スティーブン・スティッチ『断片化する理性』

今までの認識論のプログラムの問題点を指摘し、認識論的プラグマティズムを提案する本。
様々な心理学実験によって、人は下手な推論ばかりをしているのではないかと思われ始めている。
一方で、筆者がデイヴィドソンデネット論証と呼ぶものに見られるように、分析哲学においては、人間は合理的であって下手な推論をすることはありえない、という考えが主流になっている。
筆者は、もしそうなら先の心理学実験の結果はどう解釈すればいいのか、もし下手な推論をすることがあり得ないのだとしたら認識論の規範的プロジェクトはもう役割がなくなってしまうのではないか、そもそも上手い推論とか下手な推論とかってどうやって評価するのか、という問題意識のもとで認識論へと取り組む。


特にそれほど特徴のない文体なのだけど、読み進めやすかった。
本の冒頭、ならびに各章の冒頭に、この本や章の展開がまとめられてあって、こういう本であればもちろんそういうのを書いておくことは当たり前のことではあるけれど、道筋が分かりやすくてよかった。
この本は基本的に、スティッチが批判の対象としている論証をまず前半で説明してから、後半でそれの問題点を指摘するというスタイルをとっているので*1、その意味でも事前にその流れが示されているのは必要だと思う。
この本は、スティッチの認識論のプログラムよりも、むしろ従来の分析哲学における認識論のプログラムがどのような論証の形になっていて、そこにどのような問題点があるのかを探るという方が分量がさかれている。


例えば、進化と合理性。
デネットらに見られるように、自然選択によって合理性は生じてきた、ないし、合理的だったからこそ自然選択の中生き残ってこれた、という考え方がある。
ここでスティッチは、このような考え方が一体どのような論証をとっているかを定式化してみせる*2
ここでいう合理性は最適な推論システムと捉えられる。
その上で、そもそも自然選択によって必ずしも最適なシステムが生き残るとは限らないこと*3
進化は、自然選択だけで進むわけではないこと*4
ここでいう合理的=最適な推論システムとは、真なる信念を生み出すシステムのことだが、真なる信念が生き残ることに重要とは限らないこと。
そもそも推論システムが自然選択にかけられていたかどうか分からないこと。
これらを問題点として指摘する。
進化論を哲学の論証の道具として使えるのだなということが面白かった。
ここでは、進化の実例や生物学の知見などが使われているわけではなくて、進化論の考え方を用いた論証だけがある。


それから、グッドマンの反省的均衡に対しても反論がなされている。
筆者はもともと学部生の時にグッドマンの授業を受けていて、グッドマンの考えに近かったらしいのだが、検討を重ねるうちにこれを退けるようになった。
グッドマン、そしてグッドマンだけでなく分析哲学的認識論全般に関して、単にわれわれの日常を何の根拠もなく特権化しているだけではないか、という疑義をつきつける。
さらに、そもそも真なる信念に価値はあるのだろうかという問いも投げかける。
第五章「われわれは本当に自分の信念が真かどうかを気にかけているのだろうか」
真なる信念というのは、信念全体からするとごく一部であり、それだけを特別扱いするのはおかしいのではないか、と。
むしろ、目的に応じて、役に立つ信念というのは様々なものがありうる。
スティッチは、最初から一元主義ではなく多元主義の立場に立ち続ける。それは、認識システムに関して、規範に関して、価値に関して、それぞれそうである。
その上で、プラグマティズムを提案するのである。
それに対して、相対主義という批判が浴びせられるが、これに対しても相対主義であることが何か問題なのかとスティッチは切り返す。
目的に応じて、様々な推論や推論の評価があるのだ、と。
彼の考え方は、後期ウィトゲンシュタイン的なところがある。それは彼自身、影響を受けたと書いている通りである。


訳者解説によると、スティッチは心の哲学を専門にしており、この本を境にその哲学的立場を大きく変えたらしい。
具体的には、もともと消去主義的だったのだが、むしろ「開放的多元主義」へと変わっていく。


断片化する理性―認識論的プラグマティズム (双書現代哲学)

断片化する理性―認識論的プラグマティズム (双書現代哲学)

*1:本全体においても、各章においても

*2:そもそも多くは、論証すら書かれていない

*3:コストの問題で、最適でない方がよいかもしれない

*4:遺伝的浮動など