文芸誌(磯崎憲一郎「終の住処」他)

『新潮6月号』

磯崎憲一郎「終の住処」
磯崎作品のテーマはこれだっとかズバッと言いにくいのが磯崎作品の特徴だけれども、それでもやっぱり磯崎作品は大体どれも「時間」というのが通底していると思う。
この作品でも時間そのものを感じさせるような描写があるのだが、この作品の場合は、「時間」からさらにいって「人生」というのもテーマだろう。「人生」が既に決まっていたかのような感じである。これは冒頭の沼のシーンで強く印象づけられるし、直接的にもそういうことが何度か述べられるし、最初と最後で妻と自分の貌が同じであるということにも現れているし、例えば赤ん坊の描写のいくつかにもある。
ある男が、30くらいで結婚して、浮気をして、子どもが産まれて、遊園地へ行って、また浮気をして、家を建てて、アメリカに単身赴任をして、日本に帰ってくるというまでの話で、舞台は70年代くらいから90年代くらいまでの日本である。
男の半生をすっかり描こうとしているのであるけれど、何かこうトゥルーマンショー的な雰囲気を漂わせているところがある*1
平凡な人生といえばそうなのだけれど、娘が二歳の時に遊園地へ行って家族三人で観覧車へ乗った後、何故か突然この夫婦は十一年間会話をしなくなるという不可解な出来事があったりする。その十一年の沈黙を破って、「家を建てるぞ」と宣言したあとに出てくる建築家も、謎めいた宗教家的な雰囲気を醸し出していたりする。
主人公の母も出てくるけれど、これもまたどういう役割を果たしているのかよく分からなかったりするし。
そういえば、○○だと思ったら実はそうではなかったパターンも、何回か出てくる*2
淡々としているように見せかけて、全然淡々としていなくて引き込まれてしまうような気がするのが、磯崎作品の面白さであると思う。


三島賞が明後日発表になるらしい。

『群像6月号』

中島義道「『純粋理性批判』を噛み砕く」
先月号あたりから、自由についての話。
今回は、人間の行為の自由について。
因果則と自由意志を如何に両立させるかということについて、中島は二つ説を出す。一つは二世界説。これは、要するに物心二元論で、中島は即座に却下するし、カントもこの説は一度論じていたが純理の時点では既に放棄している。
もう一つは、二関心説。一つの行為に対して、因果則を追求する理論的関心と、責任を追及する実践的関心の二つの関心のあり方があるとするもの。これならば、合理的に解釈できると中島は述べる。
この二関心説は、この前『「意識」を語る』を読んでいるときに辿り着いた考えと似ている、あるいは同じもののような気がする。



変愛小説集2「妹」ミランダ・ジュライ 岸本佐知子
岸本曰く、喪男小説
いい年して独身である男に、妹を紹介してやるよと言われるのだけど、何故かその妹にはいつも会えずじまいという話。
まさかとは思いますが、この「妹」とは
そしてウホッ
こんなまとめ方でごめん

群像 2009年 06月号 [雑誌]

群像 2009年 06月号 [雑誌]

新潮 2009年 06月号 [雑誌]

新潮 2009年 06月号 [雑誌]

*1:もちろんそういうオチはない

*2:読んでいる最中は思い出せなかったのだけど、そういえばこれは誰かが中原昌也について指摘していた特徴だった