お疲れ様です

文学フリマ、皆様お疲れ様でしたー

筑波批評はおかげさまで、完売いたしました。
本当にありがとうございます。
こちらの予想を超える売れ行きだったので、買いに来ていただいたのにもかかわらず、お渡しすることのできないことも多々ありまして、申し訳なく思っております。
現在、電子書籍版についての検討を進めているところです。
また詳しいことが決まり次第、アナウンスさせていただきたいと思います。
文フリお疲れ様です - 筑波批評社


1年ぶりに本を作ったので、なんか色々忘れていたけれど、やっぱり面白い。
で、色々考えることもできる。一言で言ってしまうと、「なんで本を作るのか」ということ。
例えば、今回何故「予想を超える売れ行き」だったかというと、おそらく価格が大きな要因となっている。
今回の文フリで感じたのは、全体的に相場が上がっているということ。コピー誌は200円のところが増えているが、うちは従来通りの100円だった。
オフセット本も価格が上がっていると感じた。
もっとも、それにあわせて本の作り自体も底上げされているし、文フリは他の即売会に比べて安かったっぽいので*1、納得の値上がりではあると思う。
だが、だからといって、みんな上げてるからじゃあうちも上げるかっていうのは話が別だろう。
僕はこういうの考えるのが苦手なので、筑波批評の価格や部数の決定は他の人にやってもらっているんだけど、それでも考えざるを得ない。
ネットで簡単に自分の文章なりを公開できるというのに、何故わざわざ本を作るのか。広く人に読んでもらいたいのであれば、部数を考えると、あんまりいい方法ではない。
でも、自分たちの本を作ることのメリットとして、自分たちの本の価格や部数を考えなきゃいけなくなるということがあるんじゃないかと思う。
まあ同人なので、必ずしも売り上げとかをシビアに考える必要はない。
僕の後輩は、じゃんけんに勝ったら10円ということやっていた。そういえば、まだ会場が秋葉原だったころに、値段は客が自由に決められる(ただしその代わり釣りが出てこない)というところもあった。要するに、価格をつけるのも自由に決められるわけで、それもまた同人誌のコンセプトを表すデザインの一つとなりうる。
同人とお金に関しては、同人活動の継続性を高める手段としての「利益」 - ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさんが良記事


まあでも、そういうこと考えられるというのは、本を作った結果であって、本を作る理由じゃない。
筑波批評というのは、集団としてはあまりそういう理由とか目標とかを持っていないので、なかなか組織としては危ういところがあるなあとは常々思っている。
メンバー各人が、書きたいものを好きに書ける雑誌ということで一応やっているわけだが、
今回だって、ぎりぎりぎまでみんな原稿を出してこなかったわけで、「書きたい物を好きに書く」というコンセプトに照らせば、まあ出さなくてもよかったんじゃねということになる。
でも、多分そうではないのだ。
「本を出すことを目的にしちゃいけない」ということを(筑波批評に対してじゃないけど)言われたりして、確かにそうだよなと思ったりもしたのだが、短期的には本を出すことを目的にしてしまうのもありなんじゃないかなと思っている。
長期的には、僕はまた数年後にフィクション論を筑波批評で書きたいと思っているのだけど、短期的には、まだ書けそうもない。だが、じゃあいったん筑波批評を休止しますとやってしまうと、数年後のフィクション論も書けなくなる、出せなくなるんじゃないかと思うので、やっぱり続けておきたい。一応、それが筑波批評という本を作っている個人的な理由。


また、ここ最近の本を巡る環境を考えるのであれば、電子書籍についても考えざるをえない。
文学フリマにも、電子書籍の波は押し寄せている。しかし、これが実際のところ、今後どうなっていくのかはまだ全然分からない。
こういうとき僕は、端から眺めているだけで全然自分でやってみようとか思わないタイプなんだけれども、今回の文フリが始まる少し前から、これはとりあえずなんかやってみた方がいいんじゃないかなと思っている。
そんなわけで、現在検討中。もっとも、実際に検討しているのはklovなんだけどねw klovから色々教えてもらって、僕は「ふーん、じゃあこういうのがいいなあ」って言うだけw
もし電子書籍で色々できるようになれば、筑波批評に限らずやってみたいことは一応ある。
自分は「現在の状況を〜のように変えていきたい」といった意識が希薄なんで、拡大志向はないんだけど、面白い原稿を読んだり書いたりできるところにいたいなあとは思うので、そういうことはやっていきたいんだと思う。


あと日記。
今回は、コピー誌だったので、〆切もかなり遅く設定できてなんだかゆるゆるとやってきたのだが、まあそのツケは当然回ってくるわけで、
最後の一週間は結構編集作業に追われ、前日は印刷・製本が大変だった。
深夜にプリンタがトラブルを起こして、もうこれ以上はできないんじゃないかなと諦めかけたりしたのだが、何とか朝になって完成させることができた。
今回の文フリは、1階と2階に分かれていて、僕たちは2階で、批評系は隔離されたかなと思ったりもしたのだがw*22階にも人はたくさん来ていたし、なんとなく会場が秋葉原だったときのことを思い出したりもして、悪くはなかった。
500サークルを越えていると、カタログを持たないと何が何だかわからなくなってしまう感じで、事前にTLで見かけていたところを見て回る程度で、思いがけない面白いものとか探したかったのだけど、結局そういうことはせずじまいだった。
いつも来てくれる人に会うだけではなく、初めて会う人も結構いて、名刺も結構もらったりした。名刺もらうと自分のも作りたくなるねー。
そういえば、筑波の人に会う率が高かったw 筑波とは名乗ってないけど実は筑波の人がやってるサークルとか、文フリの受付の人とか、一般参加で買いに来てくれた人とか、そういうところで筑波がw
コスプレっぽい格好の人が増えたなあという印象も。なんか謎のマスクみたいなつけている人がいてぞわっとした。
終わったあと、b1228の飲み会に混ぜてもらった。
この飲み会はあまりにも楽しかったので、文章化することができないw
まあ基本的には、monadoさんが地獄のサンデルだったw
何で文学フリマに参加して本を出すのか、というと、やっぱり祭だからかなあというのもある。
年に1,2回、なんか祭テンションにならないと生きていけない人間なのでw
学祭でがーっと盛り上がって、そのあとはぐだーっとなってるみたいな高校時代を送ったせい。
土曜日に徹夜して、日曜もわりと長々と飲んでいたので、明けて月曜の眠気とだるさがやばかったけれど、とても心地よい疲れだったw
そういえばこの前大学の学祭で、「もうこの中には入れないんだなあ」という感慨をもらしていた人がいたけれど*3、ふーんとしか思わなかったのは、自分にとって文フリが学祭みたいなもんだからなんだろうなあとも思った



さて、毎度言っていることですが、感想を書くまでが文学フリマです。
なので、文フリはまだ終わってません! 終わってませんよ、みなさん!
僕はいままでブログにまとめて感想を書いていたのだけれど、今回からはtwitterに書いていく。
ある程度まとまってきたら、ブログに転記する予定だけど。
ハッシュタグはつけたりつけ忘れたりすると思うので、まあ適当に探してください。


以下、twitterから転載された感想が続く予定。


20101207

で、早速感想その1。『300books vol.1』特集インセプション。巻頭言に「限定300部の小さな雑誌」とあっていきなり驚いたw あー確かに一般的に言えば300部って少ないよな。文章系同人誌で考えると大手だと思うが。
まあそれはともかく。価格も300円。どっち(価格・部数・タイトル)が先に決まったのかは知らないけれど、分かりやすくていいなあと思ったw 表紙がかっこいいし、中身のデザインもすっきりしていてよかった
『300books』中身の話。「映画は現実に至る、そして」は僕の気付いてなかったところが色々指摘されていてなるほどと思えた。「夢の両極」は絵画的ということと無限について書かれていて、うちの座談会と近い話なのかなあと思って興味深かった
一方で、そのどちらもが短かったなあとも思う。最も短かったからこそ、最初に手にとってパッと読めたので必ずしも悪いことじゃないのだけれど、分析がそれなりに詳しいのでもう少し長い論を読みたかった。結論部分が、批評にありがちな言い回しでさらっと逃げられてしまった気がして。
(「映画は現実に至る、そして」では、BGMの速度について触れられていて(YouTubeに検証動画があるらしいが)、そこをもっと詳しくと思った)
がっつりした論にしないという意味では、「インセプションとは底が丸見えの底なし沼のようなものである」がよかった。インセプション=プロレス説を唱える。僕は全くプロレスに興味ないし知りもしないけど、その強引さでもって短くまとめてしまっているのが
それから、映画コラムマンガがいかにも映画コラムマンガっぽい感じで、しかもちょうど中綴じの真ん中部分にあたって、開きやすくなっていて、ぱっとこれが出てくるのは雑誌としていいんじゃないかと思った。

『モダン・ラブ』感想。クラウドコア、クラウドコア言われているので忘れそうになるが、本のタイトルは『モダン・ラブ』特集がクラウドコア。前回に引き続き装丁、ブックデザイン等に力を入れている。今回何より驚かされたのが、TL上で製本者を募るクラウドコア製本
実際にブースで見たときには、かなり驚いた。どの本もかっこいいから。山形クリップで留められているだけの奴とかよかったなあ。あと、一点物のエロマンガの上にかぶせて作られた奴とかも見せてもらったけど、素晴らしいね。
あと、電子書籍版とかもあったのか。自分が入手したのは、表紙カバーに注が載っている赤と白と灰色の奴(薫夏さん版)。まず、このブックカバーを斜めに折り曲げてきれいなデザインになっているっていうだけで、センスのない俺は感動するw
前回同様、ここのすごいところ、「おい、これ読みにくいだろ」と最初思うんだけど、読んでみると実は読みやすいということ。カバーに注が付いているのが、最初「なんだよこれ、どうやって読めばいいんだよ」と思ったんだけど、取り外して横に置いて読めるから読みやすかった。
ブックデザインっていうと、紙の色が交互に変わるのもいいよね、なかなか
で、高橋・永田対談。さっきも言ったけど、対談じゃねーw 高橋さんのゲーム論導入って感じ。実際には文字で書かれた物を対談っぽい体裁にしているみたい、だけど、これを口頭でがーっと話し続ける高橋さんを思い浮かべるのは容易w
話が逸れたw 時々高橋さんから聞くような話を、まとめてさらに詳細にしたって感じ。注釈っぷりとかも。なので、おおむね「ああこんな話聞いたことあるなあ」って感じだったが、岡和田さんの『アゲインスト・ジェノサイド』評については、ようやく「あ、そういうことか」と納得した。(「インデックス(ゲームデザイン)→イコン(物語)」ではなく、その逆を示そうとしているのがすごい、という話。物語に<介入>するための「ゲーム」)
ところで、高橋さんのゲームの話と永田さんの音楽の話のつながりがあまりよく飲み込めなかった。対談っぽい感じがしないのはそのせいもある。それぞれの論文を交互に読んでいる感じ。
ブレインダンスという概念や、(盆踊りやブラックミュージックを)踊れない人達が踊るための音楽としてのテクノ、とか面白かった(自分も盆踊りは踊れない)。ダンスやリズムには<コード>があって、それをぐちゃぐちゃとやっていくというイメージ。でも、「もう一声」
何が「もう一声」かというと、グリッドというのがいまいちよく分からなくて(俺が『アフロ・ディズニー』を読んでいないせい?)それとクラウドコアの関係がもうひとつ分からない。冒頭ではクラウド・コアは、ネットとかの小さなコミュニティでの創作みたいな感じだったはず
いつの間にか、リズムとか身体性とかの話になっている。それはそれで面白い話なのだけど、どうつながっているのかという点。最後に高橋さんが適応の話をしていて、つながっていないこともないんだけども。
『モダン・ラブ』「誘拐されたリテラシー」。最初は、グラフィティ論か−、グラフィティとかよくわからんしなーと思いながら読んでいたんだけど、結論部のあたりで「おー、そういうことかー!」となった。なったはなったんだ、何がそういうことなのか、うまく説明できないw
2人のグラフィティアーティストの試みを紹介して、グラフィティの世界で通じるリテラシーと、それ以外の一般的な世界で通じるリテラシーとがお互いに侵犯しあうような作品として分析している。
「コミュニティの中での有名性」と「一般社会での匿名性」が同時に現れていること、などというところは、ボカロPなんかを想起したんだが、ボカロ文化で喩えてしまうと、この論の主張とは離れてしまうのでよくない。
なんとなく、クラウドコアのイメージを捉えるのに役に立ったかなという感じがする。CGM・ニコ動的な創作文化のようなものも含んでいるんだろうけど、その中でも特異なものを拾い上げたいのであろうなあと思いつつ、どう区別していくかは難しい。
対談に出てきた、グリッドの話、高橋さんの<介入>、そして「誘拐されたリテラシー」をあわせるなら、固定的なコードを混乱・攪乱させるようなものなんだろうけど、そういう風にまとめようとするとなんかつまんないよな。
グリッドコンピューティングとクラウドコンピューティングの違いについて、ずっと前に誰かが何かpostしていたはずなんだが、誰が何を言っていたか全く忘れてしまった。

永田さんからの応答

大山さんの論考は、「グラフィティ論」ではない、広くリテラシーとイメージの話なんだと思うんです。そしてあの絶妙な「わかった!」と「あれ?え?ん?」のバランスは刺激的だと思ってそのままにしました。

20101209

『F』全体の感想

文フリ感想タイム。『F』特集・ガール。今回は、論文がいつになくたくさんあった。まずは、この特集の設定がよかったと思う。で、何からどう書いていけばいいのやらw #f_gendaibunka
これは前から思っていたことなんだけれど、『F』はDTPが残念なのが残念。表紙もかっこいいし、創刊号からやっているリコメンド企画もいいし論文もいいんだけど、DTPのせいで読みにくくなっているのはもったいない
まず、元原稿はきっと横書きで書かれているのを、縦にしているんだろうなと思うんだけど、なので数字の書き方がバラバラ。半角で横向いてたり、縦中横になってたり。あと、注釈誘導や引用のインデント、注釈のフォントサイズなんかが原稿によって違う。そういった様式が、雑誌全体で統一されていないと気持ち悪い。引用でインデントが1字しか下がってないと、ほんとよく分からなくなる。
あと誤字・脱字。これは校正にどれだけ時間さけるかにかかっていて、そしてどんなにチェックしても漏れが出てくるから仕方ないんだけど、論文によってあまりにも差があったので、全体でチェックしている人がいないのかなあと思う。 
一番誤字が目に付いたのは、男の娘論で。まず、なんでこんな字になったのか意味が分からなかったのが、儀礼の「礼」が「ネL」になってる奴。「ネ」と「L」がどちらも半角なので縦書の中だと横向きになるし目立つ。それから、旧制高校が旧姓高校になってた。
いきなり内容に関係なく、DTPについて4post連投したけれど、ここらへんもったいないなーとすごく思わされるので。実際、文フリの同人誌はDTP的な点でレベル高い物が多いわけだし
で、内容の話。まず、「ガール」という特集の設定がいいと思った。奇しくも今日、家ガールなんて言葉がTLを少し飛び交ったけれどもw そして、このガールというのが、必ずしも少女や女子と同じ意味では使われていない。なので、ガールって一体何なんだって思わせる。
ところで、ガールとは一体何かという答えは、この本を読み終わっても分からない。というか、論者によって見解がばらばらである。さっき、ガールと少女・女子は違うと書いたけれど、論者によっては同一視したりもしている。
ガールについての見解が論者によってバラバラなのは、当然この企画の面白いところなんだけれど、一方で読んでいて混乱もする。「はじめに」みたいな形で各論の梗概が先にあると読みやすかったかも。 
巻頭にある共同討議が「ジェンダー論はガールに届くのか」とあるように、フェミニズムジェンダー論がわりと基調としてある感じ。ただ、前から言っているけど僕はあんまりジェンダー論の面白さがよく分かってない。まあそれは僕個人の問題だから別にいいか


『F』矢野・鈴木論文

で、個々の論に入っていくけど、まず矢野論文。これはかなり明白に「ガール」を定義していて、しかも現代においてガールはいないという結論(こんなにも○○ガールが溢れているのに?!)になっていた。それから、前半が少女漫画、後半はJPOPが対象になっている。
矢野さんは多分、音楽が得意ジャンルなんだろうけど、その得意ジャンル生かしている感じがよかった。(そういえば今回は、それぞれの論文で扱う対象がばらけていてバランスがよかった)
矢野論文はガールを、男性社会へと積極的に参入するという点で、「無垢」な「少女」とは異なるけれど、しかし恋愛に対しては「一途」である点で、男性からの欲望による抑圧がまだ残っている存在としている。その上で、そのようなガールは携帯電話の登場によって存在できなくなったとする
少女からガール、そして携帯電話以降のガールの分裂、という論旨が明快で、その上で、aikoハチクロが、ガールであるために携帯電話を出さないという不自然な選択をしているという指摘が興味深かった
あと、西野カナがなんであんなに、会いたい会いたい言っているのか、ということの解釈も与えられている。なるほど、という解釈を個々の作品なりに与えてくれて、明確な枠組みもあるという点で一番よい論文だったと思う。
次、鈴木論文。前回に引き続き、マンガにおける少女表象の話。これも矢野論文と同じで、得意分野で書いているってことと、ガールを論の中ではっきり定義して「少女」からの変遷を追っている。
徹底してマンガの記号表現から論じていくスタイルがすごくいいなと思う。これは前号の指摘だけれど、「キャラ」って基本的に男で、それに何か記号を付け加えることで女になるよねって指摘はクリティカルだと思う*4。言われてみれば確かにその通りなんだけど(だからこそ)
で、そもそもマンガで描かれる少女は「かわいい」というところから始まる。少女漫画は、自称「かわいくない」女の子が主人公だったりするけれども、図像としてみれば十分「かわいい」。でも、ここで女性らしい指摘だと思ったのは、女の子グループの中で「普通」でいるには、そもそも「かわいい」ことが必須だよねという指摘。そもそも少女が少女としているためには「かわいい」必要がある。マンガに出てくる女の子にかわいい子しかいないのは、そもそも必然なわけですね。
ここでもうひとつ先に進む。「かわいい」は記号表現においてどのように描かれているか。それは「性器」の隠蔽によるという。ここでいう「性器」とは、眼・鼻・唇である。そう、マンガで鼻がちゃんと描かれないのは、隠蔽によるのだ。
鈴木論文は、ガールを、「性器を隠蔽されなくともかわいい少女」と定め、矢沢あい岡崎京子などを取り上げて具体的にその変遷を見ていくことになる。
鈴木論文も、この枠組みのおかげで、「なるほど」と思えた解釈があった(鼻が描かれないこと、朝チュンについてなど)。スキームと個々の解釈の両方を与えてくれるのが、よい評論だなあと思う。*5
ところで、鈴木論文はガールの特徴として、複数の性が可能であることを挙げているのだけど、これは駆け足で、しかもここまでやっていた記号の問題からも離れるし、ちょっと残念だった。ただ、ここは矢野の「ガール」概念と対立するところでもあって、ここが整理されていると雑誌として面白かったかなと
つまり、矢野はあくまでも「ガール」は「一途な恋愛」にとどまるものとしているの対して、鈴木は、一途でなくとも、あるいは一途ではないのが「ガール」だと捉えているから。
ところで、僕がジェンダーフェミニズム論の面白さがよく分からないなあと思うのが、結局「抑圧→解放」という流れがあって、これは抑圧されているからダメだけど、こっちは抑圧から解放されていていいね、となってしまっているように見えてしまうから。
togetterの『F』感想まとめで、「ガール」を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかという議論があったけれど、それも「ガール」を、どこまで抑圧されていてどこまで解放されている存在として捉えるかによって変わってくるものだと思う。
だからこそ、矢野論文はどこか否定的なニュアンスで終わり、鈴木論文は肯定的なニュアンスで終わっているのだと思う。


『F』本多・平沢論文

でも、「ガール」ってもっと一筋縄ではいかなさそうな感じがする。
で、「ガール」は一筋縄でいかないよっていうのは、当のガールたち自身は抑圧だの解放だのってところからもう離れてんじゃないのってことで(共同討議も関係するかな)、そこらへんは本多の映画論と平沢の『Hanako』論が拾っているのかな、と
この二つは、論としての面白さはあまりないけれど(つまりガールってこういうものだよって言ってるわけじゃない)、「ガール」の幅の広さを報告している。
ガール映画論は、ガールが映っている映画とガールが撮っている映画に分けている。前者は、ガールといってもあくまでも少女・アイドル。後者の方、女性映画監督の方が、ガール論として重要。ここで挙げられているのは蜷川実花。この人の言葉は、抑圧→解放っていう単線的な流れじゃ捉えられないと思う

『F』その他

それから、男の娘論が載っていた。それだけで、この雑誌の一つの売りになるよなあと思うw ただ、僕自身がまだあまり男の娘がよく分からないこともあって、まだピンと来ないところがある。
例えば、実際に女装する人達について。男らしさというジェンダーの抑圧との関係が述べられていて、それはそうなのかもしれないけれど、そこに尽きるのかというと、なんかもっとよく分からないもののような気がしている。
読んでいて、永山薫が、ふたなりとか論じている中で「女の子になりたい」欲について言っていたことを思い出した。澤野論は、男・女双方のジェンダー的抑圧みたいなものに注目してるけど、そもそも「女の子になりたい」欲って何なのよって思ってしまう。
千田論文は、斎藤環の戦闘美少女解釈への異議申し立てのところで「おおっ」となったんだけど、そのあとセカイ系批判みたいになったのがちょっと微妙だった。戦闘美少女とセカイ系は関係してるけど、ちょっと違うよ。
あと、セカイ系って言葉は、前島本が出てしまった以上、使い方注意というか何というか
半田論文。綿谷りさ「蹴りたい背中」について丁寧におっていると思う。ところで、他の論とこれだけガールのとらえ方がちょっと違う気がする。この論は、ガール=リア充で、蹴りたい背中は、アンチガール、つまりアンチリア充小説だと論じている
それから、『F』の恒例リコメンド企画、「この論文を書いた人は、こんなガールを推しています」今回、思わず反応してしまったのは、のり夫(『なるたる』)だな。のりおーって叫んじゃったしw 
あと、SPEEDに対して「足を見せないアイドルっていうのがかっこよかったんだ」と書いてあって、なるほど、そうだったのかーと思った
ちなみに僕が推すガールは、ナンバーガールですw いや、ナンバーガール自体は3/4がガールじゃないけど、向井の詞に出てくる女の子が好きなので。「ジャマイカたばこをきめながら 笑う 笑う あの娘は 笑う」
もってけ!セーラー服しか分からなかったw http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51575034.html

20101210

文フリ感想ターイムj!今日は『アイドル領域vol.2』特集アイドルと身体。昨日の『F』特集・ガールとは、その対象も方法論もがらっと異なりますが、アイドル・少女・ガールといったものには自分も興味があり、さりとてどのように論じたりすればいいのか、というのはまだよく分かってない状態
感想に入る前にどうでもいい自分語りをするけど、僕はアイドルは割と好きw っていうと、「知ってるよ、毎日のようにアイマス動画のpostしてるじゃねーか」と言われるだろうけど、アイマスはあんまりアイドルって感じしない。少なくとも、アイドルだと思って見始めたわけじゃない
グラビアアイドルとか、あるいは宮崎あおいとか加藤ローサとかいったティーンズモデルから女優いったあたりが、自分が「アイドル」と聞いて一番イメージする層だったりする。『アイドル領域』は、ハロプロオタの人達がメインで、僕にとってはかなり未知の世界だったw
ただ、自分にとって「アイドル」っていうのは、主にはまっていた時期が受験生の頃だったこともあって、一人で家で雑誌やテレビ見て受容するものであって、他のファンと共有したりするものではなかった。まあ、今も基本的にそう。まあ、全然金も使ってないし、要するにとてもヌルい
ただ、一度サークルで少女論を書く機会があって、Perfumeアヤカ・ウィルソン(というか『パコと魔法の絵本』)について書いたのだけど、少女そのものを論じることの不可能性みたいなものにぶちあたったw
Perfumeの曲やPVについては語れる。けれど、Perfumeそのものは語れない、みたいなw しかし、「アイドル」ってまさにそういうものなのだろう、ということで『アイドル領域』の話になるけれど、これもどれもそんな感じがした
今回、特集が「アイドルと身体」となっていて、ここでいう身体は実は、アイドルの身体だけでなく、ファンのの身体も指していて、それはそれで面白いんだけどそれは後で触れるとして、アイドルの身体というのはやはり到達できないものというのがどの論にも共通していた
まあ、アイドル自身の身体に到達できないっていうのは、論じるまでもなく、当然の前提ではあるけれど。
ところで、先に僕はサークルでPerfumeとかについての文章を書いたと述べたけど、全てはイメージだみたいな話を書いたのだけれど、それに対して、全てはイメージなんだったら生身を持っているPerfumeじゃなくてアイマスで書けばいいじゃんと言われた。当時は全然アイマスを知らなかったので、そもそも書きようがなかったのだけど、今から思い返してみてやはりあれはアイマスではダメなのだと思う。アイマスに出てくるアイドルとは、ファンではなくPとして相対するので、到達し得ないってことはないから
話がよく分からないとこにいってしまった。『アイドル領域』の感想。モリノキツネ(@foxintheforest)さんの初音ミク論は、身体の領域、主体の領域、他者の領域、表象の領域にアイドルを分割して、その上でミクを各領域に振り分けてみるというのは分かりやすかった
他の論は必ずしもこの4領域のスキームは使っていないけれど、無意識に似たようなものは前提されいてるような感じがしたので、スキーム化したのは大事だと思うけど、ある意味では当たり前のことした述べていない。これを採用することによる新しい発見はない。
で、個人的には隔靴掻痒な感じがすごくした。初音ミクにおいて、主体の領域にPなどを入れているのはすごくいいと思うんだけど、だから表層の領域ですごく自由に創造が行われいて素晴らしいんだ、というのは物足りない
あと、アイドルの寿命は短いということを前提した上で、初音ミクのアイドルの寿命について触れられていて、消費のサイクルの早さが寿命の短さに重ね合わせられているけど、個人的には、初音ミクがアイドルの時代は終わっていて、今は歌手化している気がする。アイドルにおいてよくあるように。
永田さん(@nnnnnnnnnnn)の「性的対象としての男性の図像」は、前提となる概念の整理で終わってしまって、論が始まらなかった
斧屋さん(@onoyax)の「動く写真集」「ラブドールにさわる」「おいも屋探訪」は、自分の知らないことが書かれていて面白かった。特に「動く写真集」は、ケータイ向けのちょっとしたギミックの入っている写真集のことを論じているが、その読書体験から普通の写真集を
普通の写真集と「動く写真集」を比較して、写真集の読書体験について書かれている。自分が普段どのように写真集を見ていたかを反省することで、「動く写真集」への評価が肯定的になったり否定的になったりしていくのが面白かった。
おいも屋探訪」はジュニアアイドルの話。斧屋さん自身もジュニアアイドルについてはよく知らないらしいが、ジュニアアイドルの倫理的是非は置いておいて、分類・分析を試みている。で、まあ多少は知っていたけれど、ジュニアアイドルはやはりアウトだよなとしか思えない
握手会だけでなく、ハグ会なるものがあるのを知って、わりと驚いた
「浅草ロック座ストリップ観劇記」もちろんこれは、小向美奈子を見に行った話。ストリップ劇場ってそういうところなんだーというのも多少分かる。あと、他のストリッパーと小向とでは、踊りのうまさに違いがあるのは当然として、体つきも結構違ったらしい。
最後に、小向美奈子の変遷を論じつつ(「清純派」も「過激」もどちらも虚構、記号にすぎない)、それでも小向にエールを送っている感じでしめくくられている
「好きなアイドルで抜くということ」 ○○ニーなんて言葉があるの初めて知った。自分が推しているアイドルで抜くことをそういうらしい。矢口が好きだとしたら、「やぐニー」というらしい。内容は2ページの体験談
平野智美から考えるアイドルの条件」こんな人がいるなんて全然知らなかったけど、面白い。ハロプロの研修生であるハロプロエッグに所属しているアイドルなのだが、26歳の大学院生らしい。ファンとのコミュニケーションもほぼなし、歌やダンスもそれほど、という実に謎な存在らしい
最後の執筆者紹介、@foxintheforestさんと@nnnnnnnnnnnさんは、自分の好きなアイドルは○○です、とか書くべきだったんじゃないだろうか、と思ったw ただ、自分の経験上、あそこって後回しになるし何書いていいか分からなくなるので、ああいう無難なのになるのは分かる

20101213


今日の文フリ感想タイムは、『b1228』!!7人が、フィクションをテーマに評論と小説を書くというもので、非常に濃縮された文章が読める。
まず、@tricken(小説の方の名義は直会六人)(あ、あと敬称略でいく) これはまず評論の方で、個人的にやられた。タイトルで既に分かっていたけれど、これは僕やtrickenさんの個人的な体験がベースになっているので感想が書けない。こういう形で応えるのだな、と思った
「これは、祈りではない。」という結語に、決意を感じたけれど、その決意をうまく共有できないでいる自分には、何かを突きつけられた感じ。そして評論が、そういう個人的な理由でもって大きかったために、小説の印象が薄い。
いい感じのボーイミーツガールエンターテイメントで、日常に溶け込む未来ガジェットとサイバーパンクなルビとかもいいんだけど、エンディングがそれでいいのって思ってしまった。後から思い返して、いいのか、とも思ったけど。
真路潔(@kiyoshi_maro) 小説は、2人の女の子の間で翻弄される男の話、って書くと全然印象が違うなw 茶化してすみません。僕にはうまく評することができない。これもまた、ここで終わるのって感じてしまった。こういう短編小説をどう終わらせるのか、自分でよく分かってない
評論の方は、綿矢りさの短編を扱っていて、最後の節の結論「新しい虚構ではなく、新しい現実を書く」というのは面白いと思ったし、そこで出される「スローモーション」の話は、この雑誌全体にうっすらと流れるAR的なものへの志向とも呼応していると思うが、そうすると、前半で論じられていた「あげること、そしてすぐに去ること」との繋がりがいまいちよく分からなかった。これはこれで面白いんだけど。4節で急に話が変わって、あれってなって終わってしまった感じ
麻野嘉史(@namak)の小説は妖怪もので、自分ででっちあげた妖怪が、知らぬうちに広がっていって、最後には自分の嘘の範囲を逸脱していくというもの。そういえば、しゃれこわあたりで、某都市伝説を作ったのは自分なんだけどって書き込みがあったりしたよね
で、評論の方もむろん妖怪の話で、これはちょうど小説と呼応した形になっている。妖怪は現実をある意味で虚構化したものだけれど、一方でそこから現実へと浸食してくるものでもある
主宰の@monado 小説は、悪になろうとする少女と死にたがる少女の出会いの話。で、前者が後者を見いだす過程というのが一体何だったのかというのが、評論の方で明かされる(といっていいのかな)
もとより、ルビが結構多い小説だけど、最後の数行のルビすごいw 評論は、書かれていない領域について論じるというもの。ある作品が書かれれば、その補集合としての書かれていない領域が生じる。ポテンシャル文学
もう1人の主宰@Lianの評論は、映画について。メッツの記号論的な映画論と脳科学を結びつけるもの。認知物語論みたいなもので、試みとしては絶対必要だと思うのだけど、どこまでうまくやれるのかはかなり難しいよな。紙幅の限界と、注釈禁止のルールのもとだと、きつい感じがした
小説は、最後の人類の話。なんだけど、物語内物語のようにもなっている
それから、@thinkeroid 評論の方は3ページで圧縮されすぎ。「脳はアナログかデジタルか」と問うて、そもそもその二項対立がおかしいよねと返す。小説が、なかなかじとっとしていてよかった。女の姿をした蘭が人を誘うというもので、上田早夕里の「くさびらの道」に似てる
最後、伊藤ベク(@obiektXIV)は、評論が二足歩行型ロボットとサイボーグを主にフィクションから、小説は札幌を舞台にしたサイバーパンク。書きたいことがどストレートに伝わってきてよかった。
っていうか、小説の最後のシーンがいい。あと、「頭痛が痛む」という表現が効果的だったw
ドラえもんとマルチ、ドロッセルが並列されていることにえっw となったが、しかし考えてみると確かにそうならざるをえないのかもしれない
で、本当の最後。@monado「小説とは誰か?」これは、各作品の紹介に書かれた短編なんだけれど、っていうか小説の中で各作品について紹介するというだけでメタいのに、最後に「アナタ」という人称がでてきたり、「はいはい、メタメタ」って感じなんだけれど、だからこそ「くそ、やられた」感があって悔しいw
kihirohitoインタビューも読んだんだけど、笠井潔を語るインタビューになっている。というか、左翼思想とオカルトが終わった後に、さあどうしようかっていうところに、kihirohitoさんはいるのかなというかそんな感じ
本について。すごく丁寧に作られているよねー。誤字とかも見当たらなかったし。で、この小口の部分についているインデックスがデザイン的にもいいし、今感想を書くときにとても使いやすかった。あとは、おまけでマインドマップがついていたのも、特徴的か
b1228読んだら、俺も小説書きたいと思った。思っただけだけど。

20101220

ついでに、文フリで読んだ奴メモっとこ。『コワカエ』第5号(特集・ライトノベル)から小説「パンピーナ・ブラカマン」批評「嘘トのベルは止められない!」。批評がkugyoくんの奴。小説と批評がセットになっていて、前者の小説をkugyoくんが論じているという形式になっている。
アニメルカvol.3』から「背景から考える」(tricken、はるを、反アニ鼎談)、「心の声がきこえる」(泉信行)、「眼−〈触覚〉−耳」(さかさドンブリ)、あと「声優から遠く離れて」をパラっと。聴覚の話は面白いと思う。

*1:他の即売会に行ったことがないのでよく知らないんだけど

*2:批評系でも1階にいたり、2階にいても批評系じゃないところもあった

*3:そしてそこには何かしらの優越感みたいなものも混じっていたけれど

*4:「キャラ」よりもさらに前段階にあるだろう人の形をした図像が、基本的に男、といった方がいいかもしれない

*5:逆に言うと、矢野・鈴木論文以外からはそういうものを与えてもらえなかった