キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』

生物学の分類学の歴史をまとめた読み物的な本であり、また科学的世界観と日常的世界観の齟齬について問題提起する本でもある。
筆者は、分類学の背後に「環世界センス」を見て取り、これが科学的世界観と日常的世界観の対立を引き起こしていると考える。「環世界センス」とは、人間が生来持っている生物の特徴を見て取り、それを分類しようとする性向・能力のことをさして、筆者が使っている。訳者である三中信宏の言葉を使えば「分類思考」とか「心理的本質主義」とかになるのではないだろうか*1。ちなみに、訳者によれば、筆者は単に「Umwelt」としているところを「環世界センス」と訳したらしい*2
筆者は、生物学の学位をもっている科学ジャーナリストで、夫も生物学者である。なので、科学的な分類がもっとも正しいと考えていた。しかし、本書の執筆を通じて、そのことへ疑念を抱くようになっていった。
分類学史って全然よく知らなかったので、それについて分かりやすくまとめられていて、その点非常によかった。


四部構成になっていて、第一部はリンネ、ダーウィン、マイアを取り上げ、第二部では「環世界センス」なるものを筆者が確信するようになった文化人類学認知心理学の議論が紹介される。第三部では、数量分類学、分子分類学、分岐学という20世紀後半の分類学史が描かれる。第四部では、科学的世界観と日常的世界観の対立に対する筆者の考えが述べられる。

第1章 「存在しない魚」という奇妙な事柄
自然の秩序
第2章 若き予言者
第3章 フジツボの奇跡
第4章 底の底には何が見えるか
直感の輝き
第5章 バベルの塔での驚き
第6章 赤ちゃんと脳に損傷を負った人々の環世界
第7章 ウォグの遺産
科学の重圧
第8章 数値による分類
第9章 よりよい分類は分子から来たる
第10章 魚類への挽歌
直感の復権
第11章 奇妙な場所
第12章 科学の向こう側にあるもの

第2章 若き予言者

リンネについて。
リンネの時代(18世紀)のヨーロッパは、人々の関心が生物学・博物学に向いていた時代であった。世界中から様々な珍しい動植物の標本が送られてきて、プロとアマの垣根もなく、多くの人がコレクションを作っていた。
しかし、一方で分類は混乱していた。そんな中に登場したのがリンネだった。
リンネというのは「環世界センス」が非常に優れた人だったという紹介のされ方をしている。一種の天才で、ベテランの分類学者でも判断が迷うようなものでも、少し見ればすぐに、どのように分類すれば分かったという。
この当時の、というか20世紀後半まで続く分類学の方法というのが、およそ科学的ではない、というのがこの本を読んでの最初の驚きだったのだが、つまりは分類学者の経験とカンでなされているのである。だから、分類学の論文でも、何故その生物をそのように分類したかという根拠はあまり書かれていない、らしい。
リンネは、とにかくその才能が人並み外れてすごかった。
そしてもう一つ、そのことについてすごい自信家だった。自分の能力は神に選ばれた能力だと言っていたらしいし、とにかく自画自賛しまくっていたみたい。
実際、それに足るだけのすごい人だったようだけど。
リンネの偉業は、「二名法」を定めたこと、「リンネ階層分類」という体系を定めたこと、さらに『自然の体系』という本を記したことである。
「二名法」は、名前を二部構成でつけるというもの。それまでは、名前をつけるのに制限がなくて、とてつもなく長い名前をつけたりする例もあった。ただ、二名法自体はリンネのオリジナルではなく、それ以前にも考えた人が多くいたのだが、ルール化したのがリンネ
「リンネ階層分類」は、界、門、綱、目、科、属、種っていうあれ
『自然の体系」では、自ら定めた上述のルールをもって、実際に全ての生物を分類して著したもの。

第3章 フジツボの奇跡

つづいてダーウィン
ビーグル号の航海から帰ってきたダーウィンには進化論の着想があったが、まだ発表するには至らなかった。あまりにもセンセーショナルな内容だったし、また進化の前提になる個体変異の例をダーウィンはまだ見出していなかった。
そこでダーウィンは、進化論とは全く関係ないフジツボの研究を始める。フジツボはマイナーな生物で、これについて研究しても、進化論のようなセンセーションなことにはならないだろうと思ったからだ。しかし、ダーウィンは思っていた以上にフジツボにのめりこみ、当初1年程度と考えていたのが8年も費やした。
しかし、その成果として、ダーウィンは個体変異をフジツボに見出すことになった。
一方、ダーウィンフジツボの分類に悩まされた。古今東西フジツボを集めて分類をはじめようとしたのだが、それまでになされてきた分類もあてにならないし、ダーウィン自身も全く混乱をきわめていた。というのも、ダーウィンはすでに、進化について知っていたから、種は不変であるという当然の前提をすでに持っていなかった。そのような状況で、種を特定し、分類するというのは困難極めた。
ここに筆者は、科学的分類と、環世界センスに基づいた直観的分類との対立の始まりをみる。
ダーウィンは進化論によってこれらが統合されることを夢見たようだが、実際にはこれが分類学の混乱の始まりだった。
科学は進化が正しいことを示している。そして、進化にもとづいて生物を系統樹に位置づけるのが科学的分類が目指すところだ。
一方で、従来の分類学は、環世界センスという直感に基づいて生物を分類してきた。環世界センスは、進化など知らず、種が存在することを前提している。

第4章 底の底には何が見えるか

つづいて、エルンスト・マイア。
ダーウィン以後、分類学は変化したかといえば、そうではなかった。分類学は、進化分類学と名前を変えたけれど、それは進化も念頭において分類しましょう程度の話で、分類学者の直感に頼っている点では変わりがなかった。
変化としては、リンネの時代と違って、分類についてプロとアマの違いが確立し、分類は分類学者に占有されていた。そして、他の生物学の分野が「近代科学」へと変化していくのに対して、分類学だけは古色蒼然としたままだった。
このような分類学の現状に対して、1920年代には実験分類学という試みが現れ、植物を分類するためのCG実験を編み出したが、これは生態学には引き継がれたものの分類学には大した影響をもたらさなかった。
また、トマス・ハクスリーの孫でオルダス・ハクスリーの兄であるジュリアン・ハクスリーが『新たな体系学』なる本を著したが、これは単に分類学自己批判をまとめたものだったので、やはり分類学に変化をもたらすことはなかった。


この当時、分類学者の間にあった問題は、細分主義者と統合主義者の対立だった。
細分主義者は、種をなるべく細かく分けようとする。
統合主義者は、種をなるべく大きく分類しようとする。
よく生物種の数が、すごい差のある数で出てくることあるけど(数百万〜数千万種いると言われています的なあれ)、この対立のせいなのか、ということが分かった。
例えば鳥について、細分主義者は48目に分けたが、統合主義者27目しか認めない。超・統合主義者は鳥はそもそも独立した綱ではなく、爬虫綱に属すると主張した。ユーラシア大陸の哺乳類について、細分主義者は数千種、統合主義者は700種以下だという。これが、あらゆる生物について言われている。
それもこれも、彼らが直感という主観的なものを使って分類を行っているせいで、どうにか科学的にしなければならなかった。
(細分主義者の説明で、ナボコフが出てきた。昆虫学者でもあったナボコフは、誰も知らない新種を発見して名付けるのが痛快なんだ、みたいなことを言っているらしい)


さて、エルンスト・マイアである。
ドイツ生まれで、二次大戦後にニューヨークにやってきて、その後100歳まで生き、晩年はもはや伝説的な存在とでもいえる、影響力の大きい分類学者だったらしい。
彼もまたすごい自信家であり、分類学に確固とした地位をもたらすために戦ってきた。
彼がやろうとしたのは「種」を定義することだった。
彼は、ニューギニアでフィールドワークをしていたとき、原住民と鳥の分類が一致することに気付いことで、種が実在するということを確信した。
そして、種を交配が可能かどうかで定義する、という教科書にも載っている定義を提唱した。
しかし、マイアの種の定義は、むしろ「種問題」として「種とは何か」という大議論を引き起こすきっかけとなってしまった。


マイアは、分類学の混乱した状況を乗り越えるために、論文を書くときのルールを書いているのだが、これが結構ひどい。こういうのをルール化しなきゃいけないような状況だったのかと思うと。
例えば、感情的な表現を避けるとか、個人攻撃をしないとか、大事なことだけど、論文書くときの注意としてわざわざ明示しないといけなかったんですか、的な。

第5章 バベルの塔での驚き

マイアらが陥っていた混乱は、彼らが「環世界センス」に囚われていたからだ、と筆者は指摘しつつも、「環世界センス」とそれを維持しようとした分類学者らを擁護していく。
それはマイアと同じく、多くの非西洋文化でも、分類が共通していたからだ。
筆者はもともと、世界各地にある風変わりな分類を集めて本にしようと考えていた。そして実際、調べてみると、非常に奇妙な分類が見つかった。ところが、さらに調べてみると、様々な一致が見られることが分かってきた。1960年代頃からの人類学の調査によって全人類に共通する分類カテゴリーがあることが判明している。さらに、二名法を使って命名されているのも共通している。


また、他にも共通性として、スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール』 - logical cypher scape2でも取り上げられていた
「音象徴」があげられる*3
おなじみのブーバ・キキ仮説の話と、『歌うネアンデルタール』でも紹介されていたバーリンの実験(ペルーの先住民の鳥と魚の名前を、何も知らないアメリカの学生に聞かせて、鳥か魚かあてさせる奴)


民俗分類の属の上限が600であること
人間の記憶の限界が600あたりにあるらしい。試しに、著者は自分の夫と友人の生物学者にそれぞれ、覚えている限りの属名をあげてもらうように頼んだ。3、4時間かけて、やはり約600が限界だった。その後、さらに思い出せたのにもかかわらず、そのときに思い出せたのはそこが限界だった。


また、 民俗分類でも科学的分類でも、1属1種がもっとも多く、1属2種、3種となっていくにつれて少なくなる。これを「ウィリスのカーブ」と呼ぶ。
などなど、生物の分類には全人類で共通しているルールがあるのである。

第6章 赤ちゃんと脳に損傷を負った人々の環世界

つづいて、認知心理学的な話
脳に損傷を負った人の例として、人工物の見分けはつくのに、生物の見分けが全くつかなくなったしまった症例があげられる(逆もある)。
また、乳児は生物に興味をもつことや、恐竜やポケモンの分類に血道をあげる「恐竜期」や「ポケモン期」なども紹介される。
こうした事例から、環世界センスの実在を論じている

第7章 ウォグの遺産

環世界センスについて、進化的な観点から論じている。
生物の特徴を見分けて、分類する能力は自然の中で役に立っただろう。人間以外の動物でも分類のような能力があるという。例えば、アメーバですら「食べられるもの」とそうでないものの分類をしていると主張する者もいる。
また、筆者が仮想的な石器時代のストーリーを作って、人類の祖先にとっても有用な能力であっただろうと論じている。
筆者は、こうして「環世界センス」が人類にとって重要なものであることを主張する。

第8章 数値による分類

話は、分類学史に戻る。
1950年代、カンザス大学のロバート・ソーカルが新しい分類学を確立させていく。のちに数量分類学と呼ばれるようになる。
ソーカルは、生物学専攻ではあったが分類学の素養がなく、幼い時に生物採集などをして環世界センスを磨いていたわけでもなかった。また、シカゴ大学を出ているのだが、そこで数学の素養を身につけていた。の
カンザスの同僚たちと対立したソーカルは、数学・統計学分類学をやることができるという賭けを行った。
ソーカルは、形質をコード化してひたすら類似度を計算した。
従来の分類学では、たくさんある形質の中から重要だと思われるものを見つけて、分類をおこなう。むろん、それを見つけるのも分類学者の主観である。そのような主観的な分類に反旗を翻したソーカルは、形質の重みづけを行わず、あらゆる形質を全て合算して全体的類似度を出す。
その結果、従来の分類学による分類とほぼ同じ分類を導出することに成功し、さらには従来の分類学者が見逃していた点まで発見したのである。
ほぼ同じ頃、イギリスではスニースという研究者が、最近の分類に頭を悩ませていた。従来型の分類は、既に繰り返し述べられたように環世界センスに基づいた直感で行われていた。それは人間が見なれた生き物たちに対してはうまく発揮される能力だが、最近のような、人間から見ればどれも似たような、あるいはどのように分類すればいいか判別しにくい生物については、発揮しがたいものであり、細菌の分類はうまくいっていなかった。
そして、スニースはソーカルと同様の発想に辿り着き、のち2人は出会い、共著を書く。
数量分類学は、分類学に客観性をもたらした。
一方、問題点もあった。数量分類学は、進化的な観点が欠けているのであり、真の分類ではないのではないかとか、コード化する前に形質をリスト化する作業は結局主観なのではないかとか。
ただ、そうした問題以前に、従来の分類学者は、コンピュータに分類をまかせるような数量分類学は的外れだと考えていた。
数量分類学は、分類学に客観性をもたらしたという点で重要だったが、分類学全体をすっかり変えるには至らなかった。

第9章 よりよい分類は分子から来たる

次に、従来型の分類学に攻撃を与えたのは、分子体系学だった。
ポーリングは、ズッカーカンドルとともに、ヘモグロビンを研究した。当時、ヘモグロビンは化学的には解明されつくされていて、つまらない物質だった。しかし、彼らは人間だけでなく、ゴリラやチンパンジーのヘモグロビンと比較することで、ヒトはゴリラの変異型だと主張した。これは、分類学者の逆鱗に触れた。
分子を使った分類学は、しかし、今までの分類学にはできないことができるようにした。それは、ウシと無脊椎動物とかブタと魚とか、明らかに異なっていて類似している点が全くないような生物同士を比較することである。
分子分類学は、従来の分類学が作った系統樹とよく一致した系統樹を作ることができ、さらには従来の分類学では作ることのできなかった、あらゆる生物を含んだ包括的な系統樹を作ることを可能にした。
彼らは、例えば菌類は植物よりも動物に近いというようなことを主張して、従来の分類学者を挑発した。
さらに、彼らは「隠蔽種」を発見した。見た目では同種だと思われていたのが、DNAを調べることで別種だと判明した事例である。
これのもっとも重大な例が、カール・ウーズによる古細菌の発見である。界、というもっとも大きな分類が、まるごと発見されずに隠れていたのである。


第10章 魚類への挽歌

最後の打撃は、分岐学の登場だった。
分岐学は、1950年にへニックというドイツ人が発表した著作がもとになっていた。しかし、これは当時注目を浴びず、1966年になって再び注目をあび、70年代、80年代を通じて大論争を巻き起こす。
分岐学は、姉妹種同士で共有された派生形質と、それぞれ固有の派生形質と区別して、固有の派生形質を用いて、系統樹関係を推論していく。これによって、進化的な系統樹を元にした分類を可能にする。
分類群を、ギリシア語の「枝」をもとに「クレイド」と呼び、分類学ではなく「分岐学クラディスティクス」と呼ばれるようになった。
分類学者は、リンネの階層分類を放棄して、系統樹の枝から分類を行う。祖先を共有しているもの同志でグルーピングする。
この一見、妥当そうな方法が実は破壊的な結末をもたらす。
そのもっとも代表的な例が「魚類」という分類の放棄である。「魚類」の中には、サケのような普通の魚と肺魚が含まれるが、サケと肺魚をともに含むような系統樹は、実は他の動物も全て含んでしまう。
分岐学者は他にも多くの分類群に次々とだめをつきつけていった。
こうして、進化分類学者と数量分類学者と分岐学者の三つ巴の論争が分類学を席巻するようになった。

第11章 奇妙な場所/第12章 科学の向こう側にあるもの

最後の2章は、筆者の主張である。
環世界センスは、いまでも生活の中に残っていることなどを指摘したうえで、環世界センスの重要性を改めて主張する。
その上で、科学的分類だけが唯一正しい真実なのではなく、他のあらゆる分類が正しいという立場を主張する。
また、現代において、自然や生物に触れる機会が少なくなってしまったことで、環世界センスを育む場が減っていることを嘆いている。生物についての知識・判断が、プロの学者に委ねられてしまったことで、一般の人たちが逆に生物への興味をなくしてしまっている。それが、環境破壊などの問題にも繋がっているのではないか。生物や自然に対する興味を回復させるために、科学を絶対視するのではなく、環世界センスを大事にしよう、みたいな話


分類学が環世界センスから離れてしまったことと、普通の人が自然への関心をなくしてしまったこととは、因果関係では結ばれていないだろうし、
あらゆる分類が正しいのだ、というのは、科学的分類が絶対ではないの逆張りしようとして逆の極端に振れてしまったような気がするし、
後半の議論は必ずしも一概には首肯できないものの、科学的世界観と日常的世界観って齟齬をきたしているし、一方的に科学的世界観を真理とみなしてしまってもいいのか、というのは分類学に限らず、あちこちで出てくる問題なので、面白い話題だとは思う。
環世界センスってあくまでも人間が進化的に獲得した認知的傾向なので、それをもって種は実在するとはいえないと思うけど


*1:三中自身は特にそういうコメントは残していないが

*2:筆者の述べる「環世界」は、ユクスキュルの原義からは結構離れた独特のものとなっているような気がして、ユクスキュルから触発されたアイデアなんだろうけど、必ずしも「環世界」って名前にしなくてもよかったのではないかと思わないでもない

*3:『歌うネアンデルタール』では、「音共感」という名前で紹介されていた。