクによる脅迫事件以外にも、未来省庁舎への爆弾テロなどが起きる。この際、メアリーはスイスのシークレットサービスの手によって、アルプスへと避難させられる。登山経験のない彼女は辟易するのだが、最終的に、山中に隠された空軍施設でスイス内閣の大臣たちと面会することになる。未来省だけでなくスイスにある国連機関が攻撃を受けていて、これに対して、スイスは「スイスへの攻撃だ」と徹底抗戦の姿勢を示したためである。
これはメアリーにとっても未来省にとってもスイスにとっても転機になる出来事として描かれている。
他には、ロシア人によって未来省の幹部職員が暗殺される事件もある。
本作の中のロシアは、基本的にプーチン失脚後のロシアであって、国際的な枠組みに基本的に強調してくれる、良いロシアとして描かれるが、それをよく思っていない守旧派もいて、そちらの仕業、という話
前半は、氷河の融解をどうやって阻止するかという話が、技術的な話としてはわりと中心で、氷河と地面の間にある水をくみ上げて、氷河が滑り落ちるのを阻止する、という策をやっている。
巻末の坂村健の解説でも触れられているが、本書は、原子力への言及が少ない。
というか、温暖化ガスを減らすにあたって、エネルギー問題をどうするかはかなり重要なファクターなはずだが、ほぼ「クリーンエネルギー」の単語だけで濁している。
クリーンエネルギーの内実は、少ない言及から察するに、太陽光発電と思われる。
インドでは大規模な太陽光プラントができたというような話が書いてあった気がする。
エネルギー問題より、空気中からの炭素除去技術とかのイノベーションとかについての言及が多い。
核融合については、本作のタイムスパンの中では実用化されない、という見込で外されたのだとは思うし、作中の未来省があんまり検討していないのもそのせいかと思う。
通常の原子力については謎といえば謎。
アメリカの原子力空母への言及はあるのだが、これは南極の基地として使われるようになる。
航空機や船舶も、電力飛行船や電力船に移行していて、主に太陽光で賄っているっぽい。
動物保護
後半からは、かなり動物保護運動への言及が増える。
生息回廊やハーフ・アースプロジェクトなど(いずれも実在するプロジェクト)
物語の後半の年代では、地球全体の人口自体が減少フェーズに入っている模様。
そういえばキム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2も動物保護的なイメージが使われていたなーと思うので、ロビンスンの好きなモチーフなんだろうな、と思う。
まあ、メアリーとフランクがアルプスに野生動物見に行くシーンも、効いているのかなとも思う。
ポスト資本主義
本作で一番中心的に描かれる気候変動対策は、カーボンコインである。
空気中の炭素を回収するとその量に応じて発行される通貨で、炭素回収へのインセンティブとするものである。これと炭素税の組み合わせで、石油資源を負債化させる(燃焼させると損する。採掘をやめると得する)ようにもっていく。
金融理論的には、量的緩和政策の一種であり、MMTも作中に出てくる。
連邦準備銀行や欧州中央銀行、中国財政部に、いかにこの政策を実行させるか、というのがメアリーと未来省の腕の見せ所となってくる。
未来省では、既存のSNSに代わる分散インターネット的な仕組みを構築する。ネットワーク上の個人情報を個々に管理できるブロックチェーンで、ここに決済システムを組み込むことで、グローバルな電子通貨システムを生み出すのである。
カネの流れを完全に追跡可能にして、は富裕層の「逃げ道」を防ぐのに用いられる。
カーボンコインで何かしらズルされるのを防ぐというのもあるが、それ以上に本書では、貧富の格差を縮小させることも目的として描かれる。作中では「マルクス主義DX」なる単語も出てくる。
経営者と従業員の賃金格差を10対1まで縮減させる政策とか。
また、一部インフラについては国有化の方向に舵が切られ、また、様々な組織が協同組合化していく。
パリ占拠(2030年代のパリ・コミューン?)であったりとか、アメリカでの学生ローンをめぐるストや中国の十億人労働者による天安門デモなどが世界的に連鎖して発生したりとかいったエピソードも出てくる。アフリカ連合による鉱山の国有化エピソードとか。
人間以外の何かによる一人称で語られる箇所が何カ所かあったりする(光子、暗号、市場など)。
鍵括弧なしで、対話篇のように描かれている節がいくつかある。
未来省の会議などの議事録、という体裁の文章も何か所か。
「読者への課題とする。」とかいった文が出てくる節もあった。
〈2000ワット社会〉、新しい様々な指数、認知エラー、ジェボンズのパラドックスなどなど……
(タイムリーにこんな記事。
国連報告書“国民の豊かさ”日本24位 世界は格差拡大し二極化 | NHK | 国連「人間開発指数」は、本書でも言及があった気がする。それにしても1位がスイスというのがまたなんとも)
1節で完結する掌編小説的なのもたくさんある。
あと、場合によっては、語り手が同じなのかな、と思わせるものもあるのだが、固有名詞が出てこなかったりするからよくわからない。
色々なエピソードがあるが、
難民の話が何回か出てくる。北アフリカあたりからスイスへ移動してきた人・家族の話。結構面白かった記憶。
ダボスに集まってる富豪たちが突如軟禁されて「再教育」を受けるエピソードも
ロサンゼルスで大洪水が起きて、語り手がカヤックに乗って、遭難してる人を救助してく話とかもあった。同じように船持ってる人たちが協力し合って、高速道路まで連れていくという。これも面白かった。
かなり最後の方、メアリーがもう退職したあとだったと思うが、「〈ガイア〉の日」という、全世界で同時に歌うイベントなのもあった。未来省は、金融政策とかだけじゃなくて、宗教的なものも必要だと考えていた(ただし、〈ガイア〉の日は未来省発のイベントではない)