『フィルカルVol.2No.1』

分析哲学と文化をつなぐ雑誌
通算3冊目で、特集はアイドルだけど、それ以外にも、フィクション作品による哲学とは何かとか、ゲーム『超攻合神サーディオン』論、「意図の誤謬」翻訳などが載っていて、濃い内容となっている。
フィルカル Vol. 2, No. 1 | philcul
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「自由論入門 第3回」(高崎 将平)

最終回は、非決定論と自由は両立するか
「非決定論的世界であれば、自由は成り立つ」と考えがちなところ、非決定論と自由は両立しないという主張がある
行為の生起が非決定的であれば、それは結局、「運」なのであって「自由な」行為とはいえないのではないか、というもので
ここでは3つのタイプの運論証が紹介・検討され、一応、これを退けている。
とはいえ、非決定論的であったら、運となってしまい、自由とは言えないのではないか、というのは個人的にはわりと同意したくなる立場ではある。
ちなみに、次回からはデイヴィッド・ルイス入門が始まるとのことで、非常に楽しみ

●特集シリーズ:アイドル

論文「アイドルとハロプロ」(青田 麻未)

ハロプロの立ち位置とでもいうべきものの概観が、あまり知らない人でも掴みやすい内容だった。
ハロプロというと、今では、アイドルの中の1グループというのが一般的認識かもしれないが、「アイドル」ではなく「歌手」であるというとらえた方が、本人たちにも、ファンの間にもあって、「アイドル」か「歌手」かという中で揺れ動いているものとして、ハロプロがあるということが論じられている。
モーニング娘。がデビューした頃っていわゆるアイドル氷河期で、アイドルなんて呼ばれ方はほとんどされてなかったもんなーという記憶があるので、その後のハロプロってほとんど知らないんだけど、納得感があった。
三次元アイドルの事情って全然わかってないんだけど、この論文の最後でちらっと言及のあるE-girlとか、アーティスト宣言した女子流とか、アイドルか否かっていうのはある程度争点になるんだろうなー
ウォルトンのカテゴリー論が引用されているのは、アイドルとして見るか、歌手として見るかで、鑑賞態度(?)が変わるということなのだろう。
ところで、「アイドル」と対比されるものとして「歌手」「踊り手」と書かれるのだけど、なぜ「ダンサー」ではなくて「踊り手」という単語がチョイスされたのかというのがちょっとだけ気になった。「踊り手」という言い方はどうしても、ニコニコ動画の「踊ってみた」を想起させるというか。ここで「アイドル」と対比されるのは、プロとしてという意味が込められているのだと思われるのだけど、「踊り手」という言い方にはどこかアマチュアっぽさを感じさせるところがあるのではないか、と。

論考「2.5次元アイドル論」(小倉 健太郎

サブタイトルが、なぜ「µ'sは2.5次元アイドルではないのか」というものなのだけど、個人的にはこの論考はむしろ、補論とされている「北川綾巴はなぜ3次元に対抗できた唯一の2.5次元なのか」こそが、一番メインで主張したいことで、それに至るために、各概念を整理したのではないだろうか、という感じがした。「µ'sが2.5次元アイドルではない」は、その過程で出てきた副産物のような気がする。
個人的には、この議論は面白いのだけど、かなり独特でなかなか納得しがたいところもあるという感想である。
この論では、2.5次元アイドルとは、2.5次元の状態になっているジャンル・アイドルのことであると定義されるに至っている。このジャンル・アイドルという縛りがあるゆえに、声優ユニットは基本的に、この定義上では、2.5次元アイドルとはならない。むしろ、月島きらり starring久住小春とかSTAR☆ANISとかくらいの、非常に限定された範囲のみを2.5次元アイドルとしている。
なので、(サブタイトルとは裏腹に?)マンガ・アニメ(声優)文化から2.5次元を見るというよりは、(3次元)アイドル文化から2.5次元をとらえているような感じになっている。それもやはり最終的には、北川の演技において、ジャンル・アイドルとしての姿と二次元キャラクターとしての姿が重なり合う瞬間というものがあった、ということを論ずるためにあったのではないかな、という感じがする。


2.5次元アイドルとは誰であるのか、というところから話は始まるのだけど、それって結局どう定義するかで、その範囲は変わるものなので、そこはそれほど重要ではない気がしてしまう。むしろ、北川の特異性を論じたいので、ここでは2.5次元をこのように定義しておきます、という議論の流れの方が、個人的にはわかりやすく感じるなーという次第。


2.5次元って結局スラングなので、それが指している範囲は非常にあいまいで、だから使い方次第で色々なものが含まれてしまう。
なので、何かを論ずるにあたって定義するというのは大事なのことなのだけど、こういう目的があるからこの範囲を切り分けますっていうものなのか、それとも、そのスラングの用法を記述しますっていうものなのかっていうのがある程度、最初にわかった方が読みやすいなーと。
つまり、一般的に流通している用法としては、別にµ'sを2.5次元アイドルと呼ぶことは必ずしも間違いではないわけだから。
2.5次元を定義するうえで、2.5次元ミュージカルを参照していて、それはそれで間違いではないけれど、2.5次元という言葉が使われた対象というを考えると、声優やフィギュアや着ぐるみがあって、2.5次元ミュージカルや舞台を、2.5次元という言葉の範例としていいのかは、本当は議論の分かれるところだと思う。
あと、現在進行形のサブカルチャーを扱ったような論文において、「何々について言及がない」と批判するのは何というか、あまり生産性がない気がしているので、あまりしたくないのだけれど、2.5次元アイドルって誰か、という切り口で書かれるとどうしても「あれ、ドリフェスは?」って思ってしまう。たぶん、公式に自分たちから2.5次元アイドルって名乗っている代表格はドリフェスなので。
何かを論ずる目的のための操作的定義なのか、実際の用法・用例の記述なのか、という点で、なんとなく後者を試みているように始まるのだけど、そうだとすると、「2.5次元ミュージカルを範例としていること」「ジャンル・アイドルという縛りがあること」「ドリフェスへの言及がないこと」あたりが気になってしまうのだけど、前者だと考えれば、まあそのあたりも納得できるかなという気がしている。

論文「フィクションの中の哲学」(高田 敦史)

映画を始めとするフィクションは哲学することができるか、という問題
作品として興味深い仕方で、哲学たりえるか、哲学に貢献することができるか、とも言い換えられる。
フィクションについての議論であると同時に、哲学であるとはどのようなことかというメタ哲学的な議論にもなっていて、面白い。
哲学というのは、哲学的主張に理由(根拠)を与えることだ、とか。


まず、リビングストンとスマッツの間で行われた、映画は哲学するかという議論が紹介される
リビングストンは、映画による哲学は、結局言語によるパラフレーズによって理解されるのであり、映画それ自体として直接的に哲学には貢献していないと考える。映画がヒントになって、哲学的な議論が起きるというような間接的な貢献にとどまる、と。
スマッツは、哲学とは、哲学的主張に理由を与えることであり、それは非言語的にも達成可能だと反論する。例えば、エイゼンシュテインの作品において、キリスト教のイメージと異教のイメージがモンタージュされることで、二つの類似性に気付かせていることを挙げている。


高田はさらに、思考実験や概念分析といった哲学の方法とフィクションとを比較する。
思考実験とフィクションはよく類似性が指摘されているが、高田は類似はあるが、フィクションにおける哲学というのを考える上では、思考実験との類似を強調するのは必ずしも有効ではないとしている。
むしろ、「概念の明確化」という方が重要だと考えている。「概念の明確化」には非言語的能力も関わっており、そうした能力を獲得することが哲学の価値の一つだと述べる。


最後に、『ウルトラQ』の「バルンガ」というエピソードを例にあげて、この作品の中で、文明は脆弱であるという文明に対しての外在的視点と、文明がなければ人間は生きていけないという文明に対して内在的視点の、二つの視点が、カメラワークや演出、謎めいた言葉などフィクションならではの方法をを通して示されていること、それらが「自ら考えさせる」スタイルとして、「概念の明確化」へとつながっていることが論じられている。


ところで、伊勢田哲治による応用哲学会での発表であるフィクションは理由つきの主張を行うかは、映画(フィクション作品)において理由付き主張はどのようになされるのか、ということを論じていて、高田論文とは違うが、似ているものとしてあわせて読むと面白い気がする。

論考「たった一人の私に、あなたは気づいてくれますか?」(岡本 慎平)

スーパーファミコンソフト『超攻合神サーディオン』の作品論を通じて、ロボットの倫理学に関する議論が展開される。
自分はこの『サーディオン』というゲームは知らないのだけど、それでもこの作品の中の謎と、それに対する3つの解釈とどれが妥当かというのが、端的に述べられていてわかりやすい。
そのうえで、道徳について考えるうえで、行為者ではなく配慮の対象としての被行為者の観点も必要だという議論が、『サーディオン』と絡めて示されているのが面白い。
この「道徳的配慮の対象」っていう概念、動物倫理とかロボット倫理とかを通じて知ったけど、このあたりの議論を理解する上で大事な概念だろうなと思っている。

翻訳論文「意図の誤謬」(W・K・ウィムザット&モンロー・ビアズリー)(河合 大介 訳)

さわりだけ読んだのだけど、ちょっと集中力が切れて、というか、やっぱりちょっと目が滑ってしまって読めてない
いつか読む

連載コラム「生活が先、人生が後」(長門 裕介)

ディベート倫理学との関係
コーディネーターとしての倫理学者と、特定の立場にコミットする倫理学

コラム「さまぁ〜ず大竹の「世間とのズレ」と言語哲学」(長田 怜)

さまぁ〜ずのテレビ番組の中で、「昼過ぎ」という言葉からイメージするものが世間とズレていたという話と、「東京」という言葉からイメージするものの世間とのズレという話がシームレスになされていたことに対して、言語哲学的にはこのふたつって違うことだよね、と