今月の文芸誌

『文学界2月号』

青山真治平出隆平野啓一郎座談会

ソウルで開かれた東アジア文学フォーラムに参加した3人の座談会。
3人とも出身が北九州なので、北九州の話や韓国の話など。
フォーラムでは、莫言が書をすらすらと書いてかっこよかったけど、開催地が韓国のせいか、漢字の話ができなかったとか*1
北九州と博多は(方言が)違うとか
北九州と韓国は、どっちも黄砂がきて風景の見え方が似ているとか

東浩紀「なんとなく、考える」

diggの分類方法で、文学がライフスタイルの項にくくられていることから、文学・思想・批評といった人文的思考一般の困難性について考える。
映画や音楽がくくられているエンターテイメントの中にも入ることができず、むしろ自動車やダイエットと同じライフスタイル・趣味の中に文学はある。
批評の趣味化を推し進めてきたのが自分(東浩紀)であることは否定しないが、この流れを「歓迎」しているわけではない。
文学や哲学は趣味以上の何か切実さを持ちうるのか、という問いだと僕は捉えた。
それは僕にとってもなかなか気になることで、僕はことあるごとに、哲学というのは変な奴がやってる特殊な営みなのだと人にはいうのだけれど、じゃあなんでわざわざ自分はそれをやりたいと思っているのかということを考えると、ぐるぐるしてしまう。
切実でなければやめてしまえばいい。
これはまあ、個人レベルの話で、東が言っているのはそれがさらに社会レベルの話になるわけだけど*2

『すばる2月号』

こちらにも、東アジア文学フォーラムの報告レポートがあって、青山真治星野智幸が書いていたが、眺めただけで読んでない。
星野は韓国のネット事情とかをちらほら

陣野俊史「「その後」の戦争小説論」

連載評論2回目。
現代の戦争小説を5つにグループ分けする。
1、戦争体験の記憶が日常生活に入り込むもの(目取真俊とか)
2、架空戦記もの
3、「911」やイラク戦争を取り扱っているもの(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』など)
4、直接言及はないが、「戦時下」を思わせるもの(星野智幸『在日ヲロシヤ人の悲劇』、佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、阿部和重シンセミア』など)
5、著者は戦後生まれなのに、第二次大戦について書かれているもの(奥泉光『石の来歴』、古処誠二など)
で、今回はそのうちのグループ2に関して、前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』、吉村萬一『バースト・ゾーン』、三崎亜紀『となり町戦争』が、それぞれテレビ画面との関わり(画面で描く、画面の中に入り込む、画面を消す)から論じる。

「文学のヘンタイを極める」

諏訪哲史の講演と鼎談。
文学って適切にパッケージングされているからヘンタイじゃなく見えるけど、突然街の真ん中や電車の中で、小説の文章を詠じてる人がいたらヘンタイじゃん。だから、文学ってみんなヘンタイなんだよ。
その上で、そういう仕切りを崩しちゃうような、デュシャンの『泉』やケージ『4分33秒』みたいな超越論的ヘンタイ性ができればいいな。

『新潮2月号』

表紙がかっこわるくなった。

東浩紀ファントム、クォンタム」第5回

学生たちに「もとの」葦船往人について教えてもらっていた「ぼく」だったが、そのショッピングモールにテロリストが襲撃してくる。
パニック状態に陥るショッピングモールで、「ぼく」は「この世界の」妻子を助け出したいと思い、探し始める。
一方、風子は理樹から、並行世界全体が崩壊するかもしれないことを教えられる。並行世界計算は、それぞれの世界を資源として行われるために、決して無限ではない。風子が別の世界の往人に手紙を出したことで、歪みが生じてしまった、と。
最初、理樹の言葉に耳を貸さない風子だが、不意に彼を許すことになり協力する。
二人は、まさにテロリストで襲われている真っ最中のショッピングモールへと人格を転送する。
妻子の死体に遭遇した往人と、風子、理樹が一堂に会する。
それにしても、理樹が一体何をやろうとしているのかがまだわからなくて、風子はいぶかしむ。
別の世界への人格転送は、多重人格気味の人の体に乗り込むことで行われているっていう設定だったのか、知らなかった。
量子計算論とかについて延々と語る部分は、イーガンSFっぽくて面白いw
これで第一部完結で、続きは4月号らしい。

『群像2月号』

大澤真幸「世界史の哲学」

新連載。
特殊性の中から普遍性は何故生じるのか。
ホメロスや『源氏物語』を読んで感動が生まれるのは、その作品に何らかの普遍性が宿っているからだろうが、そもそもそれらの作品はとても特殊な、個別的な文化背景から生まれてきたはずである。そして、そのような文化背景を必ずしも理解していなくても、その面白さは理解できる。なぜか。
歴史をもとに普遍性を相対化する、というのはよく行われていることである。
普遍だと思われていたことが、例えば西欧近代の特殊な文化背景のもとに生じた出来事に過ぎないということが、明らかになってきた。
しかし、まさにそうした特殊なはずのものが、普遍性を持ちえているではないか。少なくとも、普遍性の「看板」をもっている。
例えば「人権」。看板を持つことによって、フィクションでありながらも、実際に普遍化していったではないか、と。
あるいは、「資本主義」。今では、イデオロギーも文化も関係なく、中国もイスラムも資本主義化しているではないか、と。
この連載では、「資本主義」とさらにその根本にある「キリスト教」から、特殊性から普遍性がどのように生まれるかを考える。

中島義道「『純粋理性批判』を噛み砕く」第11回

第2アンチノミーのアンチテーゼ
世界は単純なものからなっていない
を噛み砕く。
今回は、簡単。

創作合評

松永美穂中村文則宇野常寛
佐藤友哉デンデラ」について。
最初から、ゼロ想パラダイム全開の宇野たん。「デンデラ」はロスジェネの寓話! でも、最後に結局自意識のロマンが出てきて、徹底できてない。中途半端だ。
一方松永は、悪の描き方が『子供たち怒る怒る怒る』とは変わったことを指摘する。
また、中村は、何で北海道なのか分からない(無場所的なのに)。枚数が多いのに羆と疫病しか出ていなくて、展開に無理がないか。あるいは、あまりにもマンガ的で、そもそも小説で書かないでマンガで描いた方が面白いんじゃないかという。
宇野は、佐藤は小説ではなく物語を書いているのだから、小説としてどうこう言っても仕方がないし、そこが佐藤の長所なのだという。
僕は佐藤友哉はわりと一貫していると思っているので、宇野のいうように、世の中の流行と比べて遅いとかやっとゼロ年代を輸入したとかは、やはり違和感があるし、文体とかどうのこうの言うなというのも、ちょっとなあと思う。
佐藤友哉の文体って、確かにおかしいところ満載なんだけど、それは文体なんかどうでもいいから、なのではなくて、それはそれでやはり彼の文体なのだと思う。そしてそれは、中村が「あくまでも一般論として」マンガじゃなくて小説で書くってどういうことかと問いかけたことに対して、彼なりにやっていることなのではないかと思うのだけど。
まあ、個々の瑕疵に関して、指摘されて確かにおかしいなあと思うところもあった。

*1:日蝕』の難しい漢字は、当時のワープロではでなくて手書きなのがいくつかあるんだって

*2:個人的な話をするならば、その切実さみたいなものを信じられなかったから、院に行く=研究者になるという道はやめた