中島一夫『収容所文学論』

これが批評って奴なんだなーと思った。
いわゆる批評と呼ばれる、柄谷行人とかすが秀美とか読んだことないからなー。
かなり全般的に、マルクスの価値形態論に依拠していて、それを使って色々と読んでいくというのは、なんか面白いなあと思う。何でマルクス貨幣論が使われるの?*1 とか思うけど、何か確かにつじつまがあってるような気がして、こういうのが批評なんだろう、とw

媒介と責任――石原吉郎コミュニズム

ラーゲリで強制労働させられていた詩人、石原を論じる。
まずは「集団化」と「平均化」を区別する。「集団化」は拒みつつ「平均化」に平等を見出す。そして、交換の不均衡とか単独性とかから、ラーゲリ*2の中で単独者として生きることがどういうことかを炙り出していく。

プロレタリアートはどこに行ったか――パゾリーニの暴力

イタリアの詩人パゾリーニの撮った映画『王女メディア』の作品論が面白かったかな。
その名の通り、メディア=媒介の物語。透明化してしまったメディアを物質化する暴力(最後にメディアは家を炎上させて死ぬ)

踏切を越えて――志賀直哉の“幼女誘拐”

志賀直哉の「児を盗む話」について。
欲望ではなく欲動によって、本人もわけのわからぬままに動いている、としているが、それは、父という象徴秩序=権力から離れた「群集」の論理である、と。しかし、この作品に置いても、またそのごの志賀作品においても、父=権力へと屈服=和解していくのである。
あの子でもこの子でもない、商品と群集

隣接に向かう批評――糸圭秀美の“六八年”

新左翼と文学と批評の関係ってこういうものなのかなあという勉強(?)

空虚と反復――村上春樹の資本主義

『神の子供たちはみな踊る』や『ねじまき鳥クロニクル』(と『門』との比較)を中心に、「コミットメント」へ変わったって言うけどどうなの? 的な話。
内面の全面化とか、資本主義の論理が反映されまくっているとか、「路地=水平」ではなく「井戸(イド)=垂直」で、もはや地図や空間ではないとか

グランド・フィナーレ』を少女愛ロリコン)抜きで!

書評とかが、ロリコンについて触れないようにしているのはおかしいだろ、という指摘。
「I」とか全然他者じゃないし、ってかわざとらしいしとか
ロリコン批判が、フェミニズムじゃなくて石原的マッチョイズムからしかでないのはどうなのとか。
少女=天皇?とか

社会学化した現在――中村文則『銃』を読む

「内面」を描く文学から、「選択」「可能性」を論じる社会学

新日本零年――星野智幸『無間道』を読む

依拠する理論や主張は全然違うけど、読み方は近いかなと思ったり。つまり、あれは輪廻転生なんじゃなくて、複数の世界の重ね合わせなんだ、っていうのが。こっちはそれを、ラテンアメリカ的な「未来の記憶」への応答として読むわけだが。
三島やバタイユドゥルーズロッセリーニとも比較されていく。

90年代批評とは何だったのか――柄谷行人と批評の空間

批評空間ってなんか80年代だったと勘違いしそうになるんだけど、思いっきり90年代の雑誌なんだよね。
まあそれはともかく、文学や批評を成り立たしめているのは「場=空間(サークル)」であるが、それはもう70年代には崩壊しており、『批評空間』というのは延命装置だったにすぎず、それも結局消えた、と。
東がデリダの「コーラ」に注目したり「サイバースペース」に注目したりしたのは、そういうことだろう、と。

文芸批評批判序説

批評の始まりって小林秀雄の「様々なる意匠」だと思われているけど、あれって『改造』懸賞の二等で、一等は宮本顕治「「敗北」の文学」だったんだよね。でも、何で小林の方が有名になったんだろうって話から始まる。
で、柄谷『探求』とか東の固有名論から、単独性について論じていく。
貨幣って価値を担っているわけでなく、単にシステムのために超越的ポジションに置かれてるだけ。それと同様に、固有名も単独性を担っているわけではないよ、という指摘。

収容所文学論

収容所文学論

*1:まあ、柄谷が使ってるからなんだろうけど

*2:それは現代社会の比喩としてもある