三中信宏『分類思考の世界』

生物学哲学の大問題である「種」を巡って、その博覧強記をもって様々なエピソードから描き出した一冊。
というわけで、これは紛うことなき科学哲学の本であり、実際著者も何度も形而上学という言葉を使っているのだけど、哲学という言葉を聞いてこういったものをイメージできる人はあまりいないだろうなあと思うと、ちょっと寂しいかもしれないw
前著『系統樹思考の世界』(三中信宏『系統樹思考の世界』 - logical cypher scape2を参照のこと)では、新しい科学観、方法論として系統樹思考というものが捉えられ、それについて書かれていた。そういう意味で前著もやはり科学哲学の本ではあり、こちらの本はそのような前著との姉妹編ではあるけれど、また趣を異にする本となっている。
この本では既に述べた通り、「種問題」というものがテーマとなっている。
これはその名の通り、「種」とは一体何なのか、という問題である。これは生物学的にも、哲学的にも、古くて新しい大問題なのである。
そしてこれに対するアプローチは、科学史を様々な角度から追っていくものとなる。
科学哲学というと、科学の方法論について論じるメタ科学というのが一般的なイメージであろうし、事実そういうものである。しかし、科学哲学にも色々あって、科学史科学哲学というのもあり、実際の科学の営みの中でどのようにある科学的概念が生まれてきたかといったことを考察していくタイプのものもある。
系統樹思考の世界』が、(科学史的な面も多分に含みつつ)どちらかといえば方法論を示すメタ科学的なアプローチだったとすれば、『分類思考の世界』は、(方法論への視点も含みつつ)どちらかといえば科学史の中で「種」という概念が如何に扱われてきたかを示す科学史的なアプローチとなっている。
さらにいえばこの本は、全体を貫く強いストーリーはなく、わりあいと各章の独立性が高い印象がある。著者の強い主張や論が展開されるというよりは、種を巡る様々なエピソードが紹介されていくという感じで、エッセー的といえるかもしれない。実際、各章での冒頭の導入部分などの文章がうまく、読みやすい。生物学史における色々なエピソードを読んでいくという意味では面白く読みやすいが、一方で本書全体を貫くストーリーや展開を見つけようとすると難しくて読みにくくなる本ともいえる。


さて、種問題である。
このことは前著でも触れられているのだが、それほど深く扱われているわけではなかった。
今度はそれがメインテーマになっているのだから、ワクワクしないわけにはいかない。
まずは基本的な用語の確認ということで、種カテゴリーと種タクソンの区別が触れられる。
種とは何か、あるいは種は実在するのかと問う際、そこで言う種とは、種カテゴリーのことか種タクソンのことなのか、ということがさらに問われなければならない。
簡単に言うと、種カテゴリーというのは種という概念のことで、種タクソンというのはヒトであったりイヌであったり、そうした個別の種のこと。種タクソンの集合が種カテゴリーとなる。というわけで、種カテゴリーに関していえば、それが集合であるという点では論争が起きないが、種タクソンに関して言えば、それが集合なのかどうかという点ですら論争が起きる。
例えば、ヒトという種には、僕やあなたや三中さんといった個体がいるわけだが、ヒトという種タクソンはそうした個体の集合なのだろうか、それともヒトという個物があって、僕たちはその部分なのだろうか(例えば、僕の細胞が僕の部分であるように)。
この個物としての種タクソンというのは、日常的な考えからするとピンとこない不思議な考え方だけれども、ギセリンという学者が、進化論と合致する考え方はむしろこの考え方の方だとして、プロセス形而上学という体系を構築しようとした。
また一方で、生物分類学の体系化を目指した試みとしては、公理系を作る試みもある。これは、ラッセル・ホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』に影響を受けたものである。まさか、この本が生物学にも影響を与えているものだとは知らなかった。


種をわける基準というと、互いに生殖ができないものというのが有名だが*1、これは種カテゴリーの定義のほんの一つにすぎないらしい。
そしてこの基準に対しては、『ロリータ』で有名なあのナボコフが反論している、とか。文学者として有名だけれど、昆虫学者でもあったらしい。
さてこの、生殖隔離基準を主張した学者がマイアであるのだが、彼は、従来の分類学本質主義的だと批判し、ダーウィン進化論を取り入れた新しい分類学の必要性を説いた(時期としては、進化的総合の波が来ていた時代である)。
さてこの本で面白いのは、ダーウィン以前の生物学は本質主義的な思考に支配されていたという歴史観に対して、実はそうではなかったということを提示している点で、こういうところは歴史研究の面白いところだと思う。歴史というのは、時に劇的な断絶を語ることが多いけれど、断絶に見えて連続しているということはよくある*2
それから、科学史としては生物学とマルクス主義との関係についても興味深い。生物学とマルクス主義というとルイセンコ論争が有名だが、こちらも話はやはりルイセンコから始まる。しかしこちらでは、獲得形質の話ではなく、種概念をめぐるいささかマイナーな話が展開される。弁証法唯物論と種実在論との相性のよさが論じられるのだが、これは何も旧ソ連・東側諸国だけの話ではなくて、同じような考え方をしていた学者は西側諸国にもいるのである。
ある科学的な説が、ある時にはマルクス主義という政治的思想と関わりながら出てきたり、あるいはそうではない形で出てきたりするわけで、著者が繰り返し科学史への注目を促すように、科学史を知らないでいると、思わぬところで足を掬われることがあるかもしれない。


さらに哲学的な問題としては、「同一性」とは一体何だ、という話も出てくる。
哲学者ウィギンズによる、ソータルという概念をめぐる同一性の議論や、サイダーの四次元主義の議論といった、ガチ哲学の話も紹介されている。
種を巡って様々な考え方が紹介されていくが、著者の立場としては、種を時空ワームの断片としてみるというものになるようだ。実在するのは系統樹としての巨大な一つの時空ワームであって、種というのはそれらの切片であり実在するわけではない、ということになるだろうか。
このような考えは前著にもあって、僕自身も強く感じ入ったのだけれど、こちらの本ではそれに対して注釈が入る。
僕たち人間は、それでもやはり種というものを分類してしまう。
これを心理的本質主義と呼び、著者は人間が人間である以上、この心理的本質主義からは逃れられないだろうとも考えている。
ここにこの本の分かりにくさがあるのだけれど、これがこの本の魅力でもあると思う。
種問題は、もしかして永遠に解決されないのかもしれないが、しかしそれは問うに値する問題であって、それは系統樹思考と分類思考という2つの思考様式のあいだで彷徨いながらも、どうやって人間が世界を見ていくのか、という問題だからなのだと思う。


と、何とかこの本をまとめてみたけれども、この本はとにかく色々なトピックに溢れていて、そう簡単に紹介しきれるものではない。
例えば妖怪の話が出てきて、井上円了の考える妖怪について紹介されたりする。
また、本文では直接触れられていないが、『もやしもん』のカットがいくつか図版としてあげられていて、これがなかなか本書に対するよいコメントとなっていたりする。
そう、前著と同様、図版が多くて、これもまたこの本の魅力となっている。どうもこの著者は、系統樹の載っているレア本とかを集めるのが趣味らしくて、面白い図版が色々見れる*3
それから前著でも面白かった参考文献リストは、こちらでも顕在。ソーバー『進化論の射程:生物学の哲学入門』には、「まだ、読んでないの? だめだめ。」というコメントが。うう、ごめんなさい。本屋で何度か手に取ったんですが、いかんせん高くて……。

ちなみに、系統樹思考の世界は表紙が緑で栞が青、分類思考の世界は表紙が青で栞が緑と、デザイン的にも二冊で一セット感が出ております。

*1:この議論は、種カテゴリーとは何かという問題に関わる

*2:科学史科学哲学としては、クーンのパラダイム・シフト論が有名で、あれは確かに断絶を説いているような感じがする。ところで、「科学革命」という言葉を作ったバターフィールドの『近代科学の誕生』を読むと、科学史における断絶と連続というのが分かる。断絶もしてるんだけど、連続もしてるhttp://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060529/1148911840 全然関係ないけれど、近年の漫画史研究で戦前と戦後のマンガの連続性が論じられて、手塚神話が解体されているのも、そういう断絶性と連続性を歴史研究が示す好例かもしれない

*3:カバー下も注目ですよ!