『文學界4月号』ほか

文學界4月号』

岡田利規川上未映子車谷長吉島田雅彦諏訪哲史田中弥生筒井康隆*1中原昌也古井由吉山崎ナオコーラ*2高橋源一郎(司会)の11人座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」。
同誌は、50年前に13人で座談会「日本の小説はどう変わるか」*3が行われている。
そこでは最近の小説は、「ヘソなし小説」、つまり自分と関わりのないような小説だという批判や、中間小説はテレビに食われる、物語性をどうするか、などということが論じられていたらしい。
最後に、高橋源一郎が今回の座談会をまとめているが、その中で50年前の座談会においては、ある種の私小説批判がなされて、それに対して高見順が憤激している、と言っている。理屈としては、批判を展開する江藤が正しい。それに対して、高見の怒りは「私語」でしかない。「私語」でしかない言葉は、文学たりえない。しかし、「私語」がなければ文学にはならない、と高橋はいう。
そして、今回の座談会において、その「私語」の部分を担当したのが、中原昌也(そしてもしかすると車谷長吉)だったともいっている。
この座談会は、大きく二部に分かれていて、前半では各自の現状認識を、後半ではこれから何を書きたいかを述べている。
第一部
車谷:小説はもう書きつくされたのではないか。50年後にはなくなるのではないか。今62歳で、74歳までの創作ノートはある。
島田:小説に関してはむしろポジティブ。映画ができたとき、小説はなくなるのではないかと言われたがなくなってない。ただ、他のメディアとかマーケットとどう競合していくかという問題はある。
田中:純文学はF1みたいなもの。普通の公道では走れないような、実験のようなもの。広告的、エンターテイメント的なものが広がりがちだけど、純文学もちゃんとあるべき。
筒井:自然主義リアリズム一辺倒ではもう無理だから、いろいろなリアリズムを持ち込んだほうがいい。文学の滅亡よりも人類の滅亡の方が絶対早い。
山崎:言語芸術、純文学をずっとやっていたい。
諏訪:作者の死ではなく、読者の死。受動的読者が増えて、リテラシーのある理想的読者はもういなくなった。自分だけが読みたいものを自分だけが書く、というオナニズムの時代がこれからくる。作家としては、自分の書いたものからは一定の距離を保っていたい。
古井:解体することによって、本質に迫ることができる
川上:ドストエフスキーを過去の作品とは思わない。本屋で同じ棚に並んでいるから。その中で、とってもらえるようなすごい小説を書きたいと同時に、その小説を普及させる方法を考えたい。作家は死ぬが、作品は残る。
中原:小説じゃない仕事ってないですか
岡田:演劇の方が長くやっているが、小説をやると反響が大きい。小説が小さいとは思わない。演劇でも、小説でも、まだできるんじゃないかという感触がある。
第二部
島田:作家の社会的影響力の保持。言語芸術として、詩を復活させたい
田中:ナビゲーションとしての批評。
筒井:演劇的リアリズムや音楽的リアリズムを取り入れたい。バッハの対位法を、演劇ではベケットが取り入れたけど文学では誰もやっていない。反復を『ダンシング・ヴァニティ』でやった。
山崎:(作者の)人間関係云々とかいわれたくない。芸術のためにやっている。あとに残る作品を作りたい。
諏訪:読者としての自分を圧倒する作品を書きたい。根源的な核を持っている作品は、百年、二百年と読まれうる
古井:(50年前の座談会にも出てくる)良心の拘束性が窮屈でしょうがない。今はずいぶん楽。
川上:言語が他者であるということから自分の書きものは始まってる
岡田:演劇では自分の身体性を意識しないが(役者の身体は意識する)、小説は自分の身体性を意識しないと書けない。
中原:好きで書いているわけじゃない。やめればいいとか言われても、そんな自由はない。好きって何なんだろうか。
車谷:自分の思想的背景は、子供のころに村のお寺で聞いていた仏教。苦を書いてきた。(20代の時に小説を書いたが新人賞に落ち、その後料理屋で働いていた。だが、その作品を読んでいた編集者に何度も口説かれて35歳の時に小説を書くようになった。「拉致されて」書くようになったという中原とある意味で同じ。そこで、最初に書いた小説は、書きたくて書いたのか、と川上、山崎、諏訪が尋ねるが、そのことには答えようとしない)


佐々木敦による『ニートピア2010』書評
中原昌也を3期にわけ、この本を3期の始まりと位置づける。
「早く書き終わりたい」がために、異形の実験小説となった、『マリ&フィフィ』から『あらゆる場所に花束が』までの第一期。
「書きたくない」ことを延々と繰り返す、第二期。
しかし、中原は「書きたくない」のであって「書けない」わけではない。その書きたくないのに書けてしまうことを書いた『KKKベストセラーズ』は、しかし中絶し、「書きたくない」モードを抑えて書き上げた「点滅……」は芥川賞を逃す。
そして、この本から、「書き終わりたい」とも「書きたくない」とも違う(無論、それらは潜在しているのだが)第三期が始まる、とする。

小説トリッパー春号』

特集「ゼロ」年代の作家たち。
川上未映子辻村深月、前田司郎、万城目学本谷有希子米澤穂信へのインタビュー。
大塚英志の連載が最終回。いつもどおりのことを書いているだけだが、なんかとてもいい先生をやっているっぽい。

『群像4月号』

「オフェーリアの裏庭」海猫沢めろん
なんか、オチを読んで、しんどい話だなあと思った。
(追記080328
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080327/1206618361がこの作品を論じている。なるほどーと思った。ちなみに自分が、これをしんどい話だなあと思ったのは、映画館のエピソードとかで、この三角屋敷から逃れられると思ったのに、最後の一行でループさせられたから。でもまあ、単純なループってわけでもない感じ、特にkugyoさんの論を読むと)


「『純粋理性批判』を噛み砕く」中島義道
難解と呼ばれるカントが、実は易しいということを解説する連載評論。
第一回目は、カントがなぜ難解と思われているか、ということ。
カントは、現代ドイツ人にとっても、当時の哲学者にとっても難解であった。
カント自身は、通俗性ということにも関心があり、通俗性を得た文章を書こうとも思っていたが、通俗性から哲学を始めてはならぬとも考えていた。
ラテン語で思索し、それをドイツ語に直しているので難しい。
急いで書いた(4から5ヶ月で、岩波文庫にして1000ページほど)ので、わかりにくい。


文学界 2008年 04月号 [雑誌]

文学界 2008年 04月号 [雑誌]

小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 3/25号 [雑誌]

小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 3/25号 [雑誌]

群像 2008年 04月号 [雑誌]

群像 2008年 04月号 [雑誌]

*1:最年長、1934年生

*2:最年少、1978年生

*3:堀田善衛大岡昇平伊藤整(最年長、52歳)、遠藤周作高見順中村光夫石川達三山本健吉福田恆存石原慎太郎野間宏江藤淳(最年少、23歳)、荒正人(司会)