イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』

2027年のイスタンブールを舞台にした群像劇で、6人の登場人物の5日間を描く。原題は「The Dervish House」で、Dervishはイスラムの修道僧のこと。6人の主人公が住んでいるのが、元僧院であるためこのタイトルだが、宗教、特に神経科学テクノロジーとの関係もテーマの一つ。邦題の「旋舞」も、作中でたびたび言及されているスーフィズムのことを念頭に置いているのだと思われる。
イアン・マクドナルドの長編を読むのはイアン・マクドナルド『火星夜想曲』 - logical cypher scape2以来で、『火星夜想曲』がすこぶる面白かったので、それと比べてしまうとというところはあるが、こっちはこっちで面白い。
読んでいると、イスタンブールに行きたくなる、いや、まるで行った気になってしまうような、描写の濃密な作品でもある。


すでに述べたとおり、6人の主人公がいて、それぞれの物語が展開されていく。
(1)ネジュデット・ハスギュレル
月曜の朝、トラムで自爆テロが起きる。偶然その場に居合わせたネジュデットは、その直後から、ジンやフィズル(緑の聖人)の幻覚を見るようになる。
(2)ジャン・デュルカン
大きな音がすると心臓が止まってしまうという疾患を持つ9歳の少年ジャンは、あまり外を出歩けない代わりに、鳥、鼠、蛇と形態を変化させることのできるボットを走り回らせている。自爆テロの現場にボットを急行させた彼は、現場を見張る不審なドローンを発見する。
(3)ゲオルギオス・フェレンティヌ
行動経済学者であるゲオルギオスは、すでに大学も離れ、ひっそりとした老後をおくっているのだが、一方で、彼独自の都市研究をもとにテロの予測を行っている。ジャン少年から話を聞いた彼は、大規模なテロ計画を予感する。
(4)アドナン・サリオーリュ
大手ガス企業でトレーダーとして働くアドナンは、ガス取引を用いた大規模な詐欺「ターコイズ計画」をまさに実行に移すべく、行動を開始する。
(5)アイシェ・エルコチュ
宗教美術専門の古美術商であるアイシェは、探してほしい一品があるという話を持ちかけられる。それは「蜜人」と呼ばれるオカルト的なブツなのだが、彼女はそれを引き受けること決める。彼女はアドナンの妻で、夫のターコイズ計画にも協力している。
(6)レイラ・ギュルタシュリ
田舎からイスタンブールへとでてきてビジネス専門学校を卒業したレイラは、自爆テロによる交通渋滞で就職面接の機会を逃す。そのタイミングで親族から協力してほしいと声をかけられる。画期的なナノテク技術を開発したという研究者のための金策を行うことになる。


舞台となる2027年のトルコは、数年前にEUへの加盟を果たしたところ。ナノテクと呼ばれる技術が席巻している。ナノテクはいろいろなところに使われているっぽいが、主に出てくるのは、神経系に作用する服用型のナノ(カフェイン剤みたいな感じで使っている)や、ボット(ジャン少年のボットは、ナノサイズに分解して形態が変形する)である。また、ジェプテップと呼ばれるスマホないしタブレットみたいなものをみんな持っている。
レベル3ないし4の自動運転車が普通に使われている。
トヨタ車が何回か出てくるのと、日産のドローンとサムスンのドローンがそれぞれ登場していた。あと、インジェン社の名前が一回出てきた。
トルコを舞台にしているので当然ながら、固有名詞もトルコ語であり、個人的にはそのこと自体は別に苦ではなかったが、覚えにくいのは確かなので、読みはじめた時はそこが引っかかりになるかもしれない。
エスキキョイとかカドゥキョイとか、キョイのつく地名が多い)
また、イスタンブールにおいて、ギリシア人、クルド人アルメニア人、ロシア人あるいは各宗教・宗派などがどのように思われているのか、というのがある程度わかっていた方が読みやすいかもしれない。
クルド人やロシア人のことはなんとなくわかるが、ギリシア人やアルメニア人のトルコでの扱いとか最初は全然わからないが、わりと重要なので。


ものすごくざっくりいってしまうと、西欧・科学・市場主義みたいなものとアジア・宗教・神秘みたいなものとが対比されているのだけど、対立的に描かれているかというと必ずしもそういうわけではなく、混在した形で描かれている。


(1)ネジュデット
彼は兄とともに最近になって、元僧院へと引っ越してきた。兄は裁判官を名乗り、地域の揉め事を仲裁する教団組織を作っている。
ネジュデットは、解離性人格障害か何かで、過去に妹に火をつけるということをしているヤベー奴。兄が彼をかばい、かつ社会復帰させるために、イスタンブールへと引っ越してきた。
今は、ビジネス救済センターというところで働いており、ムスタファという同僚がいる。トイレで燃える子どもやジンが見えるようになったと訴えるネジュデットに対して、「そりゃテロのトラウマだよ」と言ってくれる。
テロ以後、自分以外にも、超自然的なものが見えるようになったといっている人がいることを知り、会いに行くのだが、その際にもムスタファはつきあってくれる。いい人。
後半、テロリストに誘拐される。


(2)ジャン
耳は聞こえるのだが、大きな音で心臓が止まってしまうので、親から特殊な耳栓を着用させられ、特別支援学校に通っている。ボットを使った少年探偵ごっこをしている中で、ゲオルギオスと親しくなる。
自爆テロ現場で、怪しいドローンを見つけたことで、一気に少年探偵ごっこに熱が入り、次々と調査を進めていき、その情報をゲオルギオスへと伝えている。
ゲオルギオスは危ないからと止められるが、むろん言うことを聞くわけもなく、ネジュデット誘拐の解決にも乗り出す。
ジャン少年パートは、少年探偵っぷりが楽しい(少年探偵もちものリストとか出てくる)が、印象に残ったのは、一人で街に繰り出したジャンが、街路の坂の上からボスフォラス海峡を見下ろすシーン。彼の解放感とイスタンブールの風景が一気に伝わってくるいいシーン

(3)ゲオルギオス
彼はトルコに残る数少ないギリシア人の一人で、広場の喫茶店でくだを巻いている、同じギリシア人何名かとお茶仲間である。
このギリシア人仲間の中には、諷刺詩を書いている者がいるのだが、当初、同じ広場に住んでいるグルジア女性について書くかどうかを悩んでいる。で、結局書くのだけど、彼女を売女だと罵るもので、それによってギリシア人への風当たりをグルジア人へと向かわせようとする意図があるらしくて、トルコにおけるマイノリティの緊張関係が垣間見えるエピソードなんだけど、全然本筋ではない脇の話なので、わかるようなわからないような感がある。
さて、この老学者だけど、学生時代にアメリカの経済学者と論争をしたりして注目を集め始め、トルコの知識人グループと交流を持つようになる。そこで、アリアーナと出会う。彼女は政治運動のリーダー的存在であり、いわば、恋と革命の青春を送っていたのである。
ただ、この政治の季節において、先祖代々イスタンブールに住んでいたゲオルギオスの家族もギリシアへ戻るなど、ギリシア人をはじめとする非トルコ人にとって厳しい時代だったようである。
彼は、お茶仲間の一人から彼女がイスタンブールに戻ってきているという話を聞かされる。
一方で、トルコの情報機関MITから、シンクタンクに参加してほしいと声をかけられる。
ゲオルギオスパートは、彼がジャン少年から話を聞いたりシンクタンクで意見交換したりする中で、テロ事件の真相に気づいていく部分と、アリアーナに対する思い出と現在に関する部分とが混ざって展開していく。
彼は、ギリシアに戻らずトルコで大学教授になったわけだが、定年退職よりも前に、トルコ人教授にポストを奪われている。
家族も恋人もトルコを去り、さらに時を経てポストを失った彼は、次第に自宅の近辺をのぞけば外出もせず、蔵書の多くも処分して、ミニマルな生活しかしないようになっていった。
その彼がジェブテップの中に、イスタンブールについて、様々な観点から描かれた地図を何枚も持っていて、イスタンブールを多層的に見ることを通して、推理していく。
そうして、ガス供給網を用いたナノテクテロの計画を予見するのである。
トラムでの自爆テロはその予行演習であり、ネジュデットが見るようになったジンやフィズルは、その際に散布されたナノによる作用だったのだ。
人々を殺すのではなく、人々が宗教的な意識を持つように脳の神経回路を繋ぎ直してしまうというテロだ。
ゲオルギオスは、このテロ計画についてシンクタンクで提言するともともに、シンクタンクのリーダーであり、かつて自分を追い落とした男への逆襲を果たす。
その一方で、ゲオルギオスは、アリアーナを見つけ出し、夕食の約束を取り付ける。そこで彼はある罪の告白をする
老学者の過去への決着にカタルシスがある一方で、手に入れられなかったものへの寂寥もある(彼はジャンを実の孫のように感じていたが、ジャンの親との関係を悪くしてしまう)


(4)アドナン
彼は、ガスのトレーダーだが、かつて兵役の際にある計画を思いつくのである。
西欧諸国は、アゼルバイジャンからのガスをトルコ経由で輸入している。一方、イランからのガスは、放射能汚染の危険性があるため、ルートが封鎖されている。ところが、ある施設で切り替えると、イランのガスを引き込むことができることを知ったアドナンは、イランからの安いガスを、アゼルバイジャンからのガスの高い価格で売るという詐欺計画を発案するのである。
この計画を実行するために、彼はある富豪から資金提供を受ける必要があって、そのパーティへと赴く。そのパーティの席で、アタテュルクを批判してみせるという一幕がある。訳者あとがきによると、トルコではアタテュルクについて否定的なことをいうのは許されない空気があるらしく、ここでアドナンは、ひと味違う男だということを見せつけて富豪の信頼を得るというシーンになっていた。
ところで、そういえば、敬称の「~さん」に「ベイ」や「ハヌム」といったルビがふられていた。
当初の計画では、ターコイズ計画を実行するだけだったのだけど、仲間の一人が、オゼルの負債隠しについての情報をつかんでいることがわかり、アイシェの件で司法取引にこれを使い、オゼルを崩壊させてしまう。
彼は、ターコイズ計画を一緒に進めている仲間を、子供時代に見ていたアニメの名前で呼んでいたり、サッカーが非常に好きだったりしている。アドナンパートは、トルコとその周辺国のガス流通とか、彼の持っている経済観とかが主に描かれているが、トルコのサブカルチャーの面もある程度担っているのかも。
アーセナルとの試合で、審判がロシア人なのに悪態ついていたりとかのシーンもある。
彼はトレーダーで、バクーのガス市場と西欧のガス市場の取引開始時刻の差から生じる価格差を使ってもうける仕事で、「金ってのには匂いがあんだよな~」みたいなことを思っている


(5)アイシェ
元僧院で、古美術商としての店舗を構えている彼女のもとに、「蜜人」を探してほしいという破格の依頼がくる。
数百年も前に、死期を悟った金持ちが、蜂蜜以外口にしなくなり、蜜でラリった状態で亡くなり、遺体は蜜で満たされた棺に納められた。蜜漬けのミイラは、その後、万病の薬などと見なされるようになるとともに行方がわからなくなり、伝説的なブツとなる。
ところで、この蜜人について説明するパートは、蜜人になった金持ちを「あなた」という二人称で呼ぶ独特な語りになっていた。
依頼主は、蜜人がイスタンブールにあることは確実だという。藍シェは、師匠である老女や学生時代の友人、同業者などを頼りながら、探っていく。
彼女の師匠は、街と住人の心理みたいなことをを研究している人で、ゲオルギオスが誘われたシンクタンクに彼女も参加しており、ゲオルギオスに対しても重要な情報を提供した。
彼女の友人は古書店を経営していて、その店舗自体が、異なる時代の建築様式が混在したイスタンブールの歴史そのものといった建物。
蜜人は、スーフィズムの教団によってイスタンブールのどこかに隠されたという仮説にたどり着き、その教団を研究している男のもとを訪ねる。彼は、イスタンブールの都市計画を担った建築家が、スーフィズムの教義に基づき、神聖な文字をイスタンブールの建築の中に隠したのだという考えにとりつかれている。彼の家では、イスタンブールの地図や文献が糸で結ばれ、彼の思考を浮かび上がらせている。
まあ完全にオカルティックなヤバい感じの人なんだけど、彼の探求に、アイシェは自分の専門でもある細密画が関わっているのではないかと考える。文字の中に文字が書かれているミクロな美術である。
アイシェはそうやって蜜人へと迫っていく。
「金を儲けるぜ」というタイプの夫アドナンに対して、宗教美術なしには生きていけないというタイプのアイシェは、趣味や興味の範囲は正反対なところがある(アドナンは大金を手に入れたら湾岸エリアの屋敷を買おうと思っているが、アイシェは乗り気ではないなど)。
しかし、ある種のアグレッシブさみたいなところは、よく似た夫婦でもある
ターコイズ計画と蜜人、それぞれ目標となっているものは違う、その達成へとがんがん突き進んでいく感じ。
アイシェは、ターコイズ計画に協力もしているし(一方で、アイシェは蜜人の話をアドナンにはしていない)。


(6)レイラ
新米マーケッターである彼女は、親戚のお兄ちゃんが大学の友人アソと立ち上げたベンチャーに投資してくれるところを探す。
アソたちが開発中の技術というのが、本作の中では一番SF的なネタなのだけど、この技術が作中世界で実際どのように使われていくのか、というところまでは至らない。
ナノテクについて全然わからないレイラだが、次第に彼らの技術についてよどみなくプレゼンできるようになっていく。アソに惹かれているのかな、というようなところもちょっとある。
ちなみに、アソはクルド人
一方で、実は投資を募るにあたってネックがある。起業にあたって彼らは、親戚の一人から出資を受けたのだが、その際、会社の50%の権利を与えてしまっているのである。
投資のリターンとして、会社の権利を投資先に譲るというものがあるので、この権利を取り返さないといけない。その権利の証明が、ミニチュアのコーランの半分。
で、この親戚のおじさんが、ろくでなし・穀潰しな感じの人で、ヤクザっぽいところから金借りてドロンしてしまっている。彼の持ち物は大家が処分してしまって、肝心のコーランの半分も見つからない。
レイラは、投資してくれそうな企業などを巡ってプレゼンしつつ、アソにビジネス映えする服装や靴をそろえつつ、さらにそのコーランの半分も探し回る、という感じで、イスタンブール中を走り回ることになる。
なので、アソたちが開発した技術そのものよりも、レイラの奮闘がプロット的には主となってくるパートになっている。
アソたちは、ナノテクの一種として、DNAの非コード領域に情報を書き込む技術を開発している。これを使うと、ライフログがまるまる全部自分の体の中に書き込める上に、様々な技能などを記録しておき、それを読み込むことでいろいろなできるようになる。世界を革命してやるぜ、とアソは息巻いている。
レイラパートは、あまりほかのパートとの関わりが薄い状態で話が進んでいくのだけど、途中でオゼルが出てきて、最終的には、アドナン・アイシェパートと合流する。
アイシェが、細密画とDNAに書き込まれる情報とを類比的にとらえるところとかがあって、宗教的なイスラム美術と最先端のナノテクとが融合するイスタンブール、みたいなのが、この作品の描こうとしていることの一つなのかなーという感じはするけど、どれくらいうまくはまっていたのかはちょっとよくわからない。