特集「『思想の科学』の原点をめぐって」
〈インタヴュー〉『思想の科学』の原点をめぐって──鶴見俊輔氏に聞く── 聞き手:藤野寛、伊勢田哲治
これは、初期のアメリカ哲学の輸入者としての鶴見の功績を探ろうとする藤野、伊勢田に対して、鶴見がこうなんだかはぐらかしていく感じのインタビューになっていて面白い。
思想家とは言われても、なかなか哲学者とは呼ばれない鶴見を、しかし十分に哲学者としての功績を果たしているのではないかと藤野、伊勢田は考えているわけだが、鶴見は、いわゆる日本の大学における哲学に対して批判的なスタンスを崩さない。「痛いところをつかれたなあ」とか言いつつも。
藤野が、フランクフルト学派と『思想の科学』は非常に近いのではないかという指摘する。彼らの間に実際の繋がりはないが、そういう内容的な繋がりを見出すのが哲学史なのではないかと鶴見は応じる。例えば、『思想の科学』のメンバーの中には、鶴見から見るととてもスコットランド常識哲学派と似ている人がいるとか。
日本にはプラグマティズムがない。ジェームズがああいったとかデューイがこういったとかは言うけれど、それはプラグマティズムではない。日本の材料を使って日本の方法論でプラグマティズムをできないといけない。
それから、アメリカやマルクス主義との関係など。鶴見は、英語ができる(かつ日本語ができない)自分を相当コンプレックスにしているようで、アメリカに戻ったら鬱病になるからといって1942年以降は全くアメリカに行っていないとか。『思想の科学』は一見左翼的な雑誌とも見えるが、実際に共産党員だったのは鶴見和子だけであり、民科ができたのを受けて和子が『思想の科学』はもう必要ないかもしれないと言ったのに対して、他のメンバーが共産党と繋がっていない雑誌があるのもいいじゃないかと言って『思想の科学』が出来上がったとか。
鶴見は、どのような質問に対しても、大抵『思想の科学』同人の話で答えている。彼はこんなところがすごかったというような話をしている。
伊勢田などは、分析哲学からの影響などを語らせようとするけれど、クワインは学問上の師に過ぎないとばっさりする場面も。自分の生き甲斐みたいなものと繋がっていないとだめだ、ということを鶴見は主張する。
「分析哲学者としての鶴見俊輔」伊勢田哲治
お守りとしての言葉論と、情動主義の説得定義の比較を試みる論。
よく似ている点とオリジナルな点があり、また、情動主義の論文を鶴見は直接読んだわけではないが、影響関係という上では、情動主義を唱えた者と非常に近い点にいるということを伊勢田は指摘する。
またその上で、伊勢田が重視するのは、鶴見論が当時の日本の政治的状況などを背景として抱えていることであり、彼の論が情動主義と異なっている部分は多くそこに絡んでくる。最後に、応用哲学を展開する上で鶴見を参照することは非常に重要であろうと締めくくっている。
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