第八回文学フリマ感想

空中キャンプ/伊藤聡『下北沢の獣たち』

ブログ空中キャンプの中の人である伊藤聡の短編小説集。
空中キャンプは以前から、時折書かれるエッセイやショートショートに数多くのブクマを集めており、いわばその文章の魅力というのは折り紙付きであった。そういう意味では、「待望の」一冊と言っていいかもしれない。
というわけで、最初から楽しみにして読んでいたのだが、その期待を上回る作品だった。
簡単にいってしまえば、「プロの犯行」とか「なんだ、ただの神か」とか、そういったコメントやらタグやらをつけたくなる作品。
一番目の作品「アイコ六歳」が素晴らしい。これは、ブログでも書かれたことのあるネタで、アイコというのはつまり、東京のど真ん中の森に住んでいる彼女のことである。ブログに書かれたときも十分面白いものだったのだけど、ブログの一ネタではなくて、短編小説として一つの作品としてまとまったものとなっている。
この作品はなんといっても、実にあっさりと天皇家の人々を描いてしまっているところがすごい。風刺や批判になっているわけでもなければ、美化や特殊化がなされているわけでもない。天皇家の日常なのである。天皇家の日常。これは僕たちにとってすれば、何とも不思議な言い回しだ。天皇家の人たちが、僕たちと同じような日常を過ごしている、というわけではない。天皇家の人たち(というか主にアイコ)の天皇家の人たちとしての日常生活なのである。
もちろんこの小説で描かれているのは、単なる普段の生活なのではなく、ちょっとした事件なのだけど、それも含めて広い意味での日常におさまるものだろう。冒頭の段落を引用すればこうなる。

 これから私が話すことは、自由と反抗についての物語であり、同時に、剥奪と服従の物語である。(中略)完全な逸脱や、百パーセントの服従が存在しないように、人はある場面ではそれなりに自由であり、別の場面では相応に不自由である。

アイコは、この物語のなかで、それなりに天皇家の一員として振る舞うし、それなりにそこから逸脱している。
天皇(制)というと、ロラン・バルトが必ず引用されるけれど、つまり日本の中心に空虚なゼロ記号があるだかなんだかとかいう奴があるけれど、そしてそれゆえに、阿部和重の『ニッポニアニッポン』みたいなのがありうる。空っぽなところに、妄想と鴇を代入してしまう、と*1
「アイコ六歳」は、ごく普通にそのからっぽなところを埋めてしまったのである。しかも、ごく普通の物語によって。
しかし、天皇家を書いたからすごいんだとばかり言ってしまうとあんまりこの作品の魅力が伝わらない。
アイコの一人称によって語られるのだが、その語り口が非常に絶妙で、普通に考えてみれば六歳の口調では決してないのだけど、その全く子どもっぽくない語彙と、けれど自由な比喩の組み合わせが、子どもっぽくもなければ大人びているわけでもないキャラクターを生みだしている。
お金、稲穂、狐というのが、すごくきれいにまとまっていて、スッキリした物語になっているし、何より最後のささやかな抵抗がすごくいい(抵抗という言葉の語感は、あまり適切じゃない。もっと明るい感じだ)。
表題作でもある「下北沢の獣たち」は、下北沢にくらす猫たちの話。
人間達の知らないところで繰り広げられる、猫たちの派閥争い、人間との戦い、犬たちとの関係。
純粋にエンターテインメントしていて、こちらもまた面白い。
主人公は猫なんだけど、プロットは探偵小説的。主人公である猫が依頼を受けて色々やるという話になっているんだけど、依頼されたことを遂行することによって一体事態がどのように打開するのかは、本人にはよく分からないまま進行する。
最後にパッとオチやらトリックやらが明らかになるというわけではないので、ミステリではないのだけど、それでも最後にパッと事態が打開する瞬間があって、気持ちよい。
三作目の「ひとすじのひかり」は、ちょっとよく分からなかった。
二つの視点が交互に進展していって最後に繋がるという構成なのだけど、それぞれの視点のズレがどこで回収されたのか、よく分からなかった。

『POST vol.1』『F04』

東京学芸大学現代文化研究会の『F』と、その中の一部+α(?)で作られた『POST』。
『POST』は、90年代特集で、『F』がゼロ年代の小説特集で、ちょうど2冊セットで読むととても面白い組み合わせになっていたりする。

POST

90年代の批評、小説、マンガ、アニメ、音楽のそれぞれ5つの論が載っており、そのうちアニメをのぞく4つには、90年代を知るための10冊(枚)と、マップがつけられている。


90年代の批評を扱った論では、『批評地図』、カルチュラル・スタディーズ、新保守の3つを取り上げた上で、それらに対して如何に宮台真司が一人勝ちしたのかということを論じている。


90年代の小説を扱った論では、村上春樹(80年代)と舞城王太郎ゼロ年代)を繋ぐものとして、阿部和重(90年代)を再評価するといったものである。前半は、主に批評家達の言葉を取り上げながら80年代の状況を整理している。そして、東浩紀中上健次を仲立ちとして、阿部と舞城を比較している。両者ともに、中上を意識している、記憶を重視している、「ハッキング」的な技法を駆使するなど非常によく似ている。しかし、阿部は90年代における文学のスターであったのにもかかわらず、ゼロ年代においてはほとんど一顧だにされず、代わって舞城がフィーチャーされているのは何故なのか(文学の外部へと活動を広げていくという点においても、阿部と舞城はそれほど違いがないのにもかかわらず)。論者はそこに「ロマン」の有無を見る。そこで参照されるのは、80年代の廃墟と90年代の廃墟だ。80年代の廃墟や暴力にはまだロマンチックな幻想があった。しかし、90年代、特に阿部和重は、それらを徹底的に滑稽なものとして描く。全く空虚なものへと変えてしまう。「終わりを暴露する」。それに対して舞城は「終わりから始まる」。そこには「ロマン」があると論者は指摘する。そしてそれが、J文学とライトノベルとの差異でもあるのでないかと述べる。90年代が徹底して廃墟を準備したからこそ、ゼロ年代はそこから始まることができたのだとして、90年代の意義を述べて終わっている。
村上春樹舞城王太郎を結ぶというのは、『ゲーム的リアリズムの誕生』で東が最後に述べていた「新しい日本文学史」の試みであって、この論はその端緒になっているのではないかと思った。
「廃墟」とか「暴力」とかから、まだ色々と考えることはありそうだなあと思った。この論もところどころに、黒沢清、あるいはセカイ系新海誠への言及があるけれど、黒沢・阿部・90年代的な滑稽な暴力や廃墟と、舞城・セカイ系ゼロ年代の暴力や廃墟の比較。もちろん、この論で既に「ロマン」の有無として示されているけれど、面白そうだなあと思う。


90年代のマンガを扱った論は、『幽遊白書』を取り上げている。「聖なる子ども」を描く手塚・トキワ荘マンガ、「成長する「聖なる子ども」」を描く80年代少年ジャンプ(トーナメント・システムと「努力・友情・勝利」)という前史を抑えた上で、80年代ジャンプ的なものへの批判として『幽遊白書』を取り上げている。特に、ヒロインの位置というものを分析して、ヒロインを戦いの外へ追いやるか、母としてきたスラムダンクドラゴンボールに対して、ヒロインを選ぶことでバトルではなく世界を救うという筋道になっていることに注目している。また、そうした変化と、この作品がやおいとして扱われてきたこととの関係も論じている。
このヒロインとの関係云々というのが、ジャンプではなくガンガンで育った自分としては『魔法陣グルグル』と似ているのではないかなあと思った。描かれた時期的には、圧倒的に遅れているわけだが。


90年代アニメを扱った論は、エヴァが如何にして「外部」を描こうとして、そしてうまくいかなかったということを論じている。ウテナナデシコにも触れて、アニメという形式が「外部」を描くのには困難な形式なのではないかとしている。ゼロ年代においても、いまだにその課題は残っている、とも。


90年代音楽を扱った論は、「Jポップ産業複合体」に対しての位置取りを考えるとして、小室哲哉ブルーハーツを扱っている。<サブカルチャー>としての音楽はトライブを表現するものとしてあったが、Jポップは、CDの普及、タイアップ、カラオケなどによって、ゆるくつながるための<共感>のツールへと変化した。歌詞が、かつては歌い手の心情を表していたのに対して、Jポップでは抽象的になり代替が容易となっているのはそのためである。まずは小室哲哉を分析することで、Jポップの特徴が抽出される。小室哲哉は「Jポップ産業複合体」にたいして絶妙な位置取りをしたのであるとされる。それに対して取り上げられるのが、ブルーハーツだ。もともとブルーハーツは、<サブカルチャー>的な音楽であり、ある種の政治的なメッセージを持っていたのだが、個人の心情を重視する歌詞などから、Jポップ的な<共感>ベースの受容をされる。それが特徴的に現れたのが、ゼロ年代の「青春パンク」である。さて、この微妙な捻れが、ブルーハーツのファン層に、「超越願望」や「宗教」「ファシズム」的なものを生じさせてしまったのではないかと論じていく。そしてそれは、同時代におけるオウム真理教とも重なっていく。95年にブルーハーツは解散し、ハイロウズへと変わるが、彼らはブルーハーツ後期から歌詞を無意味なものへと変えていく。これは同じく95年に、宮台が脱オウムとして意味から強度へと述べたこととも重なるのではないか、と論じている。

『F』

まずは、岡田利規「三月の5日間」論で、ここでは岡田が描く一人称複数形の世界を論じている。ゆるやかなつながり、主人公の主体ではなく、集合的な主体のような主体でないような感じである。そしてこれは、ネットにおけるあり方を非常によく写しとっているのではないかと論じている。この論者は、論文の後に置かれた「この人は他にこんなゼロ年代のテクストを読んでいます」というコーナーで、青木淳悟円城塔、あるいは保坂和志などを挙げている。僕はまだ、岡田や青木をちゃんと読んだことがないのだけれど、この他に前田司郎なんかを加えたりすると、この「ゆるやかなつながり」的なものを描くゼロ年代作家グループというのを、「ゆるやか」に描けるのではないだろうかと思った。
この「ゆるやかなつながり」話というのは、明らかにゼロ年代において来ているだろうという感じがしていて、これについては塚田憲史も同様のことを論じているはずである。
伊坂論と米澤論はちょっと飛ばします。


長嶋有論。阿部和重などが、意味を過剰にしていくことで意味を内破していく作家だとすれば、長嶋や柴崎友香はできる限り意味を付与しないという戦略をとる作家だという。それを佐々木敦は「日常の日常性」に耐えると述べているらしい。この論ではさらに、「主体の逆転」「私小説の逆転」「差異の逆転」ということが述べられている。長嶋有は、実を言えば、今までそれほど興味を持ってなかったのだけど、これを読んでちょっと気になり始めた。


りすか論も、面白かったのだけど、短いので要約などしづらいので省略。
それから、桜庭一樹論は、少女とかまなざしとかの話なのだけど、僕がそれほど得手としないので省略。


舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』論。これを書いた人は、『POST』で90年代小説論を書いた人と同じ人である。ここでは、舞城が作品に如何に全体性を持たせようとしているかが論じられている。前半では、彼の「ハッキング」的な戦略(様々なジャンルの混淆)が、この作品のテクスト自体が「郵便空間」的になっていることなどが述べられている。つまり、単なる入れ子構造になっているわけではなく、開かれた半-空間になっていることである。しかし、後半からはがらりと変わって、この作品で描かれる「死」がいかに「崇高」と「美」を提示しているかを論じている。ジジェク(カント)によれば、崇高は美のあとに現れるが、論者によれば舞城では崇高のあとに美が現れる。崇高とは不快・死と結びつけられる。崇高・不快・死のあとに、美・快・生が立ち上がるのだという。半-空間によるゆるやかな繋がりに、この崇高・死に支えられた美・生が強度を与えているのだという。
90年代の小説論において、論者が示した舞城における「ロマン」とはこの「崇高」と「美」を指すのであろう(また、新海誠の「風景」が同じ役割を果たしていることをどちらの論でも指摘している)。


ところで、『F』ではこの論文のために行われた構想発表会が、座談会として収録されている。ここで論者に対してなされていた指摘は、そこでいう「崇高」とはファシズムと何が違うのかというものである。論者はその後に書かれたこの論文においても、必ずしもそれに答えているとは言えないだろう。
90年代的なものにはロマンがなく、ゼロ年代的にはロマンがあったとして、そのロマンがファシズムとも繋がりうるものだとするならば、90年代的なものとゼロ年代的なものとの比較というのはまだやり残したことがあるのではないか。少なくとも、宇野常寛的な整理で終わらせることができないのではないか、とも思える。
例えば、『POST』収録の90年代のアニメ論において、新海誠の「風景」もまた「外部」を補填するためのものだったのではないかと述べられている。一方で、コードギアスなどは全く「外部」性のないものとして一蹴されている。コードギアスは、いわゆる物語のレベルで「決断主義」と称されることはっても、表現のレベルにおいては全く安全なものであったともいえる。新海誠の「風景」や、あるいは佐藤心が超越性を見出そうとしていた『Air』の「空」が、宇野的には「古い想像力」であったとしても、よく言えば「ロマン」や「崇高」ないし「外部」を、悪く言えば「ファシズム」を呼び寄せるようなものであったとしたならば、それはやはり論じられるべきものなのではないか。


というわけで、この二冊は面白い! と思うのだけど、残念なことは、論によって引用部分にインデントがかかっていなくて読みにくいこと。
段組とかは、全く他人のことは言えたものではなくて、自戒も含めていうのだけど、何かもっと読みやすかったりかっこよくなったりするのではないかと思ったりする。
あと、『POST』は、まえがき、目次、編集後記などに使われているフォントが読みにくかった。

Children

冒頭が、http://d.hatena.ne.jp/sz9の中沢忠之「アプレゲールのリアリズム」。
戦後美術史の論争史を、「政治と文学」論争になぞらえて紐解いていくというもの。
ここに要約したり、論じたりというような内容でもないので、そういうのは省略するけれど、そういう対立軸がかつてあったのかと勉強になった。岡本太郎とかもちゃんと読んだことがないので、岡本と花田清輝がそういうことを言っていた人たちなのか、とも思った。
しかし、これの後に自分の論が来ているのは果たして大丈夫だったのだろうか、とも心配になった。
添田健一「子猫と拳銃」と「部屋」は、それぞれの漂っている雰囲気がわりと好きかもしれない。
陸条「フロストフィールド」は、書いている小説内部と外部がシームレスに繋がっているのは面白いと思ったけれど、それが生かせていないと思った。というか、語り手の日常シーンがバラバラすぎる感じがした。あと、文がなんかごつごつしているというか。
それから、フリーペーパーとVol.4の夏目陽の小説を読んだ。「イエスタデイズ・ワンス・モア」と「Atelier」。どっちもうまくまとまっているなあと思った。ただ「Atelier」は設定に不自然なとこがあるので、最初入っていきにくいかも。一度画家のターンになってしまえば、最後までいける感じがあるけど。「イエスタデイズ・ワンス・モア」はよい。

ソフラマ

青い鳥文庫のような小説」座談会は、ソフラマ!にとってのライトノベル観というのが見え隠れしていてい面白かった。ライトノベルの定義などはする必要がないのだけれど、ライトノベル観というものを打ち出していくことは必要なのではないかなあと思う。その意味で、この座談会はその端緒になってんじゃないのかなと思う。
読んでいて、何となくソフラマの人たちの間では共通認識があるようだというのが分かる。今度は、その共通認識の部分を言葉にしてほしいと思った。まんが・アニメ的リアリズムとか言っているけれど、それは言葉だけ借りてきました感がすごくする。
「キャラクターからプレイヤーへ」は、何だかよく分からなかった。該当の作品を読んでいないのだけれど、こういう複雑なモデル化が必要なのかどうかが。要するにベタに読めちゃうってだけの話ではないのか。環境というのが二重化しているのか。
「スマガ論」は読んでいて、『AllYouNeedIsKill』を思い出した。「スマガ」を反セカイ系としているけれど、そういう意味でも『AllYouNeedIsKill』も取り上げた方がよかったんじゃないかなあと思う。反セカイ系というのをどういう意味合いで言っているのかよく分からないけれど。

aBre

全部読んではいないけど、『我楽多道中』と『ザグヴァス山脈の一村における高地ゾンビ語の記述および一考察』が面白かった。

Critique As "Readymade"

峰尾俊彦「新たなる「ジャンル」概念に向かって」
ゼロアカ道場の人たちは、みんな(ではないにしても多くが)ニコニコ動画を論じていて、同じようなことを言っている、と言われる。峰尾は、その筆頭とも言うべきかもしれない。だが、峰尾はどうも他の人たちとはちょっと異なることを言おうとしているのではないか。これはそれを何となく感じさせる論になっている。
ニコニコ動画論というと、濱野智史福嶋亮大の分析に代表されるような、その場における生成力を扱っているものが多い。新しい形での創作とは何か、というような問いだ。
それに対して峰尾がこの論で問おうとしているのは、MADとは何か、だ。
MADはどのように作られるのか、と、MADとは何か、では明らかに問いの形が違う。もっとも、その問いへの答えは非常によく似たものになるか、あるいは全く同じものになってしまう可能性もある。
またこれをもってして、峰尾は他のニコニコ動画論をやろうとしているゼロアカ道場生とは違うのだ、と言い切ることも難しい。
しかし、明らかに何か厄介なことを論じようとしている感じはある。
デリダを使ってエロマンガを考える、というのは、何というか時代錯誤的なところもあるかもしれない。
カワムラケン「<既製品>としての批評」
ゼロアカ道場論。
まだ実際には終わっていないにもかかわらず、ここに完璧にまとめられてしまった感がある。

東大批評

自分たちの座談会が載っているのだけど、テキトーなこと言いっぱなしでごめんなさいとしか言いようがない。まあそもそも、テキトーじゃないことを言えるのかというと、そうでもないので、もうこれしかないわけだけど。
前田和宏「<楽譜>考」が面白かった。
吉増剛増の変遷を辿って、楽譜から音楽を読んでいくこと、この場合テクストから詩を読んでいくことについて論じていく。自分の中のリズムを重ねていくこと・重ねられたものが<楽譜>である、という論。音楽をいかに論じるかというテーマのもとで書かれていて、ここから内なるリズムと音楽について今後どう展開するのかというのが楽しみだなというのが一つと、これを古川日出男論へと使えるかもしれないなと思ったのが一つ。
有村悠「pixivにおける巡音ルカ二次創作イラストの調査報告」は、そのタイトルが示すとおり調査報告だけれど、面白かった。なるほど、確かに女の子の方が絵を描くよねっていう忘れかけていたことを思い出したw
石田英敬インタビューもざーっと読んだ。情報学環とかがどんな感じでできていったかというのがざっとだけど話されていて、へえと思った。

*1:新現実』か何かに、マンガで天皇がどう描かれてきたかをまとめた論文が載っていたはずだけど、手元にないので確認できない