大江健三郎『万延元年のフットボール』

物語的な意味でも、政治・社会的な意味でも、最近の小説より豊か(?)であることだなあと思った。
おそらく読み取れていない部分も多い気がする。
大食らいの女ってどういう意味だったんだろう、とか。
障害をもった子供が生まれてきて、夫婦仲が微妙になっている主人公夫妻(蜜三郎。弟の名前が鷹四で、兄がS次。じゃあ長男は? あと、『最後の吐息』の蜜ってここから来たんだろうか)
友人が自殺して、蜜は家の庭の穴ぼこにうずくまる(『ねじまき鳥クロニクル』の元ネタ?)。
鷹の帰国。四国の故郷へと向かう。
蜜も鷹もかつて学生運動に関わったっぽい。蜜はほとんど覚めている一方で、鷹はまだ何かしら思いを抱いているっぽい。
二人の故郷はかなりの田舎で、となりに在日朝鮮人の集落もあり、S次はそことのいざこざで死んでいる。また、その朝鮮人の中の一人が経営しているスーパーマーケットが村の経済を圧迫している。
次第に蜜は村の中で孤立していく。青年団や妻が鷹へと心酔していき、鷹は自らをかつて一揆を率いた曾祖父の弟と重ね合わせ、青年団を率いてスーパーと村を「祭り」の状態へと引き込む。
しかし、「事故」が起こり、鷹は自殺する。
曾祖父の弟が、予想していたのとは違って自らの志を死ぬまで貫いていたことを、実家の穴ぼこで知った蜜。
革命家たる鷹=S次=曾祖父の弟を、蜜は終始、覚めた目で見つめ続けている。S次を巡って、鷹と絶えず記憶がすれ違う。一方で蜜は、奇態を装って自殺した友人と自らを重ね合わせてしまう。要するに蜜は、死者(あるいはそこに障害をもった我が子も含まれるかもしれない)と自らの類似と偏差にずっと苛まされ続けている。妻はその意味で、前半では蜜のコピーなのだが、彼女は鷹によってその苦悩を脱してしまう。
蜜は最後に、革命家を肯定するに至るのだが、妻によってその身勝手さを諭され、日常へ戻ることもできず、アフリカへ旅立つことを決める。
曾祖父の弟が率いた一揆や鷹の起こしたことは、学生運動アナキズムや戦争中のファシズムを示しているのではないだろうかと思うのだが、それをどのように扱っているかということを考えると複雑。
死者に囚われ続ける蜜が、如何にそこから脱するに至ったか。

万延元年のフットボール (1967年)

万延元年のフットボール (1967年)