『国文学増刊 2009年6月号』『すばる6月号』『群像7月号』

国文学増刊

特集「小説はどこへ行くのか 2009」
病/鹿島田真希
豊穣の角/円城塔


[鼎談] 岡田利規鴻巣友季子福永信 「船は波を切って進む」
『アクロバット前夜』の話から始まる。段組をするのはデザイナーであって自分たちじゃないというところから、物質としての言葉を並べているのが作家だという話をしている。(昔は、版組職人が「こんなもんは本にはできない」とか言って、作家より偉かった時代があるらしい)
岡田、福永が共に、先人として阿部和重を挙げていた。岡田はさらに保坂和志の名前も挙げていた。福永の『一一一一一』が面白そう。鴻巣が、それに似ている作品としてベケットの何かを挙げていたけど、タイトル忘れたw カタカナ三文字。たぶん『ワット』
鴻巣が、影響関係というのは読む人の側が作っていくものと言っていた。
「ちょっと実験的なことをやると必ずロブ=グリエの名前が出てくる、ちょっと土着的なことをやると必ずガルシア=マルケスの名前が出てくるように(笑)」みたいな発言もあった。
岡田は今長編を書いていて、どこまで長く書けるか挑戦したいとか、面白い物語を書きたいとか言っていた。物語が意識しないと書けないとか。
福永が自分で、自分と岡田と円城と青木あたりを同じグループに分類していた。手元の少ない材料でどれだけ語れるか、と。鴻巣ベケットを挙げる。でも、ベケットは袋小路で、逆に彼が袋小路までいってくれたおかげでみんな戻れた、とか。福永は、自分たちの歩いてる先は、袋小路じゃなくて崖かもね、とか。


それから、古谷利裕の青木淳悟『このあいだ東京でね』論
丁寧に読み解いてあって、青木の読み方講座みたくなっている。この作品は途中で諦めていたので、また読みたい。「情報」。不確定な対象。途中で、語り手である「私」が出てくるが、一人称になるわけでもなく、近づいたり離れたりを繰り返しながら進行していく。

すばる

小野正嗣による岡真理インタビュー。
サルトルの、アフリカにいる子供たちにとって文学は役に立つのか、という問いから始まる。
ところでこの問いには、「文学を必要としない彼ら」と「文学を受容する私たち」という前提が隠されているのではないだろうか。小説は一体、何故、誰のために書かれるのか。
小野は、読者のためだと思うけれど、結局自分のためかもしれない、という。
カナファーニーは、アラブの人々のために書いていると岡は言うが、一方でアラブの人は小説を読んでいないともいう。あるアラブ人は、真実は全てコーランに書かれているので、被造物である人間の書いたものから真実を知る必要はないのだと言うし、そもそもアラブ圏の識字率はまだ低い。一方で、カナファーニーの小説が日本語訳されたとき、最初にそれを読んだのは在日に人たちだったという。彼らは、カナファーニーの小説の中に自分たちの問題を読み取った。岡はこれをして、ベンヤミンがいうところの、テクストは死後の生を生きるということだとする。
小野は、東南アジア文学の学会などに出たときに、現地でどのような人に読まれているのかというテクスト外事実が取り上げられる時間が長くて驚いたという。フランス文学などでは、読まれていることがそもそもの前提になっているから。
アフリカの小説や舞踊で、いわゆる「アフリカ」っぽいものがないと、ヨーロッパ人は「これはアフリカっぽくないね」と言ってしまう。アフリカでも都市部で生活している人たちにとっては、「アフリカっぽい」ものよりも都市生活の方が既に日常的な風景であり、それを題材にすることも当然なのに。人は、見たい者だけを見てしまう。
小説や教養というのは、本来余剰なもの。
とある映画で、ナチスに一人反対した女性の話がある。勇気ある女性に感動の涙というコピーがつけられていたが、彼女が捕まるシーンでその周囲を取り囲んでいる人々の視線は非常に冷たい。その当時の価値観からすれば、彼女は「テロリスト」に他ならないから。では、何故彼女にはナチスに反対することができたのか。それが教養のなせるわざだろうと岡がいうと、小野が自分の教えている学生に聞かせたい話だが自分が話しても説得力がないなと笑う。
小説は本来余剰なものであり、有用性はない。文学や思想が「役に立つ」ことで何百人もの人が死に追いやられることがあることを考えれば、むしろ役に立たない方がいい。
それでも、書かざるをえない人たちがいる。

すばる2009年7月号

すばる2009年7月号

群像

第三回大江健三郎賞記念対談「自分を批評家に育てる方法」大江健三郎安藤礼二
読書→批評→創作


「<世界史>の哲学」大澤真幸
第五回 悪魔としてのキリスト
前キリスト・ユダヤコスモロジー=マニ的善悪二元論=それをハイパーさせたものとしての、グノーシス主義キリスト教を比較している。
前者には、善悪の対立があり、本来あるべきところから離れてしまったがゆえに、悪となってしまっているという考えがある(ハイデガーの「不気味」と「故郷」の分析とファシズムの関係にもふれつつ)。それに対して、キリスト教は、それらが区別されていない(荒野(悪)を沃野(善)に変えていくとき、荒野と沃野が区別されていたわけではない)。神の国は罪人に属するとキリストがいうとき、それは文字通りに捉えるべきである。


「『純粋理性批判』を噛み砕く」
次回で最終回らしい。結局、ずっと読んだなあ。


『ゼロの王国』書評(水牛健太郎
文章が洗練されすぎるとストレートに現実を書くことができなくなる(明治期の翻訳文が何故作られたのかという水村の考察に触れて)。現在の日本語の洗練=硬直化を破るために、『ゼロの王国』の不自然な文体は採用されている。その文体でしか語ることのできない世界。また、ドストエフスキー『白痴』を下敷きにしていて、登場人物や設定・場面などの多くがそこから由来している。
『ゼロの王国』読みたい。


「侃侃諤諤」
創作合評合評。なぜか、やる夫と増田とbot。創作合評を振り返るという意味では面白い読み物になっているけれど、やる夫などを出してきた意味はまるでなし。


「創作合評」
稲葉真弓苅部直・伊藤氏貴
本谷「あの子の考えることは変」、柴崎「ドリーマーズ」、磯崎「終の住処」
本谷作品・23にしては幼いと思ったけれど、うまく設定された年齢。無意味な行為や会話が希望につながる。煙突はちゃんと取材しないと書けない書き方がされていた。
磯崎作品・珍しくわかりやすい(笑)。昔話みたいな雰囲気・異様さ・非現実さ。妻が謎(まったく心情が書かれていない、セーブされている)。死を意識するのには、主人公の年齢はまだ早いのではないか。


創作合評を読んで気になったので、『群像6月号』の本谷有希子「あの子の考えることは変」も読む。
中盤くらいまでは、笑いながら読んだ。Gカップだけがアイデンティティの巡谷と23歳処女で自分の体臭におびえる日田。日田の妄想に呆れながらも一緒に暮らす巡谷は、セフレである横チンを太らせて「モンスター」にしてしまおうとしている。日田の妄想と巡谷のツッコミが、とにかく笑える。横チンにふられた巡谷が日田とともに横チンの家を襲撃した後、ごみ処理工場に忍び込んで煙突にのぼるところでおわる。「考えること」が「変」な「あの子」とは日田のことだが、読んでいれば巡谷も「変」であることが分かってくる。社会に溶け込んでそうで溶け込めてない、エキセントリックな人々のエキセントリックさとその発散。面白かった。

群像 2009年 06月号 [雑誌]

群像 2009年 06月号 [雑誌]

群像 2009年 07月号 [雑誌]

群像 2009年 07月号 [雑誌]