佐藤友哉「デンデラ」

一気に読み進む620枚!
怒濤のように物語が展開していく620枚!
この作品は、色々なところで今までの佐藤友哉作品とは異なっており、佐藤友哉の新境地ということができるかもしれない。
しかし、色々なところで今までの佐藤友哉作品との繋がりが、当然ながらある。
何よりこの作品で強調される、主人公の「物語」のなさ。主人公が、死ぬはずだったのに生き残ってしまった者であること。
これは、「鏡家サーガ」であっても、『灰色のダイエットコカコーラ』であっても、『世界の終わりの終わり』であっても共通してきたことだ。
それが、「あの90年代に10代のすべてを消費した作家」の間違いないスタート地点だ。
21世紀を迎えてもなお生き残ってしまった者は、一体どのように生きればいいのか。
そんな奴は死んでしまえと佐藤は言う。しかし死ぬことができなかったのだとも佐藤は言う。
「物語」のなさと絡めて言うのであれば、興味深いのは「333のテッペン」だが、日常へ回帰するというのが答えなのだというのであれば、灰色や世界と同じだともいえる。
それに対して、例えば『子供たち怒る怒る怒る』はどうだろうか。そのタイトル通り、怒りに満ちた宣戦布告。
その宣戦布告のエネルギーの先に、「デンデラ」がある。


これは、姥捨て山をモチーフにしている。
どうもデンデラというのは東北地方の姥捨て山伝説らしいが、多分この作品の舞台となっているのは北海道ではないかと思う。北海道弁がいくつか見られることと、あと羆やトドマツが出てくるあたり*1
姥捨て山に捨てられた老婆たちが、山の、村とは反対側にデンデラという老婆だけの村のようなものを作っているのである。
なのでこれは一方で、蠅の王的なものもモチーフにしている。というよりも、物語としてはまさにそれである*2
つまり、既存の社会から切り離されたところで、どのようにしたら新しい社会を形成することができるのか、というものだ*3
2つの派閥が相争っている。羆からの襲撃がある。疫病がある。その中で、どのようにして生きていくのか。
50人の登場人物が、様々なキャラクターをもって描かれる*4。最近の佐藤作品は登場人物が少ないが、この色々なキャラクターを見ていて、僕は『エナメルを塗った魂の比重』を少しだけ思い出したりしていた。
強い者も弱い者もいる。しかし、「強い」とか「弱い」とかいったことはほとんどいわれない。その50人は全員老婆であり、言うなればみな弱者だからだ。
彼女たちに対して、強者として立ちはだかるのは、村や羆であろうが、しかしそこで強い、弱いの対比はほとんどなされていない。考えてみれば、そこは今までの佐藤作品とは異なるところかもしれない。


それにしても、何故老婆なのか
この作品に登場する50人は、全員が老婆である。加えて、羆が登場するがこれもまたメスである。
確かに老婆であることを示すことは様々に書かれているが、しかし彼女たちは全然老婆には見えない。
まあ話し言葉としては不自然としか思えない単語を使うのは、まあ今に始まったことではないのでさておくとして、名前があまり老婆っぽくないし、そもそも体力がありすぎる。話し方が若々しい。
それから記憶力。老人を描いているのに、ボケた奴が一人も出てこない。
昔の人だから?
もちろん、そのような類のリアリティを求めるような作品では決してない。
これは全く作品にとって瑕疵ではない。
この作品は老婆たちが出てくるが、老婆を描いているわけではないからだ。
つまり、新しい社会を如何に作るか的な話だからだ。
しかし一方で、やはり老婆である必然性もある。
それは従来の社会からはじき出されるもっとも弱い者が描かれなければならなかったからだ。

新潮 2009年 01月号 [雑誌]

新潮 2009年 01月号 [雑誌]

*1:まあ正確な生息域はよく知らないけど

*2:id:ggincさんから、『十五少年漂流記』『蠅の王』『芽むしり仔撃ち』『無限のリヴァイアス』が、この手のジャンルに属する主な作品だろうと教えてもらったことがあるが、自分が読んだ(見た)ことあるのは、『芽むしり仔撃ち』だけだったりする

*3:佐藤友哉は、『ファウスト』で漂流少年ものを書いたことがある

*4:名前だけの奴も結構いるけど